第10話 アローデールの街
二人は村の少年と別れ、慎重に村を迂回しながら田舎道を進んだ。道は踏み固められた土のままで、両側には一面に広がる草原が広がっている。風が草を撫でるたびに、さわさわと穏やかな音が響き、時折、小さな鳥が飛び立っては遠くの林へと消えていく。
長い道のりを歩き続け、夕日が傾き始めたころ、前方の地平線に目指す街が見え始めた。最初に目に入ったのは、木々の間から突き出た塔のような建物だった。それは見張り塔か、あるいは街の中心となる施設かもしれない。
道を進むにつれ、街の輪郭が徐々にはっきりしてくる。木造と石造りの建物が入り混じり、ところどころに赤や茶色の屋根が並んでいる。高い城壁こそないが、街の周囲には木製の柵が張り巡らされ、その手前には細い溝が掘られていた。どうやら盗賊や魔物の侵入を防ぐ最低限の防御策らしい。
街道はよく踏み固められ、馬車の轍や馬の蹄の跡が残っていた。しかし、人の姿はまばらで、行き交う者はポツポツと見られる程度だった。たまに後ろから荷馬車が追い抜いていき、馬の鼻息や車輪のきしむ音が静かな夕暮れの空気に溶けていく。
前方には、籠を背負った農夫らしき男が、ゆっくりと街へ向かっている。別の方向からは、旅装をした二人組が会話を交わしながら歩いていた。商人なのか、それとも傭兵だろうか。
「この時間だから、人も少ないのかしら?」アヤナが周囲を見渡しながら言う。
「かもな。昼間はもっと多いのかもしれないが、僕たちには分からないしな。」
二人はそのまま歩みを進め、やがて街の入口が見えてきた。門は高さ二メートルほどの木製の扉で、両開きになっている。その前には二人の門番が立ち、手にした槍を肩に預けながら、行き交う人々を静かに見守っていた。
一人は中年の兵士で、武骨な革鎧を身につけている。無精ひげを生やし、長年の勤務で飴色に日焼けした肌が印象的だ。もう一人は若い衛兵で、まだあどけなさの残る顔をしていた。槍を手にし、真面目そうな表情で通行人を見張っている。
門の前には数人の旅人や商人が並んでいた。荷馬車を引いた商人が門番と話し込んでいるのを横目に、シュウたちは列の後ろに並んだ。
「余所者だな。どこから来た?」
順番が回ってくると、中年の門番が渋い声で尋ねてきた。
「東の辺境の村さ。名前は……まあ、村としか呼ばれてなかったから、正確には分からないな」
シュウはできるだけ自然に答える。
「何をしに来た?」
門番の目が鋭くなる。
「家を親族に乗っ取られて追い出されたのよ。あの裏切り者のダリアンのせいでね。世の中滅茶苦茶よ! あなたもそう思うでしょう?」
アヤナは悔しげに息を吐き、腕を組んだ。
「まあ、不幸は誰にでも訪れるもんさ。幸運と同じようにな」
門番は一瞬面食らったような顔をするが、すぐに賢人ぶったようにそう言った。
「慰めありがとう。それで、夫と二人で仕事と住む場所を探してここまで来たの。農作業はできないけど、小作人の管理なら得意よ。ねえ、この街にはそういう仕事はある? あなた、管理人不足の農場主に知り合いはいないかしら?」
流れるような口調でまくし立てながら、アヤナは一歩前に出る。門番は思わず一歩引きつつ、戸惑った様子で彼女を見つめた。
それも無理はない。この異世界の荒削りな雰囲気の中で、アヤナの整った顔立ちと端正な黒髪は際立っている。街道を旅する女性は珍しくないが、彼女ほど洗練された雰囲気を持つ者はそうそういないのだろう。
ちなみにシュウも突然始まったアヤナの小芝居にドン引きし、それでも邪魔をしないよう空気に徹していた。それから門番は頭を振り、明らかに気配を消しているシュウの方を見て口を小声で呟いた。その視線には嫉妬と憐みを掛け合わせたような微妙な雰囲気があった。
「……すげぇカミさんだな」
「えっ?」シュウは思わず疑問を声に出してしまったが、後ろで腕を組むアヤナを見て門番が眉をひそめる。
「街の中で変な騒ぎを起こすなよ。通ってよし」
手を振って早く通れと促す門番。しかし、アヤナは足を止め、さらに質問を続けた。
「ねぇ、あなた。清潔で安全な宿ってどこにあるかしら。それで安ければなお良いのだけれど」
門番は少し眉をひそめ、答えに困った様子でしばらく黙る。やがて、うーんと考え込んだ後、ぽつりと言った。
「安くは無いが、それなら『白楡の館亭』がいいかもしれんな。」
アヤナは目を輝かせながら尋ねた。「そこへはどう行ったらいいかしら?」
門番は少し顎に手を当て、説明を始めた。「大通りを進んで、鐘楼を左に曲がれば、牡鹿通りだ。牡鹿通りの先に井戸のある広場が見えるから、そこのハシバミの木の下の道を進め。そこがハシバミ通りだ。ハシバミ通りをしばらく行くと、小さな川を渡る石橋がある。その橋を渡ったら、右に曲がってミモザ小路だ。その先に、白い家が見えるだろう。それが白楡の館亭だ。」
アヤナはその説明をしっかりと頷きながら聞いていた。やがて、口を開く。
「つまり、大通りを進んで鐘楼を左に曲がって牡鹿通り、そこから井戸の広場を越えてハシバミ通りへ。ハシバミ通りを進んだ先に川があって、その石橋を渡ったら右に曲がってミモザ小路、そこを抜けたら白い家が見える。それが白楡の館亭ね。わかったわ!ご親切にありがとう。」
すると、シュウが驚いたように言った。「え、今ので全部憶えたのか?」
アヤナはにっこり笑って答える。「大丈夫よ。私、記憶力には自信があるから。」
シュウとアヤナは礼を言い、門番に別れを告げると、門をくぐって歩き出した。アローデールの街の空気が、一気に二人を包み込む。シュウとアヤナは門番の言葉通りに街を進んだ。
夕暮れが街を黄金色に染めていた。大通りにはまだ活気があり、露店のランタンが次々と灯され始める。焼き立てのパンや香ばしい肉の匂いが漂い、人々は夕食の買い物に忙しそうだった。通りの一角では吟遊詩人が竪琴を奏でながら哀愁漂う歌を歌っており、子供たちがそれを囲んで聴いている。
「結構、賑やかね」アヤナが目を輝かせながら呟いた。
鐘楼を過ぎ、牡鹿通りへと入ると、通りの雰囲気は少し落ち着いた。石畳の道の両側には木造の家々が並び、窓からは暖かな灯りが漏れている。玄関先では主婦たちが世間話を交わし、猫が屋根の上で丸くなっていた。シュウは「なんか、のどかだな」と思わず口にした。
ハシバミ通りに入り、小川に架かる石橋を渡る頃には、空は藍色に染まり始めていた。橋の上から見下ろすと、水面には街の灯りがゆらゆらと映っている。
ミモザ小路に入ると、そこは静かで穏やかな雰囲気だった。家々の窓には灯りが灯り、道端のランタンが柔らかな光を放っている。その先に、白く映える建物が見えた。
「これが白楡の館亭か……ちゃんと着けたな」
シュウがぽつりと呟く。
「あら。私は記憶力は良いと言ったのですが、信じていませんでした?」
アヤナは、ふんと自慢げに胸を反らして足を止めた。
「いや、ごめん。もちろん信じてたさ。」たぷんと揺れる胸から視線を外してシュウは謝る。
白楡の館亭は二階建ての宿で、白い漆喰の壁が夕暮れの光を受けて柔らかく色づいていた。大きな木製の扉には鉄製の装飾が施されており、扉の横には年季を感じる看板が掛かっている。
「思ったよりも立派ね」アヤナは感心したように呟いた。
「確かに。これなら泊まり心地も悪くなさそうだ」
二人は一瞬顔を見合わせると、軽く頷き、宿の扉を押した。宿の門をくぐると、中から温かな光が漏れ出した。夕暮れの冷たい空気とは対照的に、宿の中は暖炉の火が揺らめき、ほんのりと焼き立てのパンの香りが漂っている。
受付にいたのは、恰幅のいい中年の女性だった。彼女はシュウとアヤナを見上げると、にこりと笑って声をかけた。
「いらっしゃい。白楡の館亭へようこそ。お泊りでいいかい?」
「ええ、一泊お願いしたいのだけれど」
アヤナが手際よく答える。女性は帳簿を手に取りながら頷いた。
「うちは二人部屋しかないけどいいよね。泊りは一部屋銀貨6枚。夕食は一人銀貨2枚。朝食は一人銀貨1枚。宿代は前払いで、食事はそのときに払ってくれればいいよ」
シュウは二人部屋という言葉に一瞬ビクリとしたが、アヤナは澱みなく会話を続ける。
「それでいいわ。あなた、お支払いをお願い」
シュウはアヤナを見つめながら何か言いたげにゆっくりと銀貨を出すが、アヤナはシュウの方を一瞥もしない。
女性は苦笑しながら鍵を取り出し、手渡してきた。「奥さんの方がしっかりしてるねぇ」
「はは、まあ……」シュウが曖昧に笑うと、女性は軽く肩をすくめただけだった。
「ほら、部屋は二階の奥。食事は一階の食堂で取れるよ」
アヤナは鍵を受け取り、シュウを振り返った。「じゃ、行きましょ」
「……お、おう」
軽く頭をかきながら、シュウはアヤナの後について階段を上がっていった。
部屋の扉を開けると、木の香りが漂った。堅牢な木造りの壁や磨かれた床が質実剛健な印象を与え、広さは六畳ほど。二人でも寝れそうな大きさの簡素なベッドと荷物用だろう木箱のみが置かれ、窓は格子で覆われていた。外の景色は見えるが、隙間は狭い。扉には内側から閂が掛けられるようだ。
シュウは室内を見回して息をついた。
「質素だけど、しっかりしてるな。雨風は凌げそうだ」
「そうですね。野営に比べればずっと快適です」
アヤナはベッドに腰掛け、軽くシーツをつまんだ。
「寝具も清潔そうですし、悪くありませんね」
シュウは森での過酷な野営を思い出しながら苦笑した。
二人が一階の食堂へ降りると、こぢんまりとした清潔な空間が広がっていた。木の温もりが感じられる内装で、静かに談笑する宿泊客たちの声が心地よく響いていた。
「思ったよりも落ち着いてるね」
シュウが席に着きながら言うと、アヤナも頷いた。
「ええ、騒がしくなくていい感じです。」
やがて、料理を運んできたのは、頑固そうな中年の男だった。
「今日の飯は、干し肉の煮込みと雑穀パン、それから根菜のスープ、酢漬けの野菜だ。それにワインか蜂蜜酒を1杯。煮込みはウチの自慢だから、冷めないうちに食べてくれよ」
男は手早く料理を二人の前に置きながらそう言った。アヤナは少し料理を見ながら考えて「あなた、折角ですからワインと蜂蜜酒を1杯ずつ頂いて、両方味見してみませんか」と言えば、シュウはほとんど考えることなく「じゃあ、それで」と言った。
男はそれに頷くと厨房へと戻って行った。
干し肉の煮込みは、森で食べた干し肉とは違って柔らかく、じんわりと旨味が広がる。スープは素朴だが野菜の甘みが溶け込み、雑穀パンと相性がいい。
「う~ん、昨夜とは大違いですね」
アヤナが嬉しそうに言う。
「本当。やっとまともな食事にありつけた感じだな。」
シュウも満足そうに頷く。
「ワインは、う~ん、甘酸っぱいくて、アルコール度数は低めかな。」
シュウはワインの入った木製の杯を手に取り、軽く一口含みながら、少し考え込んだ。
「でも革の味のする水や、森で食べた塩スープに比べるとメチャメチャ上手く感じるな」
「蜂蜜酒は結構甘いですね。甘みが身体に染みわたって疲れが取れそうです。」
アヤナは杯に入った蜂蜜酒を、彼女にしては行儀悪く、ペロリと一口舐めるとその甘さに驚いた様子を見せ、それから嬉しそうに頬を緩める。二人はそんな事を言いながら、しばらく静かに食事を楽しんだ。
二人は食堂を後にし、再び階段を上がった。廊下は静かで、遠くからかすかに外の風の音が聞こえる。部屋の扉を開けると、落ち着いた空間が二人を迎えた。
「色々話す事もあるけど、今日はもう休まないか? 正直、疲れて頭が回っているとは言い難い」
「賛成です。そうしましょう」
アヤナはそう言うと、当然のようにベッドに上がり、シーツを引いた。シュウはちらりとベッドを見やるが、すぐに視線を外し、床に目を向けた。
「俺は床で寝るよ」
「そうですか。ありがとうございます」
アヤナはあっさりとした口調で答え、そのままベッドに体を沈めた。その様子に、シュウは一瞬拍子抜けしたが、すぐに気を取り直し、外套を丸めて床に敷く。
ふと視線を上げると、アヤナはこちらを向いたままベッドで横になっていた。「まあ、さすがに警戒はするよな」シュウは口には出さなかったが、苦笑しつつ外套を掛け、固い床の上に横になった。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
アヤナの静かな声を最後に、部屋には静寂が訪れた。暖炉のない部屋はひんやりとしていたが、森の夜風に比べればずっと温かい。心地よい疲れに身を任せ、シュウはゆっくりとまぶたを閉じた。




