12.5話
初めて感じる柔らかな触感と仄かに感じる鉄の味。 本来ならば吸血されている痛みによって理性が働き彼女を押しのけるのが自然な行動なのに、この身体は何故かその唇と凝着することを望み、離れることを拒んでいた。
「ご馳走様でした、これで契約は完了です」
言葉尻を上げてあざとく感謝を述べる月光に照らされる妖艶な笑み。
頬を赤らめる少女は唇に中指を当てて、口角から吸い溢れた血痕を舌なめずりして見慣れた人の姿へと擬態する。
当然だが生まれてこの方恋愛というものに距離を置いていた男子に異性への免疫なんて有りはしないし、ましてや中身が残念だからと恋愛対象外だった美少女からの接吻なんて想定外も想定外だ。
血液で充満する口内の中にほんのりと感じる甘味、それが自分の体液でないことぐらい容易く理解はできる。
「先輩、もしかして……」
「え? はい?」
何が起こったのか分からずに呆然としている俺を他所に、一之瀬は表情を一変して曇らせると続けて何かを言おうとするが「いえ、なんでもありません」と彼女は喉元まで出かけた言葉を押し殺した。
惚けて眺める一之瀬の顔は何故かやけに深刻そうで、心配して声をかけようとしたその時、突如として後頭部を金属バットで殴られるような激しい頭痛に襲われる。
これは船舶の中? 見覚えがあるようで無い情景とそこに佇む少女の幻影が視界に映る。
『ねぇ。 省吾くんは何がしたい?』
とても懐かしいようなその声を俺は知らない。 君は一体誰で、ここはどこなんだ? 視界は一人称視点なのに体の自由は効かず、心に縛られた意思で問いかけようにも目の前にいる彼女にこの声が届くことはない。
状況を例えるなら視界と感覚だけを共有した亡霊のようだ。
「そうだな。 できるなら旅をしたい。 遠く、遠く、誰も俺を知らない世界で多くを見るんだ。 そして全てを見た後に笑ってこう言うんだ。 ちっぽけな悩みだったってさ」
鉄格子の中、ぼろぼろの心で語った夢や理想。 何処となく幼さが残った甲高い声は間違いなく声変わりをする前の自分の物だった。
だとしたらこれは俺の記憶? 俺は、誰と語り合っていたんだっけ?
『凄い! いいなぁ。 憧れるなぁ。 ね。 私もつれてって! 私も一緒に行きたい!』
「いいよ。 んじゃここを出て自由になれたなら一緒に世界を見ようぜ」
覚えていないのに懐かしく感じる記憶の断片。 隣の檻から少女が嬉しそうに残った腕を伸ばすから、俺も彼女の手を握って寒い船内で二人寄り添いあった曖昧な過去。
確かあの子も契約という言葉を使っていたが上手く思い出せない。
いや、きっと気のせいでただのデジャブだ。 俺が幼い頃にした映像と映像が混ざり合ってさも過去に有ったように感じているだけの気の所為に違いない。 だから気にしちゃいけない。
遠のく映像と共に頭痛もすっと引いていき、何事も無かったかのように体は沈静化する。 どれほどの時間が経ったのか定かではないが瞼を開ければ再度一之瀬の今にも泣きそうな顔が目に入った。
何が脳裏にフラッシュバックしたのか。 頭痛の正体と知らない記憶の既視感も気にはなるが今は一旦置いておいて、取り敢えず一之瀬が呟いた契約と言う単語について詳しく聞こうじゃないか。
そんな事を思っていた意気込んでいたのだが、人の姿に戻るや否や一瞬で青ざめた彼女の様子から揶揄って良い状況ではないと察知して口を噤む。
そこまで俺とキスした事実が嫌だったのならキスなんて直接的な契約ではなく、もっと簡易的な方法。 それこそ血液を吸って人の姿に戻れるなら首元をひと噛みして吸血してくれた方がよっぽどマシだった。
「あー。 服びちょびちょだな。 これじゃ電車にも乗れないな」
気まずい雰囲気が漂う中で何か適当に話題を変えようと、俺は濡れた服を摘んで困ったふりをする。
「…………服、乾かしますから取り敢えず脱いでください」
「お、おぉ」
海水で濡れた服を一之瀬が無言で乾かしてくれたので帰りの服の心配は無くなったが、彼女の手のひらから出る謎の熱風はいわゆる魔法というやつなのでは!?
乾いた服に袖を通せば生乾き臭もせず、寧ろクリーニングに出したようなフローラルな香りがして人魚って便利な能力を持ってるんだなと大層感動した。
一之瀬としては俺に自分が人魚だと証明できてこの上ないほどの成果だっただろうに何で未だに曇った表情をしているのだろう。
ただ落ち込んでいるなら軽口を叩いてこの沈んだ空気を変える事もできただろうが、如何せん今の彼女から漂う雰囲気は大切な人の訃報を聞かされたような絶望と悲哀そのもの。
下手な事を言えば泣き出しそうな地雷臭がして声を掛けようにもかけられない。 そりゃあ彼女が何を思って落ち込んでいるのかは気になるが、そう言うのは本人が話したくなった時でいいだろう。
「しかしこれはヤバいな……」
人差し指と中指でなぞる唇、いまだに残る柔らかな感触と高鳴る鼓動、馬鹿な俺でも気づく。
きっと俺は、彼女を一人の女性として意識してしまってるんだ。
静まる世界の片隅で、最寄りの駅へと向かう街灯に照らされた石畳の歩道。
一人で考える時間も必要だと慮って俺は敢えて歩幅を合わせずに一之瀬の数歩前を歩いていたのだが、後になって思えばそれが一之瀬にとっては堪らなく嫌だったのかもしれない。
「ねぇ、なんで一緒の歩幅で歩いてくれないんですか……」
「歩いたら話すのか?」
「……」
ダンマリか。 もう誰でもいいから一之瀬カノンの取扱説明書でも作ってくれないか? 勝手にキスして、勝手に無言になって、勝手にかまってアピールして、何を求めてるのかさっぱりわからん。
改めて夜風に当たって冷静になれば一連の流れが一之瀬の我儘に付き合っているようで極めて不愉快で面倒だ。
一之瀬を一人の女性として意識するようになったとしてもやはり人に寄り添うと言うのは難しい。 これが恋愛というものなら盧と付き合わなくって正解だったかもしれない。
「一之瀬、どうかしたのか?」
このまま放置してもなんら問題はないだろう。 しかし人を愛するというものの意味が人に寄り添ってこそ生まれるものだとしたなら今すべき事は地雷を踏むとしても彼女に歩み寄る事だろう。
「少し、休憩しませんか?」
意外な提案にそっと振り返ってみるとそこには制服の裾を強く握りしめて不服そうに頬を膨らませている一之瀬の姿があった。
「あぁ、そうだな」
周囲に人がいない方が一人で考えられるだろうと思って気を使っていたのだがそれは俺の余計なお節介で、きっと普通の人は誰かといる時は自分の世界よりも一緒にいる周りに気を使うのかもしれない。
ずっと一人で、ずっと誰も信じられなかったからそんな気持ち忘れていた。
「飲み物でも買ってくるからお前はあそこのベンチで少し待ってろ」
こくりと頷く一之瀬の反応を見るに今のは正解だったようだと胸を撫で下ろし、今は彼女に機嫌を直してもらうのが先決だと判断して寄り添う努力に徹してみる。
「ほい」
何が飲みたいとか聞かずに適当にココアを買ったのだが、今になって好みを聞いておけばよかったと少しだけ後悔した。
「ありがとうございます」
やけに素直だな。 てっきり飲みたいものを聞かないなんて気が利かない!マイナス何ポイント!ってぐだぐだと言われるものだとばかり思っていた。
「ねぇ先輩。 先輩はなんでいろいろ聞いてこないんですか?」
「聞いたら楽になるのか?」
「へへ。 怪しいですね。 でも、きっと言わないのは私の傲慢。 です」
俺から渡されたココアを両手で遊ばせる一之瀬の横顔から察するに、彼女の思い悩む問題が俺に関係しているのは明白だが、それを俺に話したところで解決するものではないのだろう。
吸血という行為によって一之瀬の顔色が一変した。 ならば一之瀬が落ち込んでいる理由は俺の血液型に関係していると考えるのが妥当。 もしかして俺のことをおんなじ人魚だと思って落ち込んでいるとか?
それなら納得できる。 一之瀬はリスクを冒してまで俺に人魚の姿を露にしたのに、俺の血液型が人魚と同じだったから人魚だったと勘違いして嘘つきだと落ち込んでいるのかもしれない。
「もしかして俺の血液型が人魚と同じだから騙されたと思って落ち込んでいるとか?」
「え? 違いますよ? 仮にもし先輩がそうだったら今頃私は人の姿に戻れていませんから、安心してください先輩は列記とした人間です。 ま、血液に関しては驚きましたが」
なんだそれ。 血液型は関係ないのかよ。 俺に騙されたと思って落ち込んだのではないと知って安堵する一方、余計に彼女の落ち込んでいる理由がわからなくなる。
いっそのこと素直に彼女の思い悩む理由を聞き、その意思を尊重した上で俺なりの意見を述べて寄り添うことも手段のひとつではあるだろう。
しかし相手は人間じゃない、正真正銘の人外だ。
逸話が歪曲して伝承されているにしても人魚がなんらかの理由で人を惑わし海へと引き摺り込む習性があるのが事実で、その理由に俺が該当してしまったのなら冗談でも笑えない。
だが、まぁ、そんなのはただの杞憂だろうな。 きっとちゃんとして理由があるんだろうし正直に言えば聞けるのなら直ぐにでも聞きたい。 けど。
「そっか。 ならいいや、興味もないし」
「ひどいですね。そんなんだったら普通の人と付き合えませんよ?」
気にならないわけがないだろ。 興味しかないし、恋人として、一之瀬が悩んでることに寄り添えるなら俺だってそうしたいさ。 でも、今はその時じゃない。
だって、俺の発言に笑う彼女の頬が少しだけ緩んだ、それがこの行動が正しいという証明だから。
「生憎、今は普通じゃないお前と付き合ってるからその点は問題にはなり得ないんだ」
今はまだ自分の気持ちは押し殺そう。 押し殺して気丈に振る舞おう。 そうやって気取って鼻で笑い彼女の言葉をそれとなしにいなす。
そうすれば一之瀬は想定通りに笑い出して涙を拭ってベンチの上で足を丸めるとどこか嬉しそうにこちらに目を向けた。
「先輩。 ありがとうございます」




