11話
「はは、それってほぼ全部じゃ無いですか」
相当参っているのだろう。 愁いを孕んだ表情は随分と苦しそうで、今の一之瀬からは本心を隠す気がないように見える。
「悪かったな、盗み聞きして」
「何で先輩が謝るんですか。 ……先輩は被害者ですよ?」
「加害者意識あったんだな」
「私のことなんだと思ってるんですか!」
まさか一之瀬に良心の呵責なるものが存在していたなんて……。
俺は驚愕を顔に浮かべて反射的に言葉を返すと一之瀬はいつものようにあざとく頬を膨らませて怒ったふりをする。
「一之瀬はそっちの面が似合ってるよ。 まぁ、なんだ。 話を戻すが、誰にだって触れてほしくない過去やプライベートはあるだろ? お前がどう思ってるのか知らないが偶然でもそれを聞いてしまったのなら申し訳なく思う」
「……ありがとうございます。 優しいですね。 ね、先輩、今更ですけど先輩は人魚って信じますか?」
少しだけ硬さの取れた一之瀬からの意外な質問は本当に今更な気もする。
正直出会って早々話がとんとん拍子に進んでおり、気づけば人魚という存在について聞くタイミングを逃していた。
いい機会だ、本人に話す気があるなら聞いておこう。
「伝説上で語り継がれる人魚は信じてないかな。 そもそも俺にとって伝承ってのは脚色されて都合よく耳心地が良いように美化されたものだと思ってる。 ただ火の無い所に煙は立たないって言うし人魚、もしくはその元になった存在はいるんじゃ無いのか程度には思っている」
自称本物の人魚にとって俺の意見は癪に障る言い方だっただろうが、これが俺の本心だ。
これだけ真面目に回答する意味なんてないとは思うが、俺は心のどこかで同じ特異体質だという彼女と対等でありたいと願っていて、だから茶化さずに答えているのかもしれない。
「先輩って相当捻くれてますね。 でも耳心地良く伝承されているのは正解です。 人魚の肉は不老不死! とか、その歌声は人を惑わし海へと身投げさせる淫魔! だとか少々歪曲してるんですよね。 そもそも人魚の肉が不老不死と言われる由来は私たちの血液にあるんです」
「血液?」
「はい。 人魚の血液は全人類の誰にでも輸血が出来る黄金の血液、人間界では現在Rh-nullと呼ばれています。 人間でも祖先が同じ名残から稀に隔世遺伝する事があるらしいのですが普通の先輩には関係のない世界の話です」
隔世遺伝。 その話を聞いた瞬間、全身の産毛が逆立ち、同時に幼い俺から両親が奪われた本当の意味と、一之瀬グループの社長である一之瀬誠に買われた理由がようやっと腑に落ちた。
「人魚と人間は祖先が、同じ? つまり鯨が哺乳類とか、そう言った事か?」
「だいたいそれで間違いありません。 鯨と人魚の違いは簡単に言えば海へと生息域を移した時代の違いでしょう。 彼らが遥か太古の原生生物なのに対して我々人魚は人が人の形を経てから後続的に海へと生息域を広げた存在なので」
「そう、なのか」
両親も、祖父母も、高祖父母もただの人である俺は、本当にただ運悪く生物として歴史上、遥か昔に存在した猿人類の先祖返りをしまったらしい。
「反応薄いですね。 まだ信じられませんか? あ! もしかして抗体を持たない血液型のくせに何でウイルス満載で感染症すら起こる海に生息できてんだって思ってませんか? それこそが私たちの声の能力なんですよ! 私たちは声を纏って海洋での生存権を獲得した種族。 故に声に力を有してるんです!」
「いや、別に信じてないわけじゃ」
むしろ信じているし、納得ができてしまうのだ。
彼女の人魚に対する説明が俺の理不尽な人生を裏付けをしてしまうほどの説得力がある。
「ふーーん。 ま、いい機会なので私が本物だと証明してあげるとしますか。 先輩、放課後十九時に校門前にあるベンチに来てください!」
「……は? 何て? ベンチ?」
自分の事を考えるあまり一之瀬の話を全く聞いてなく、突然指定された時間と場所に驚いて漸く隣に目を向けると、突然ネクタイが強く引っ張られて耳元で甘い声が囁かれる。
「なに考えてるのか知りませんけど浮気は許しませんよ?」
頬を染めてあざとい上目遣いをする一之瀬の完全な不意打ちに、心臓が飛び跳ねる。
「しねぇし、てか疑似恋愛だろ? お前とはただの利害の一致で……」
「えへへ、それはどうでしょう? 先輩が気づかない間はそうかもですね? じゃ! 絶対に校門前のベンチに十九時に来てくださいね!!!!」
自分の唇に当てた人差し指を俺の唇に当てて恥じらう一之瀬に呆気に取られていると、一之瀬は無邪気な笑顔を向けてから返答を待たずに耳を真っ赤にしてそのまま非常階段を下って校舎へ入っていった。
「何だったんだ? あいつ」
本当に俺のことが好きなのか? 一之瀬の言動が理解できずに動悸が早くなり取り乱していると、現実に戻ってこいと言わんばかりに五時限目の予鈴が煩く校舎全体に響き渡った。
クラスに戻ってから慧と東野に感謝と謝罪を伝えると、二人から保健室に行く様にと促されたがこれ以上は授業に追いつけなくなるので流石に気遣いだけ受け取って授業に参加することにした。
終始最悪だった空気からやっと解き放たれた放課後。 昼からずっと葛城には睨みつけられるし、盧は半泣き状態だったし今日は色々と疲れた。 この後一之瀬に会いに行くのも億劫だ。
気疲れで酷く肩を落としていると身支度を終えた慧が申し訳なさそうに近寄ってきた。
「あのさ。 さっき葛城が言ってた事なんだけど……嘘じゃ無いんだ。 俺が省吾の噂を校内に広めた。 別に嫌がらせしたくってとか安易な考えでやったわけじゃない! ただお前が標的にならないよう……」
珍しく取り乱した慧は少し口早になりながら葛城の発言を肯定しつつ悪意のない行動だった事を説明してきた。
「そうか。 大丈夫って言ったら嘘になるよな。 うん、少しだけ慧を疑ってしまった。 お前も俺を裏切ったんじゃないかって。 でも良いんだ。 人間ってそんなもんだろ?」
お前は悪くない。 本当はそう言いたかった。 だけど胸を張って俺はお前を信じてるから気にするなと言える程虚勢を張る元気も俺には無かった。 過去に抉られた胸の穴は簡単には塞げない。
信用ってのは個人に依存するんじゃない、人に依存するんだ。
嘘や裏切りが、言葉の裏が、もしかしたらと云う疑念の苗を育み、本当に大切にすべきものと出会った時には苗は成長し過ぎてて、自己防衛って名の木陰が心地のいい隠れ蓑になってしまうんだ。
つい顔を出し過ぎた木漏れ日の中はあまりにも眩しくって、信じようと思えば思う程に相手のたった一度の行動が信じられない理由になる。
言葉を選べない俺は素直な言葉で親友を突き放す。 本当はそんな気これっぽっちも無かったのに、不意に視界に入った慧の顔が余りにも絶望に満ちていて、やっぱりダメだったと思ってしまった。
これで俺が新生活を始めて築いた友情のほとんどを失った。 まぁ、結局こうなるか。 悲しみよりも先に納得するのは人に期待してない証。
視線を下げて慧にかける言葉を探していると、俺の机の上にぽつりぽつりと大粒の涙が零れ落ちているのに気がついた。 それは自分から零れ落ちているものではない。 だったら誰だ?
「おま、どうしたんだよ」
顔を上げて目の前にいる慧へと視線を向けると、瞬きを我慢しながら涙を必死に溢さないように努力している親友の姿が視界に入った。
「本当に、本当にごめん。 裏切るつもりなんて無かった。 ただお前が盧たちと仲良くすればする程に周囲の嫉妬と悪意が止められなくなって。 どこかでヒーロー気取ってたんだ。 中学の時、他校だったにも関わらずいじめられていた俺を省吾は助けてくれた。 だから高校で再開して運命だと思った。 次は俺が省吾を助けようって。 本当にごめんなぁ」
全く気づかなかったが慧も盧と同様に中学時代の俺が助けた人間の一人だったのか。 そうか。
「もしかして高校に入学して最初の頃に教科書とかよく無くなってはボロボロでも戻ってきてたのは慧が裏で俺を助けてくれてたのか。 ありがとな。 俺のために動いてくれて、ずっと辛かっただろ」
その場で立ち上がり慧を優しく抱擁すると、今まで堰き止めていた感情を溢れ出すように震える手を俺の背中に回して慧は咽び泣いた。
未だに誰も彼もを信じることはできないと思う。 だけど少し、ほんの少しだけ今まで何度注いでも満たされなかった心の中が満たされた気がした。
「落ち着いたか?」
「うん。 恥ずかしいところ見せちゃったな。 てか省吾まだ元気なさそうだけど他にも何かあったのか?」
盧もそうだが流石に感が鋭過ぎじゃないか? 俺ってそんなに分かりやすい顔してるのか? もしかしてそれが慧に負担を掛けていたなら申し訳ない。 今後は周囲に心配されないよう努力してみよう。
「ん? ああ、さっき逃してくれた時にちょっと陰口を小耳に挟んでな。 少しテンション下がってるだけだから気にすんな」
何の気なしに言った言葉が慧に火をつけてしまったらしい。
話を聞いた途端、即座に陰口を言っていたクラスメイトの机の裏を漁り出すと小型機械を取り出して舌打ちをした。
慧が取り出した機械が何だったのか。 深く聞くのは野暮だと直感したので、俺は慧が小声で言い放ったぶっ殺すという言葉も行動も見なかったし聞かなかったことにした。
それから何があったのかは知らない。
ただ一之瀬との約束の時間まで教室で小説を読んで暇潰しをしていた俺の前に陰口を言っていたクラスメイト数人が真っ青になって追いかけてきた。
「許してくれ!! 頼む許してくれ!!!!」
謝罪をしにきたのは明白だったのだが目の前に現れた同級生の姿が悪魔付きのそれだったので、つい反射的に逃げてしまい結果今のいままで追いかけっこをしていた。
「疲れた……」
今日はただでさえ精神的に参っていたのに追い討ちをかけるように走り回って心も体も疲労困憊だ。
その後すぐに彼らに捕まったが聞かされるのは自分勝手な言い訳と謝罪。 聞くだけでも頭が痛くなるのでその場で簡単に許したが、ただただ面倒だった。
あれで余計な体力を使った気がする。
「慧のやつ、加減しろよな」
深いため息をついた後にふと背後にある設備時計に目をやる。
時刻は十六時五三分、約束の時刻まで残り十分を切ったのだが未だ彼女が来る気配はなく、時間は刻々と待ち合わせの時刻へと針を進める。
彼女は本当にやってくるのだろうか?
一応門限は22時だから余裕はあるが、どうも普段帰る時間と異なるだけで変な罪悪感が込み上げてきて、早く帰れと心が急かしてくる。
「五分すぎても来なけりゃ帰るか」
一人で校門前にある円形のベンチに座り込んで、野球部の練習を眺めては気だるさに肩を凝らせる。
もうそろそろか。 秒針が丁度真上を指し示し、17時のチャイムがなる。
「すみません! お、お待たせしましたー!」
何かあったのだろうか? この前のように突発的に意識を失って倒れていたらと一抹の不安が過り立ち上がりかけると遠方から、、制服を少し着崩して息を上げる彼女の姿が見えた。
「遅くなってすみません」
集合時間。 そこまで慌てて何をしていたのかと純粋に疑問には感じたが、どうせ大した事はないんだろうと人間不信から自然と彼女のプライベートに深入りする事を避けて突き放す。
「本当に遅かったな」
言い方の悪い冗談混じりの自己防衛。 ギリギリでも来ただけ良かった、心配したと素直になればいいのに口から出てくる言葉は相変わらず距離があり、それを察知したのか一之瀬も不機嫌そうな薄ら目を向けてくる。
「遅刻してないのに酷い言い草。 先輩はほんっっとーに人としての器が小さいですね。 不名誉ながら彼氏ポイントマイナス五十点を贈呈いたします。 いいですか? 彼氏なら今着いたとか気の利いた事を言うのが彼女的好感度を上げるコツなんですよ?」
気分を悪くさせて陰口でも叩かれるのではと少し覚悟していたのに、意外にも一之瀬は腰に手を当てると指を左右に揺らしてチッチと声に出しながら俺の言動に注意をしてくた。
その言い方は決して嫌味ではなく。 本人に気づいてもらうためにする優しい口調の指摘は誰が見ても分かるほどに良心に満ちていた。 きっと彼女は俺なんかよりもよっぽど大人なんだろう。
「それは彼氏の好感度が高い状態に限ることを覚えておけ」
だがしかし、どれだけ真っ当なことを言おうと一之瀬には拭い切れないほどの奇行が裏打ちされており、他の人が言えば尊敬に変わる言葉も彼女に言われると少し鼻につく。
「本当に貴方って人は……もう良いです。 遅くなってすみませんでした。 はい、これで満足ですか? ではさっさと行きましょうか」
「ちょ。 どこに行くんだよ?」
不服そうにため息を吐く一之瀬は突然ベンチに座っている俺の手を引っ張り、思い立った様に校門の外へと足早に駆け出した。 説明はなく、目的も分からない。
頭上に疑問符を付けたまま動揺を隠せずにいると、前を往く一之瀬が振り返って優しく微笑んだ。
「人魚の力を見せるなら海しかないじゃないですか」
揺れる銀髪から覗かせるインナーカラーのパステルブルー。絹のように美しい髪から発色される青と夕焼けに染まる空の赤が幻想的なまでにコントラストを奏でれば少し着崩れた制服すらも秀麗に見えてくる。
光彩陸離とはこの時、このためにある言葉ではないのかと錯覚してしまう程にただ美しく、言葉を無くして胸を打たれる。 嗚呼そうか、そうだったのか。
盧に告白しようとした薄っぺらな動機の答えを漸く見つけた。
人を好きになれるかはまだ分からない。 だけど今こうして一之瀬に手を引かれて脈拍が乱れるてる事実は認めざるおえないだろう。 それは跡形もなく粉砕して無くなった錯覚していた感情。
帰ってくると約束をした両親は俺を置いたまま帰ってこなかった。
大丈夫、お前はこれから私たちの家族だよ。 そう言って幼い俺を優しく抱擁してくれた親族は数日後に金に目が眩んで俺を売り払った。
オークション会場で出会ったーーもそうだ。 約束したのにーーもないのにーー俺に気丈に振る舞って、挙句ーーは笑顔で目の前からーー
みんな口だけで俺を一人ぼっちにする。
裏切り者が嫌いだ。 俺を商品としか見てない富裕層の下劣な視線が嫌いだ。 銅像を壊した事に対して俺を咎めることすらせず、俺の後ろにいる飼い主ばかりを見て媚び諂うような同情の視線が嫌いだ。
いじめが嫌いだ。 強制が嫌いだ。 強要が嫌いだ。 嘘つきが嫌いだ。
嫌いが多いから目に見える嫌いを徹底的に排除した。 そうやって何でもかんでも噛み付いて自暴自棄の成れの果てで、漸く辿り着いた答えは「人間なんてこんなもんか」だった。
綺麗なものだけ見たかった。 知らなくって良いものは知らないままの方がずっと幸せだった。
積み重なる不条理。 心を象っていた何かは強化ガラスの様に脆く。 アイスピックの様に鋭く、平気で他者を傷つける人の本性によって微細な亀裂は瞬く間に全体へと広がり、瞬刻二度と戻らない破片へと姿を変えて崩れ落ちた。
もう疲れた。 そう言い聞かせていた筈だったのに、俺はまだ心のどこかで失った大切なものを諦めきれていなかったんだと思う。
毎日募り続ける受け皿を失った感情の濁流、見て見ぬふりだって出来たけど、無意識的になんとなく。 微細なまでに粉砕した破片を掻き集めて不格好なりにも人を信じられる、器が作っていたのかもしれない。
放課後に慧を抱擁した時も感じたあの温もりが彼女に手を引かれたこの瞬間、確信に変わる。
俺はまだ、人を想い、慈しむ事ができるのだと。
きっと一之瀬が豪語していた疑似恋愛を俺に体験させるという言葉の意味はこの事だったのかもしれない。
中途半端な感情で盧と付き合わなかったことを良かったと思う反面。 それでも今のままじゃ人を愛する事はできないのだとも思えた。
両親の死と親戚からの裏切り、根幹に巣喰う抜本的な恐怖の払拭には相当な時間を要するだろう。
漸く見えた本質に胸を抉られるが、今はただ不本意ながらも目の前を歩く一之瀬ともう少し一緒にいたいと思えてしまった。
陽が落ちた群青色の地平線、海水に星が混ざる渚、月を背に今を噛み締めていると、前を嬉しそうに歩いていた一之瀬が俺から手を離して少し駆け足で距離を取って振り返る。
「自由ってなんだと思いますか?」
笑顔の彼女は俺を一瞥した後に海を見て一言呟く。
何かを切望するように地平線を見つめる姿がやけにしおらしく。 もしかしてこの幻想的なシチュエーションに当てられて変に情緒的になっているのでは感じ、少し茶化そうと試みたが彼女の横顔を見た途端そんな気も失せた。
少し考えてから俺なりの答えを伝えてみる。
「責任だな」
「意味がわかりません」
「だろうな」
恋人とは到底思えないほどの淡白な会話のレスポンス。 別に話をしたくない訳ではない。
ただこの答えは中学生時代に俺を取り囲んでいたクズで身勝手な大人たちに内容を説明しても理解してはくれなかった。
大人ですら頭に疑問符をつけるんだから今も親の庇護下にいる甘い世界の一之瀬にはこの答えはつまらないだろう。
「真面目に聞いたつもりなんですけど。 先輩、なんか大人ぶってます?」
「大人ぶってねぇよ。 てか少なからずお前よりは大人だ」
一年だけですけどねと馬鹿にしたような補足を入れた後に笑いを堪える一之瀬に少し腹が立つので、ため息混じりに理解されないであろう俺の心情を吐露した。
「案外学生っていう肩書きが一番の自由だと思ってるよ。 一般的な学生ってのには責任もなければ社会的に守ってくれる大人もいるしな。 ま、俺には該当しないんだが……」
ポケットに手を入れてから一之瀬と同様に地平線を見つめて輝く月を眺める。
自分もそうでありたかった。 家に帰ったら両親がいて、温かいご飯のある生活、誰からも搾取されることのない人権が守られている自由。
冬になるといつも思う。 辺りが暗くなった街路に漂うシチューの香り、家族で囲む食卓とそこから聞こえる笑い声。 どれだけ手を伸ばして、努力しても二度と手に入れることのできない自由。
思いを馳せて感傷に浸っていると、俺の言葉に何を思ったのか一之瀬が突然その場で靴を脱ぎ始めてから海の方へと歩き出した。
「それは私にも該当しませんよ。 先輩がなぜ学校で私と同じ特異体質と呼ばれているのかは知りませんが、少なからず私は人魚で、それ故に人権や戸籍といったものは建前上こそあれ社会的に守れらる事はない。 つまりバレたらやばいって事です。 今は能力で存在を隠蔽していますが、もし人魚だとバレたら高値で売られるでしょう」
話を続けながら更に沖の方へと歩み、気がつくと彼女は体の三分の一を入水させていた。 流石にこれ以上は波に攫われる危険性があるので、俺は急いで靴と靴下を放り投げて彼女の元へと向かう。
「おい! 馬鹿! 戻ってこい!! 深夜の海はマジでやばいから!!」
助ける為に彼女が立ち止まっている方へと向かっている刹那、足元が波に掬われて全身が海に呑まれる。 泳げないわけではないが海流が激し過ぎて上下が分からず混乱し、慌てた拍子に海水が鼻と口から勢いよく入ってくる。
留めるべき肺の空気が全て抜け、窒息する寸前。 ぼやけた視界に映る暗い、暗い海の中。
世界を照らしてた月光が雲に呑まれてひと時の暗黒が訪れる最悪の事態。
俺は奪われた視界の中で真上へと手を伸ばす。
死の間際に込み上げてきた感情は人生の後悔や理不尽に対する激情でもなければ生の執着でもなく、ただ一之瀬の安否、それだけだった。
流石に人魚という言葉が本当だったとしても何も見えなくなった海の危険性は冗談にならない。
まだ死ねない。 助けないと。
右も左も分からない海中で必死にもがきながらも俺は水面を目指して足を動かしていると、運よく雲に隠れた月光が世界に再度姿を表し俺の視界を照した。
そして理解する。 俺は思ったよりも深く沈んでいる事に。
肺から空気が無くなってる時点で泳ぐ気力もない。 もう、無理だ。
朦朧とする意識の中で諦めかけていたその時、目の前に現れた尾ひれを揺らす人影。 人間でもなければ魚でもない謎の生物は優雅に俺の目の前を横切り、俺を助けるように水面へと引っ張り上げてくれた。
「かほ、けほ」
肺に溜まった水分を吐き出すと同時に欠乏した酸素を補う為に肺は大きく息を吸い込み、身体は取り急ぎ血液を循環させて眠りかけた脳にまだ生きているのだと声を掛ける。
「生き、てる」
生きてる事に安堵すると同時に唇に残った柔らかい感触に疑問を感じて、口元に左指を沿わせていると俺のすぐ目の前に少女の顔がある事に気がつく。
「省吾先輩、起きましたか?」




