12話
危うくミイラ取りがミイラになる所だった。
肺に入った水を吐き出して朦朧とする意識の中、俺を抱えて助けてくれた腕の人影へと視線を向ける。 未だに顔は見えないが、声からして一之瀬で間違はいないだろう。
生きてて良かった。 瀕死にも関わらず最初に込み上げてきた感情は夜の海で何をやっているんだという憤りよりも、彼女が無事だったことに対する心から安堵だった。
「無事なのかよ」
皮肉混じりに彼女の腕の中でぼやいてその頬に手を沿わせると彼女は何も言わずに陸地へと向かい、動けなくなってしまった俺を波打ち際にそっと降ろして膝枕をする。
「無事なのかよじゃないですよ! 馬鹿なんですか? 死にたがりなんですか?」
「助けに行こうと……」
「ミイラ取りがミイラになるのは一番笑えません! もっとご自身のことを大切にしてください!!」
はは。自分のことを大事にしろだなんて言われたのは人生で初めてだな。 確かに一之瀬の為だなんて言っておいて俺まで波に呑まれて死んだんじゃ笑い話にもなりゃしない。
「……悪かったよ」
よっぽど腹を立てた様子の一之瀬が真上から覗き込んできて説教を垂れている最中、雲に隠れていた月光が更に強く輝くだし、今まで影っていてよく見えなかった彼女の姿が漸く視界に映る。
「本当に。 まさか先輩が私を助けにくるなんて思ってもなかったのでびっくりしちゃいましたよ」
目元口元は一之瀬のままなのに頬の辺りまでびっしりと張り付いた濃青色の鱗は皮膚と同化し、耳は御伽噺に出てくるエルフの様に横に尖っている。 そして極め付けは腰から生えた竜のような尻尾。
ありえないと瞬きを何度もするが、その姿は見まごう事なき童話に出てくる人外そのもの。
目を凝らせば凝らすほどに彼女が人魚であるという言葉が真実だったのだと裏打ちされ、一方で自分の行った一連の行動が無意味だったのだと観取して全身の力が抜ける。
これって気のせいや見間違いではない、よな?
目を擦って、頬を叩いても当然目の前にいる変態した彼女が人の姿へと変わる事は無い。 全く彼女の言葉を信じてなかった訳でもなかったが、こうして目の当たりにすればその存在を認めざるおえない。
断言しよう。 一之瀬カノンは正真正銘の人間を逸脱した生命体だと。
「すまん。 本当に失礼ですまないんだがその姿は……どした?」
「はい、これが私です」
いつもの様な人に好かれる為の猫被りではなく、本心から恥ずかしそうに歯に噛むその笑顔は想像よりもずっと愛らしく。
それに加えて海水により濡れた制服とそこから透けて見える禁域は筆舌に尽くしがたく。 脇から見え隠れする胴体へと繋がる乳房の膨らみに目を奪われる。
肌色と真っ青な鱗を身に纏い、胸部を両腕で隠す彼女は意外にも大きかった。
いや、失敬。 スタイルが良かった。
脳内で分泌されるアドレナリンを上回る謎の高揚感が全身を駆け巡る。
「あの。 あんまりジロジロ見ないでください。 えっち」
「わ、悪い。 本当に人魚だったんだなってつい……」
急いで目を逸らすと一之瀬は恥ずかしくも嬉しそうな顔をしてから自分の胸に手を当てて、人魚という存在について徐に語り始めた。
「へへ。 本物ですよ? まぁ疑われるのも無理ありません。 私たち人魚は人類史において何度も認識され続けたにも関わらず証拠と根拠だけが欠落した存在。 今でこそ極一部の人間には認知されてはいますが、人魚が陸に上がってまだ100年もたっていないのでほとんど周知すらされていません」
「百年も経っていないのか?」
「はい。 ルーツを辿れば数億年と長い歴史はあるのですがアトランティスの悲劇以降、我々人魚は人族との関わりを断ち切っていました」
一之瀬と出会ってからなんとなく人魚の文献を漁って知見を深めようとはしたのだがアンデルセン童話然り、人魚と人の歴史はどこまで行っても曖昧で広義的な情報しか得る事はできなかった。
きっと真実が記された書物も中にはあるのだろう。 しかし時代と共に姿と在り方が移り変わる人魚の伝承は凄まじく膨大で、ヨーロッパ、アジア、アフリカを含む世界各地の民間伝承に登場する情報を精査すには余りにも無理があった。
大体西暦900年頃からセイレーンとして人類の文化圏で認知され始めたのは知っているが、まさか既に生存圏を陸地へと移して、知らない間に共生していたなんて。 驚倒してその場で腰を抜かしそうになる。
「確か人魚が人間に認知されたのは歴史上九世紀の出来事だろ? なんで今更になって人間社会に溶け込もうなんてなったんだよ?」
「簡単ですよ。 環境汚染です。 そもそも私たち人魚の住まう海域は大まかに二つあり、一つはアメリカ合衆国付近に存在するバミューダトライアングル付近でもう一つは人間界における陸地からもっとも離れた場所ポイント・ネモになります」
「ポイントネモ? 聞いた事ないな」
「人間が人工衛星の墓場として使っている所ですね。 ただこの点に関して言えば古くから人間が海に船を沈めているのとなんら変わらないのでさほど問題ではなかった。 一番の問題は戦争。 もとい海で行った水爆実験です。」
「水爆実験?」
歴史の授業で出てくる核爆弾の実験、確かオーストラリアの近くで行われたとかなんとか……
思い出しながら首を傾げていると、一之瀬は今までに見た事のない神妙な面持ちで人魚が地上へと進出するに至った経緯を語り出した。
「人類史におけるビキニ事件。 これが私たち人魚が人に干渉する事となった要因です。 遥か太古、天空に浮かぶ惑星が赤く染まるきっかけになった最悪の物質プルトニウムが地球上に存在し、なおかつ知的生命体である人類が用途を理解してしまった。 結果として機雷なるものすら目を瞑っていた私達人魚の長は苦渋の決断によって人魚族による地上への進出を決行。 そして現在に至るという事です。 目的は人間の監視、及び核使用からの脱却。 」
天空に浮かぶ惑星が赤く染まるきっかけとは何を指しているのか。
同じ祖先だと発言したにも関わらずまるで地球外から来たような言い方に違和感を感じつつ、話の要点である核使用に関しては被爆国である日本だからこそ人魚が危険視するプルトニウムの使用とそれに伴う環境汚染への危惧には納得せざるおえない。
「もし二度目の世界対戦が発生し核兵器が使用されたなら?」
「人魚は人間の殲滅を遂行するでしょう。 まぁそうならない為に私たちも動いているわけですが……ロシアによるウクライナ侵攻、人魚が地球を占領するのも時間の問題なのかもしれませんね」
苦虫を噛み潰した表情の一之瀬から察するに、人魚という存在は人類を滅ぼせるだけの力を有してはいるが、人類に干渉する事に関しては相当に不本意なのだろう。
一之瀬と話して分かるのは彼女達人魚は人外ではあるが話が全く通じない存在ではないという事だ。
そういった世界も存在する。 その程度の認識が丁度いいだろう。 正直、人類規模の話になってくると主語がデカすぎて今の俺には理解も責任も及ばない。
取り敢えずは一之瀬が人外で、幼いながらに使命を持って地上に来た少女なのだと知れただけで十分だ。
その場でほっと胸を撫で下ろし、溺水して乱れていた呼吸を落ち着かせれば少しだけ息をするのが楽になる。
「はは、冗談が過ぎるな。 っと、雑談もここまでにしようか。 これ以上遅くなると方々に迷惑がかかるし、お前は家で家族が待ってるんだろ?」
何でもかんでも深入りするのは往々にして自分の首を締めかねない。 今後一之瀬と関わりが長くなれば自ずと巻き込まれるのだろうし、今日は日も暮れて時間も遅いから話を切り上げて彼女を家に帰すのが優先だ。
その場で適当に話をはぐらかすが、安易に聞いた質問はどうやら藪蛇だったらしい。 一之瀬は顔を曇らせながらそっぽを向いて小声で呟いた。
「家族は家にいませんよ。 帰っても一人っきりです」
「そう、だよな」
浅慮だった。 一之瀬が一之瀬グループの社長である一之瀬誠の娘であるなら彼女の両親は本社がある東京に住んでいると考えるのが妥当、家族と会えない一之瀬に辛いことを聞いてしまったと反省する。
「すまんかった。 てか人魚が一人で暮らして大丈夫なのか? 貴重な血液を持ってるってことは狙われたりしないのか?」
実際に特別な血液を有していたが故にオークションにかけられた身としては俺と同じ特殊体質で、なおかつ未成年の少女が一人暮らしをしているのはあまりにも心配だ。
「大丈夫ですよ! この格好だとヤバいですけど直ぐに血を飲めば人の姿に戻れるし、そうなると血液検査でもしない限り探知機とかでバレることはありません……って何でそんな目で見るんですか!?」
訝しむ様に薄ら目で見つめると、自信満々に胸に手を当てていた一之瀬が今変態した事に不安を感じたのか途端に目を泳がせて狼狽し始める。
「人魚を見つける探知機があるって……なんで相当なリスクを背負ってまで俺に人魚の姿を見せたんだよ。 人魚である証明したところで一之瀬にメリットなんて何にもないだろ」
「心配ご無用! 私は人魚で特殊能力だってあります! もし襲われたって姿も消せちゃうので問題なしです!」
「いや、そういう問題じゃ」
そう言うと突然、一ノ瀬は未だ膝枕に浸っている俺に顔を近づけると額と額をコツンと当てる。
「大丈夫。 だから先輩。 もし何かあっても私の優先順位は二番目で結構です。 『私を信じてもし周りに人がいたら人の命を優先してください。 そしてその後私を見つけ出してください。』 約束ですよ?」
そんな事約束できるわけないだろ。 唇を動かそうとした瞬間、彼女は有無を言わさずその口で俺の口を塞ぎ、お互いの唇が離れる寸前に俺の下唇を噛んでから血液を飲むように吸い付いた。




