13話
気楽になったのか、躯体をぐっと伸ばした一之瀬は不細工な作り笑いで言葉を続ける。
「そうですね、残念ながら普通じゃない先輩には普通じゃない私としか相性が良くないかもしれませんね」
「かもな」
どこか満足気な表情を見るに本人の中で、少しでも心の整理ができたのなら良かった。
「それで、その、なんだ。 話は変わるが悪かったな」
「? 先輩何か悪いことしたんですか?」
「いや。 まさかキスするなんて思っても無かったから口臭というか、色々生理的にきつかったかと思ってさ」
赤面を隠すように顔の前に指を合わせて謝罪をすると、一之瀬は間の抜けた顔をしてから軽く鼻で笑った。
「ははっ、そんなのある訳ないじゃないですか。 そんなこと気にしてたんですか?」
「そんなことって……俺にとってはファーストキスなんだが?」
ただ何気なくツッコミを入れたが、どうやら彼女は他の返答がご所望だったらしい。
「はは。 それは先輩が覚えていないだけですよ」
「覚えてない? なんのことだ?」
飲みかけの缶を俺の唇に押し付けて、頬を赤らめた一之瀬は俺の前で胸に手を当てながら堂々と宣言する。
「ファーストキスはあの子に譲る事にします。 でも覚えておいてくださいね! 先輩との間接キスは私が初めてってこと」
「本当に、全く。 分かった、覚えるように努力するよ」
「……約束ですよ? 私は初めてを二回もあげたんですから」
「まぁ俺は欲しいなんて一言も言ってないがな」
一之瀬にそんな気がないのは分かっているのに、恩着せがましく与えてやったなんて言い方をされると露骨に人間嫌いと猜疑心が吐出して、つい突き放すような態度で声を立てていた。
幼さ故に滲み出た皮肉を一之瀬は大人びた笑みで一蹴した後に愛おしそうに空を見上げて胸を張る。
「私は! 私は、貴方でよかった」
皮肉に対する返答とは思えないどこか吹っ切れた言葉を瞼を閉じて吐露するその姿は、流れ星に祈っているかのように穏やかで憂いに満ちていた。
チカチカと光を点滅させる星の輝き。 寂寞の空はまるで地球に取り残された彼女を心配しているかのように雲を晴らし、街灯よりもずっと眩しい光の風呂敷で世界を照らし出す。
星々の輝きに照らされて鮮明になる少女の赤く染まった目元。 そこから零れ落ちる決別の一雫は思いの丈を乗せて静かに風へと攫われた。
ふわりと薫る匂いは彼女の香りか、海から漂う潮風か。 どちらにせよ、胸の奥をつんざく濃青色の空へと両手を握る彼女の姿は今すぐ抱きしめたくなる程に儚さを孕んでいた。
「俺なんかのどこがいんだよ?」
立ち上がって彼女の頬へと手を伸ばす。
「そうですね。 あなたが人を想う優しさに満ちた人だった。 たったそれだけですけど、私はそれに報われたんです。 先輩。 ありがとうございます」
少し目を泳がせて言葉を選ぶ彼女はきっと本気で俺と出会えた事を喜んでくれているのだ。 出会って間もない俺を、人とは違う俺を、全部引っ括めて良かったと言ってくれている。
「いちいち大袈裟なんだよ。 ただ、まぁ。 そうだな」
今思えばこの時の俺は本当に自惚れていたと思う。
不意に思い出した記憶すら疑って、本質だってこの時点で気がつく事も出来たのに。 そんな機会をまんまと逃して彼女の想いが詰まった言葉を勝手な解釈で解ったつもりになっていた。
「其処まで評価してくれてるなら俺はお前に後悔させないよう『死ぬ気で大切にしないといけないな』」
きっとこの日、この時、この発言が俺の人生の分岐点だったのかもしれない。
俺のまだ知らない彼女の真意を知るのはもう少し先の話。 この時はただ両手を後ろに組んで、振り返りながらそのあざとくも可愛らしい笑みを俺にだけ振り撒く彼女が愛おしくて仕方なかった。
一之瀬はそのまま照れ臭さを隠すようにタイミングよく電車のやってきた駅のホームへと駆け出した。
きっと今だけはお互いが同じ気持ちだったと思う。 恥ずかしくって、でも晴れ晴れとしていて、曖昧な感情の心の置き場がわからなくって、だからどうにも居た堪れない。 そんな気持ち。
「先輩!」
俺の方を振り返りあざとく、可愛らしい作り笑いをする一之瀬は腰に手を当てて声を張る。
「来週の土曜日にデートしましょう! 先輩に恋っていう最高に幸せな感情を芽吹かせてあげますから覚悟して解いてください!」
意気揚々と宣言してくるその姿はいつもの一之瀬で、調子が戻ったなら良かったと心の中で安堵しながら片手をあげてバッサリと謝罪する。
「悪いがその日は友達と遊ぶ予定があるから無理」
朗らかな笑みで応えると彼女は目をパチクリとさせて同じく笑い返してくれる。
もちろん嘘だ。 行けるなら行きたいが外出許可には飼い主に許可を取らないければならないし、許可を取るにしても娘である一之瀬カノンとデートをしたいからなんて理由、口が裂けても言えない。
これで逆鱗に触れでもしたら、考えるだけでも恐ろしい。
「そうですか……どうしてもですか?」
「うーん。 うん。 デートは無理」
「そっか」
不服そうに俯きながらもそれ以上何も言わないので理解してくれたのだろう。 良かった。
そう思って俺も帰る為に前へと歩き出そうとした瞬間。 一之瀬は腰を落としたまま拳をぐっと後ろへと引き、高速で力の入った一撃を俺の鳩尾に叩き込む。
「がは」
「きますよね?」
生物としての圧倒的急所を的確に狙い撃ちされ、内臓の痛みでその場に倒れ込むと目の前に現れた一之瀬が未だそのあざとい表情を崩さずにしゃがみ込み、ドスの効いた声でもう一度俺に尋ねる。
「きますよね?」
え? 何これ怖い。 先に入っていた予定を優先したってシチュエーションは正当性があるんじゃないの? もしかして選択肢間違えた?
混乱する中で一之瀬と目が合い、漸く彼女の顔に書かれた本音が読み取れる。 無言だがしっかりと頬にこう書かれていた。
女の子にここまで言わせておいて断るなんて非常識な真似するわけないですよね?って。
怒ってる。 間違いなく御立腹だ。 まさかあれほど石橋を叩いて渡っていたのに、到着した橋の先すら地雷があったなんて想定外なんて物じゃないぞ。
美化された時間が彼女の打撃によって終演を迎え、現実に戻ると同時に認識を改める。 どうやら俺は相当厄介な女に関わってしまったようだ。
こんな暴力で訴えかけてくる奴だったなんて……
疑似恋愛なんてものを承諾するべきでなかったなと後悔が過ぎるが、既に自分が一之瀬を異性として見ている時点で後悔したところで何も変わらないのだと悟りふっと鼻で笑いほくそ笑む。
「むrーー」
この後何があったかを語るのは無粋だろう。
ただ一つ言えるのは付き合うってのは思っている以上に自分の自由と意思が尊重されないのだ。
*
「遅いですよ! 連絡もつかないし……」
少し大人びた青色のワンピースに白い薄手のカーディガンを身に纏った一之瀬が指定の待ち合わせ場所で俺に手を振っている。
コーディネートは無難な組み合わせなのに彼女の結った髪が織り成す青いインナーカラーと黒い頭髪が良いアクセントとなって、いつものあざとく可愛らしい雰囲気とは一変して大人びていた。
これでも待ち合わせ場所である駅前を十分程度歩き回っていたのだが、ここまで化けられると気づけと言う方が無理がある。 何はともあれ彼女の方から声を掛けてくれて助かった。
「誰のせいだ、誰の!! 家に送ってくれたことは感謝するが気絶してる間に勝手に携帯のロック変えやがって!! そのせいで一週間も携帯使えなかったんだぞ!!」
気絶している間に携帯電話を弄られ、家で目を覚ました時には待ち合わせ場所と日時が記入されたメモアプリのスクリーンショットにロック画面が変えられていた。
相当に信用がなかったのだろう。 勝手に俺の携帯のパスワードを設定して開けないようにするってそんなことあるか? 確かにパスワードを設定してなかった俺にも非はあるがそれにしても酷すぎる。
「いいか! 俺以外には絶対にするなよ!! 俺はスマホを普段連絡手段としてしか使わないからそこまで甚大な被害は被ってないが、人によっては発狂して自害するレベルの所業だぞ!!」
「それに関しては申し訳ありませんでした。 私も、あの時はつい気が動転してて……タクシーで家まで送るために携帯を勝手に開いて、個人情報を見たことは謝ります。 ごめんなさい。」
「いや携帯にロックかけたことを謝れよ!!」
「だってそうしないと来なかったでしょ? それに先輩だって、以前私の携帯を盗んで同じように強制連行したじゃないですか。 あれ、まだ忘れてませんから」
確かに一之瀬の携帯を盗んだのも無理矢理カフェに付き合わせたのも相違なく真実だし彼女の言い分も一理ある。
でもだからってやられたからやり返すなんて古典的な事するか? いや、するわ。 俺でもするわ。
怏々にして彼女の発言を否定すれば、それこそ未来の自分にその矛先が向きかねない。
どうにも憎みきれない正論と叱るに叱れない過去の愚行。 何より一之瀬が言う通りで、携帯がロックをされてなかったら俺は絶対にデートに来なかったと俺自身が断言できる。 故に何も言い返せない。
「なんでそんなに一之瀬は俺に対する解像度が異様に高いんだよ。 信用なさすぎて普通に凹むぞ?」
「むしろ信用してるからの対応ですよ。 先輩が人としてダメダメで、気を使えない、恋愛に適していない人間だって知ってますから。 ただ、ここまで想定内だとドン引きレベルですね。 もしも今頃盧先輩と付き合ってたなら破局ものですよ?」
「あぁはいはい、どうも邪魔してくれてありがとうございました」
「分かればいんですよ。 分かれば。 疑似恋愛でも恋愛なんですから寄り添う努力をしてください」
本当に可愛くない後輩だな。
正直今日はデートとかする気分じゃなかったから携帯のパスワード教えてもらって速攻帰るつもりだったのだが、確かに一之瀬の言うことは一理ある。
人を好きになりたいのなら自分とは違う生き方をしてきた人間を許容する努力は然るべきだ。
「そう。 だな。 んじゃ彼氏から一言。 めちゃくちゃ可愛いよ、似合ってる」
「な!! な!!」
結われた髪の毛、お洒落な服装、馴染んだ薄化粧。 凡そ高校生には見えないその装いからして相当時間をかけて来たのが窺える。 ならせめて今日一日ぐらいは彼女の為に付き合ってあげなきゃ人としてダメだろう。
素直に褒めてあげると、垢抜けた雰囲気を醸し出していた一之瀬が年相応の恋愛慣れしてない純粋な反応をしながら俺の胸元に小走りでやって来てポコポコと両手で攻撃してきた。
「てかちゃんと来たんだしさ。 デートの前に携帯のロック早く解除してくれない?」
「まだダメですよ。 先輩の人間性は折り紙付きなので」
そりゃそうだよな。 携帯にロックをかけられた翌日、急いで一年の教室まで赴いて一之瀬に携帯のパスワードを解くように問い詰めても駄目っだったもんな。
「やっぱり駄目か。 ま、駄目なら駄目で携帯の件は百歩譲ってよしとして、それとは別にお前のせいでいよいよ学校に居場所がなくなり始めているんだが何か弁明とかある?」
「はて? 何のことでしょう?」
とぼけた様子で斜め上に視線を向けて頬に人差し指を添える一之瀬は露骨に話を逸らそうとする。
「流石にその反応は覚えてんだろ」
「あー! もしかして先輩が私のクラスに来た時に私がわざと艶やかな表情「でデートが終わったら解いてあげますよ」って耳元に口を添えしたあれですか?」
「それだよ! あの後周囲にいた勘違いをした一年が噂を流して、おかげで! 俺は! 学校中の話題の的! 盧の一件もあって唯でさえ居心地の悪かったのに今じゃ学校は針のむしろだ」
「あらら。 其処まで大変なことになっていたんですね。 それはちょっと申し訳ないです」
目をうるうるとして愛嬌を振りまく一之瀬の反応に怒りよりも先に落胆してしまう。
「……あぁ。 頼むから周囲への変なアピールだけはやめてくれ」
彼女が容姿端麗なのは重々承知してはいたが、まさかここまで周囲に相当な関心を集めていたなんて完全に想定外だった。
結果として俺は廊下を歩くだけで周囲の男子達から軽蔑の眼差しを向けられる始末。
何度か一年のいる二階に赴いて直ぐにでも携帯のロックを解除してもらおうと試みたが、一年男子の結託した排斥によって発言は疎か安易に行動すらできない状況下はまさに地獄。
よってこの一週間は周囲の噂が落ち着くまで身動きが取れず、今日まで一之瀬に会うことすら憚られていたのだ。
漸く会えたこの小悪魔のような擬似彼女をどうしてやろうかと、はらわたが煮えくり返っていたのだが結局は彼女の掌の上で踊らされているの現実。
もう色々と感心しながら今日は諦めて一之瀬に従うことにした。




