8 国境にて〜シークスジャッカル
ちょうどウェイドンの村にてカドリの祭壇が完成した頃、聖女フォリアはブレイダー帝国とベルナレク王国との国境に至っていた。今はブレイダー帝国側の平原を望む事のできる小さな森に、フォリアを含めたレックス皇子ら一行は隠れている。
(ここまでは何もなかったけど)
フォリアは辺りを見回しつつ思う。
オオツメコウモリに襲撃されたことで、街道を馬車で行く、という旅を断念せざるを得なかった。徒歩で森の中や目立たない小道を進んできたのである。
(相手には私を追って、攫おうという意思があるんだから、それもしょうがなかったけど)
結果的には追手の軍などにも襲われず、オオツメコウモリ以降、魔獣に襲われることもなかった。肩透かしを食ったような気分とともに国境にまで至っている。
国境と言っても、街道には関所が設けられており、兵士も駐屯しているのだが、関所から離れた場所の警戒は薄い。
「最悪、ベルナレクの軍勢が展開していれば、武力での強行突破をするより他、ありませんが」
顎に手を当てて、レックス皇子が告げる。
剣を腰に吊って、鋭い眼差しを向けている姿すら絵になるのだった。
「戦いになる、ということですか?」
それも自分のせいで、ということだ。フォリアはつい、下を向いてしまう。
「正直、我が国のほうがベルナレク王国よりも、国力は強大です。表立って、戦を挑んでくるような真似はしてこないと思うのですが」
安心させるような笑顔を見せて、レックス皇子が告げる。
王都から国境に至るまでの道中、ずっと一貫して優しかった。戸惑いの連続だった自分の心中をよく慮ってくれていたのだと分かる。
(でも、本当に良かったのかしらって今でも思う)
自分は聖女なのだ。責任というものもあって、その責任は婚約者でないと果たせないというものでもなかった。たとえ命の限りを搾り取られて使われるのだとしても、それを本懐だと思うべきではないのか。
(まして、国と国の争いの原因となるだなんて)
歴代の聖女にも顔向けできない、恥ずべきことなのではないか。
だが、自分を送り出してくれたのは、他ならぬその責任を説くべき、神聖教会の教主なのであった。
(皆は、私を気遣って、心配して、送り出してくれた。レックス殿下も、私が酷使されることになるって、それで身元を引き受けてくれたのだけど)
そんな心配ばかりされた挙げ句に、『皇太子の婚約者』というのは余りに出来過ぎていて、かえって駄目なのではないか、と思わされてしまうのだった。
「ゆえにおそらくは素通りでしょう。巡回もまるで為せていない。そして、我が国に入れば、もう安心ですから」
優しくレックス皇子が告げる。
まだ会って間もない相手だ。ほんの数日である。
どこまで気を許して良いか分からないと自戒しつつも、オオツメコウモリに襲われたときの勇敢さを思い出すにつけ、気持ちに嘘偽りがあるとも思えないのだった。
「いいんでしょうか。私だけ、安全だなんて。北の魔窟近くの結界だって少しずつ脆くなっているころなのに」
後に魔物を残していくこととなるのではないか。
フォリアは口ごもる。まだまだ心配なこと、言葉に出したいことは幾らでもあるのだった。
聞かされるレックス皇子にとっては、嫌なものだろうと思う。
「お気持ちは分かりますが、あのまま王都にいたら、どうなっていたか分かりませんよ。それに我が国のほうが強大だとは言っても、ベルナレク王国も弱国ではない」
レックス皇子が根気よく、怒気の欠片も見せずに言い聞かせてくれる。
『自分がいなくともどうにか出来る国だ』というのが、一貫したレックス皇子の言い分であった。
「あの、カドリという人のことですか?」
フォリアは思い出して尋ねる。
妖しい魅力と美しさを併せ持つ、水色の男性だった。どことなく近寄っては危ない相手のような気がして、平身低頭されたのだが、今、思い出しても肌が粟立つ程に怖い。
「ええ、まだ、向き合ったときの怖さが忘れられない。こんなことは今までなかったのですが」
苦笑いしてレックス皇子が頷く。
「よく、あれだけ言い返せたものだ、と今でも自分を褒めています」
そして、冗談めかして加えるのだった。
(確かにあの人に酷使されるのは怖いかも)
毅然とした態度のレックス皇子がいてくれなかったら、自分では言いなりだったかもしれない。密かにフォリアは感謝し続けている。
やがて、夕暮れ時になると、レックス皇子が出していたという物見の兵士たちが帰ってきた。最寄りの関所にある詰め所を探ってきたらしい。
(私は全然、こういうことに、気が回らなくてだめね)
物見を出していたことにすら気づいていなかったフォリアは思う。
「どうやら、夕飯を摂り始めたらしい。国境を越えるなら今だ。闇にも乗じることが出来る」
レックス皇子が自分の方を向いて微笑む。
護衛の兵士も含めて全員で国境へと気持ちを向けたそのとき、ガチャガチャと武器や防具の音が聴こえてきた。
「敵襲っ!敵襲っ!」
声は後ろからだ。弾かれたようにフォリアは杖を持ったまま振り向く。
「ぐわぁぁっ!」
更に悲鳴まで聞こえてきた。
秘匿で国境を越えるべく点けていなかった松明が一斉に焚かれる。悪い視界の中、剣を手に身構えている兵士たちが闇に浮かぶ。
(敵は?敵はどこ?)
フォリアはせわしなく辺りをキョロキョロと見回す。
ふと視界の隅、闇が膨らんで盛り上がったように見えた。
「フォリア殿っ!」
レックス皇子が叫び、駆け寄ろうとする。
咄嗟にフォリアは杖を闇へと向けた。
「目を庇ってくださいっ!閃光っ!」
杖先から光がほとばしる。程々にしておかないと、味方の目まで眩ませてしまう。
マジックウォールのときと同じく、祈りも何も必要としない。ただ光を発するだけの術だが、フォリアは急な窮地に即応するのに便利であるため、この手の基本術を極めて得意としていた。
「グオオオオッ」
漆黒の大きな犬型魔獣が苦悶の声を上げた。前脚で顔をかきむしるような姿をしている。
怯んでいる隙に、横合いからレックス皇子が首筋を斬りつけて倒す。
「ありがとうございます」
フォリアはレックス皇子に告げる。敵が出たのだ。余計ごとは言わない。
倒した魔獣を見るに、体長半ペルク(約2メートル)ほどの犬型魔獣だ。
「シークスジャッカルですね。この辺りにはいない魔獣の筈なのに」
フォリアは呟く。オオツメコウモリのときと同じだ。
討伐したこともあるが、ここよりもかなり南の土地だった。
「夜目が利いて鼻も利く。暗闇で襲われたら厄介な魔獣です」
フォリアが説明するのを嬉しそうに聞いているレックス皇子。自分がよく喋るようになったので嬉しいらしい。
不謹慎だ。
「群れをなす魔獣ですから油断は禁物です」
軽く睨んで、フォリアは忠告する。
既に各所で兵士とシークスジャッカルとが乱戦になっているのだ。
「どうしますか?」
レックスが抜き身の剣を手にして尋ねる。
自分を護りたいようだが。
(私も護られてばかりの女じゃない)
まして、おそらくは自分に降り掛かっているはずの火の粉である。
「目くらましがとても有効な相手です。動きを封じますから、皆さんは合わせてください」
なるべく柔らかくフォリアは微笑んで告げる。聖女である自分の緊張感は他者に伝わって悪影響を及ぼす。気力や勇気をまず自分が見せることだ。
杖を掲げて魔力を篭める。
「聖なる力よ。闇夜に満月をもたらせ」
光の塊が杖の先より生じて、煌々と輝きを放つ。
ところどころに死角の生じる松明の灯りなどとはわけがちがう。
兵士たちが顔を背けてうずくまる。目眩ましが来ると分かっていたから、月を見た瞬間に合わせてくれたのだ。
「グオオオオオ」
野太い悲鳴が各所で響く。
月光の灯火は自在に操ることが出来る。
「今ですっ!」
明るさを落としてから聖女フォリアは叫ぶ。
合計7匹のシークスジャッカルが目潰しをされて、のたうち回っていた。
人間でもまともに閃光の状態で受ければ、危ないほどの光量だ。
「でぃっ」
一匹ずつ確実にレックス皇子たちがとどめを刺していく。
後は一方的な駆除だ。勝敗は決まった。
フォリアはフッと安堵して肩の力を抜く。油断しているとまた襲われる。若干の警戒心は維持しながら。
「素晴らしい手腕だ。フォリア殿は。また惚れ直してしまいそうだ」
全てを倒し終えるとレックス皇子が臆面もなく言い放つ。
「えっ、いえ、そんなっ」
唐突に愛の言葉をぶつけられて、フォリアは戸惑うことしか出来ない。
冷やかすような声が各所からあがり、聞こえてきた。
「し、失礼」
レックスが咳払いをした。自分で言っておいて、あまりの気障さに自分で照れくさくなったらしい。
「だが、やはりタダでは済ませてくれませんな。最初の攻撃で数人がやられ、続く乱戦で負傷しております」
レックスが言い、首を横に振った。仲間に死者が出たのだ。喜んでばかりもいられない。
(それに怪我人が出たなら、私が)
回復の治癒術もフォリアは扱える。だが、死者の復活などは出来ない。
「しかし、一国から聖女を奪おうというのだから、これぐらいで済んでいる、という見方の方が正確でしょうか。何か別なことに敵が取り組んでいるから、中途半端な攻撃なのでしょう」
レックス皇子に言われて思いつく、『何か別なこと』というのが、とっさにはフォリアには無いのであった。




