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この瞬間が世界を名作にする。~異世界でコーヒーを飲もうよ~  作者: きゅっぽん
第2章 異世界生活編(読み飛ばし可)
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第16話 神殿の書庫

 広場で簡素な昼食を済ませたシュウとアヤナは、神殿の石造りの階段をゆっくりと上った。白い壁に差し込む午後の陽光がまぶしく、鳥の声だけが辺りに響く。


 「さ、デニスさんに会いに行こうか」とシュウが言い、重厚な扉を押し開けた。


 中はひんやりと静かだった。天井の高い廊下を進むと、奥まった祈祷室の隣で見覚えのある神官服が目に入った。


 「デニスさん!」アヤナが小さく声を上げた。


 顔を上げた神官――デニスは、柔和な笑みを浮かべて二人を迎えた。「先ほどぶりですね。では、さっそく始めましょう。まずは書庫へご案内します。こちらへどうぞ。」


 シュウとアヤナは頷き、デニスの後に続いて廊下を進んだ。やがて小さな木の扉の前で彼が立ち止まる。


 「こちらが書庫です。中は少し狭いので、足元に気をつけてくださいね」


 デニスがそう言って古びた扉の取っ手に手をかけると、「ギィィ…」と長く軋む音が静けさを裂いた。重厚な樫の扉がゆっくりと開く。その隙間から、外の空気とは明らかに異なる、匂いがふわりと流れ出す。

 空気は乾いており、紙と革が混ざったような香りに、ほのかに甘いバニラや焙煎したナッツを思わせる香ばしさが重なる。その奥には、わずかに金属のような酸味を帯びたインクの匂いと、古い建物特有の埃っぽさ、そしてかすかなカビの気配も混じっていた。

 書庫には窓ひとつなく、デニスが手にした燭台の揺れる炎だけが、闇の中に浮かび上がるように手前のテーブルとその奥の書棚を照らしていた。石造りの床にはまるで冬の冷気が残っているかのように冷たい印象を与え、足元からひやりとした感触が這い上がってくるようだった。


 四人掛けの重厚な木製のテーブルは奥の書棚に押し込まれるように窮屈そうに置かれており、その表面には長年の使用を物語る擦れやインクの染みが滲んでいた。テーブルの向こうの壁際には天井まで届く木製の書棚が奥へ向かって延び、さらにその間に狭い通路をわずかに残して同じような書棚が三列に並んでいる。

 棚の中には手書きの書物、羊皮紙の束、革装丁の古文書がびっしりと詰まっており、一角には鉄の鎖で棚に繋がれた書物の姿もあった。重要な書物を盗まれぬように、あるいは、封じ込めるために――そんな想像すら湧き上がる光景だった。

 外のざわめきは一切届かず、ここだけが別世界のように静まり返っている。長い時の流れに取り残されたかのようなその空間には、老境を迎えた者のような、陰鬱で疲れ果てた気配が漂っていた。


 「ここで写本をしていただきます」とデニスが言った。


 テーブルには、すでに羊皮紙の束とインク壺、細く削られた羽根ペンが置かれていた。シュウが興味深そうに手を伸ばしかけると、デニスが軽く手を上げて制した。


 「焦らずに。まずはこちらで練習して下さい」


 そこからシュウとアヤナは並んで椅子に腰掛け、デニスに指示されて見本の書類を書き損じの羊皮紙の空白に写す作業を始めた。


 「うわ、これ……思ってたよりずっと書きにくいな」

 シュウが眉をひそめながら、そっと羽根ペンを走らせる。だがペン先は滑らかに動くどころか、頻繁に引っかかってインクがにじみ、思い通りの線を引かせてくれない。


 「紙と全然違いますね……」と、隣のアヤナもぽつりと呟く。


 見た目は滑らかに見える羊皮紙だが、よく見ると表面はわずかに毛羽立ち、ところどころ硬く、弾力があった。現代のコピー用紙のように一様ではなく、ペン先を滑らせると微妙な凹凸に反応して筆跡が乱れる。筆圧が強いとインクが滲み、逆に弱いと線が掠れてしまう。


 「インクが乾くのに時間が掛かるし、弾かれて紙の上に残るインクをどうしていいか分からない」

 ぼやくシュウの手元の紙は文字の上に乾ききらない墨が光を反射していた。紙というより、なめし革に近い質感。肌に触れるとひんやりと冷たく、しかしどこかしっとりとした感触もある。


 「100均のコピー用紙の技術力に今更感心させられるな……」

 シュウが小声で冗談めかして言うと、アヤナも小さく笑いながら、再び羽根ペンを持ち直した。二人の様子を見ていたデニスが、穏やかな口調で声をかける。


 「焦らずに、時間が掛かっても丁寧に写すよう心掛けて下さい」


 そう言うと、デニスは棚の奥から一冊の厚い写本を取り出し、大切そうに両手で抱えてテーブルの向かい側に座った。手元にはすでに新しい羊皮紙の束とインク壺が並べられている。

 羽根ペンを静かにインクに浸すと、ためらいなく文字を書き始めた。乾いた紙にペン先がすれる微かな音が、静かな書庫に淡く響く。デニスの筆運びは滑らかで、無駄がない。目で追っているだけで、自然と背筋が伸びるような所作だった。


 「……あの、デニスさん」

 シュウは手元の羊皮紙から顔を上げて、遠慮がちに声をかけた。


 「はい?」

 ペンを走らせたまま応じたデニスに、シュウは少し言葉を探すようにして続けた。


 「羊皮紙って……やっぱり、けっこう高いんですよね?」


 デニスは書きかけていた文字を一文字書き終えると、軽く頷いてペンを置いた。


 「そうですね、一枚で銀貨八枚。決して安くはありません。だからこそ、練習には書き損じの余白を使ってもらってるんですよ」


 「うわ……高いですね。気を付けます。」

 シュウが思わず眉をひそめると、隣のアヤナも小さく頷いて、手を止めた。


 「それで、この仕事の賃金ってどれくらいなんですか? あとは、ぼくら……いつから本番に入れるんでしょうか」


 デニスは椅子に軽く背を預け、二人の顔を見回してから、穏やかに口を開いた。


 「最初にお願いするのは、近代の歴史や法律、伝承などの学術書ですね。これは文字が丁寧であれば十分ですから、まずはここから慣れていただきます。報酬は一枚につき銀貨三枚」


 「三枚か……」

 シュウが声に出して繰り返すと、アヤナはそれを聞いても片眉を少し動かすだけだった。


 「それに慣れてきたら、信徒の婚礼や葬儀の記録、それから大神殿への報告書ですね。こういったものは読みやすさに加えて、字の格式や美しさも必要になります。その分、報酬も銀貨五枚になります」


 「なるほど……」

 シュウは感心したように小さく頷いた。アヤナは真剣なまなざしでその先を待っている。


 「ただし、最後にある聖典や古文書の写本。これは、そう簡単には任せられません。何年もかけて訓練を積んで、ようやく触れられるものです。いわば、写本師の到達点のような仕事ですね」


 デニスはそこで少し微笑むと、アヤナの方を見た。


 「アヤナさんは文字も綺麗ですし、1~2時間も練習すれば実務に移っても問題ないでしょう。慎重ですしね」

 次にシュウに目を向け、少しだけ口元を緩めた。


 「シュウさんは……もう少し練習を重ねてから、ですね。でも焦らなくていいですよ。丁寧さは繰り返しで身につきますから」


 シュウは小さく頷いて、「はい」とだけ返すと、再び視線を羊皮紙に落とした。アヤナも黙ってペンを取り、二人はそれぞれの練習に戻った。




 しばらくして、シュウは写し元の原本の位置を少しずらそうと手を伸ばしかけたが、机の上のスペースが足りないことに気づいた。先に、横に積んであった練習用の書き損じ羊皮紙をどかそうと手を伸ばす。


 そのとき、紙の端に自分の親指の跡が残った。

 「……あ」

 インクの匂いがかすかに鼻をかすめる。どうやら、指にインクが付いたままだったらしい。

 危うく原本を汚すところだった。羊皮紙一枚でも銀貨八枚。それを写す原本となれば、どれほど貴重なものか――。背筋に冷たい汗が流れる。


 シュウはひとつ息を吐き、気持ちを落ち着けるために深く呼吸した。そして手を止め、視線をゆっくりと原本の羊皮紙へ向けた。

 慎重に書かれた文字列が目を滑っていく。文の意味が自然と頭に入ってきて、知らず知らず読み進めていた。その様子に気づいたアヤナが、ペンを止めて首をかしげる。


 「シュウ、ぼーっとして、どうしたんですか?」


 その声に、シュウははっとして顔を上げた。


 「あ、ごめん。ちょっと読んじゃってて……これ、物語が書かれてるんだよ」


 彼の前に置かれていた羊皮紙には、書写の手本として、国境沿いの山にある砦の物語が記されていた。


 その砦は、ダリオン・ハートフォードという騎士に率いられた四十四人の騎士団によって守られていた。高地に築かれた砦からは周囲を一望でき、敵国の動きをいち早く察知しては、山を駆け下りて迎え撃ったという。

 砦は堅牢で、ダリオンは“誠実なる決断”トゥルナスという剣と、アミュレット《太陽の印》を携えて、十度にわたる侵攻を退けたとされている。

 だがあるとき、討ち取った敵の騎士が持っていた“カトの心臓”と呼ばれる拳大のルビーを手に入れたことが、運命を狂わせた。その宝石をひと目見た部下の一人が欲に駆られ、裏切りの末に敵軍を砦に引き入れたことで、砦はついに陥落したという。




 「おや、こんなところにあったのか」

 突然背後から声がして、アヤナがシュウの横から覗き込んでいた羊皮紙が、ひょいと誰かの手に取られた。


 「えっ?」アヤナが驚いて顔を上げると、いつの間に書庫に入って来たのか、そこには30歳前後の細身で長身の男が立っていた。彼は襟元まできっちりと留めた白いシャツに、落ち着いた色合いのズボンを合わせており、その服装には皺ひとつない几帳面さが感じられる。整った顔立ちに、少し長めの前髪がかかり、どこか気難しそうな雰囲気を漂わせていた。


 「ロレンツィオ、それはお二人に写してもらっている写本です」


 デニスがやや呆れたように声をかける。ロレンツィオは顔の前に羊皮紙を持って来ると、内容をざっと目で追い、平然と口を開いた。


 「そうですか。でもこれは私の研究に必要なのですよ。」


 「……ロレンツィオ、あなたにもたまには写本を手伝ってほしいのですが」


 デニスの口調にはわずかな疲労がにじんでいた。しかし彼は、まるで気にする様子もなくテーブルの上の書類に目を走らせる。


 「研究があるので無理ですね。その二人は見習いなのでしょう。それぞれの仕事にはそれに相応しい者がいるのですよ。彼らには写本が、私には研究が。それでは。」


 それだけ言い残すと、ロレンツィオは背筋を伸ばしたままの早足で書庫を後にした。その背中を目で追いながら、シュウとアヤナは思わず顔を見合わせる。


 「……自由人だな」シュウが苦笑して肩をすくめると、アヤナも小さく笑った。


 「気難しい研究者って感じですね。……今の人、どなたですか?」


 アヤナの問いかけに、デニスは小さくため息をついてから、穏やかな口調で答えた。


「神官のロレンツィオです。ただ、彼は貴族の三男でして、実家からの援助もあって、神殿ではもっぱら自分の研究に没頭しています。とはいえ、その研究も神にまつわる歴史や教義に関するものなので……一応は、神殿の務めのうちには入るんですが」


 結局、その日の午後半ばを過ぎた頃、アヤナはデニスから本番の写本を任され、見事に1枚の写しを仕上げた。デニスはその出来栄えに満足し、報酬として銀貨3枚を渡すと、アヤナはそれを受け取って静かに頷いた。一方、シュウはまだ練習を続けることになり、時間をかけてその日の課題に取り組んでいた。

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