5 北部戦線
カドリはヘリック王子から命じられた翌日には馬車に乗り込み、単身、北部のオコンネル辺境伯領へと運んでもらっていた。通常、4、5日かかるところ、王家の良馬を出してもらえたので3日しかかかっていない。
(私には協力的なんだが)
ヘリック王子について、カドリは思う。
情念のまったくない人間ではない。幼い頃から同じ教師について学んできたのだが、特に愚かで怠惰ということもなかった。
「着きました。申し訳ありませんが、ここからは」
やはりヘリック王子のつけてくれた御者が遠慮がちに言う。初老の気の良い小男である。
前線にかなり近づいてきていた。迂闊に深入りすると魔物に襲われかねない。
自分はカドリである。どういう話し方をすればいいのかも一介の御者には難しいだろう。
「分かりました。気を付けてお戻りください」
カドリは言い、立ち上がると手持ちの銀粒を数個、御者に握らせた。
「あなたの働きに対して、あまりに少ないのですが」
臨時の危険なこの仕事に対して、ヘリック王子がきちんとこの御者に報いているとは思えなかった。
月々の決まった収入だけで生きているというのに、臨時のこの仕事が無給というのは苦しいだろう。
「滅相もない!まさかカドリ殿からこのように過分なっ」
恐縮して固持しようとしてきたのを、カドリはそっと手に包みこませた。
「ご存知でしょうが、私はカドリです。金品を頂くことも決まった収入もありますが、あまり役には立たないのですよ」
カドリはさらに小声で御者の旅の無事を願い、小声で囁くように歌った。帰路とても安全とは限らないのだ。
「聖女の加護ほどの価値はありませんが、あなたがご無事にご家族の下へ戻られることを祈念します」
しきりに感謝恐縮して御者が去っていく。その背中に薄く黒い影が見えた。カドリのつけたものだ。
(私は聖女ではない。まして、神聖なるものでもない。凶々しいものなのだ)
それでも御者に黒い影が憑いた以上、そうそう魔物に襲われることはないだろう。魔物も馬鹿ではない。自分より強い相手を避ける。
カドリはいつもどおり、水色のヒラヒラした上下の衣装で身を包んでいた。森の中ではよく目立つ色合いだろう。
構わずにスタスタと森の中を進んでいく。
(本当は同胞に運んでもらった方が馬車よりも速かったのだがね)
魔力を消耗する上に同胞も疲れる。
(それに別途、同胞達にはやってもらいたいことがある)
カドリは扇を口元に当てたまま目を細めた。
気付くと笑ってしまっているのではないか。昔、鏡で見た、そういうときの自分の笑顔が酷く凄惨だった。以来、笑顔すらも扇で物理的に隠したくなったのである。
まんまと逃げおおせたと思っているかもしれない聖女フォリアを同胞たちが探しているのだった。
(聖女が戻るなら戻るに越したことはない。今からでもベルナレクの国と国民のため、今まで以上に働いてもらう)
今はまだ国境付近に至ったかどうかぐらいのところだろうか。隠れながら進んでいるなら、もっと手前かもしれない。
歩きやすく道がある。道があるということは人の手が入っていたということ。
(まだ人の領分なのだ)
思うとなんとなく気が休まる。
道はウェイドンの村へと続き、レグダの最前線まで伸びているはずだ。
(まだ間に合うか)
常人よりもはるかに速くカドリは歩ける。国中を回らなくてはいけない立場なのだ。役割というものがある。それは聖女と変わらない。
途中、ウェイドンの村手前で道からわざと外れた。
直接、村に入ってしまうと、村人や敗残兵たちとのしがらみに巻き込まれて、動きを制限される恐れがある。まだ自由の身でやっておきたいことがあった。
(聖女フォリアの元護衛たち、無駄死にさせるにはあまりに惜しい)
カドリの記憶では20名ほどの腕利き集団だ。魔物の集団を今後も退け続けるためには、カドリの周囲にも屈強な前衛が必要となるだろう。自分には通常の兵士の味方すらいないのだ。
藪の中を進み、ウェイドンの村を見下ろせる位置にまで出た。
(思っていたほどの兵士はいない、か)
村で作業をしている人々を見て、カドリは思う。
物々しい雰囲気ながら、住民の方が多いようにカドリは感じた。
柵を頑丈に補強して直したり、穴を掘ったりしている様子だ。既に何度かは小規模な襲撃に晒されているのだろう。人々にまだ踏ん張ろう、という気概があることが、カドリにとっては朗報だ。
「そして、私は魔物の行動圏に入った」
カドリは口元に当てていた扇子を閉じてから、また開く。そして口元に扇子を当てて隠した。ゾッとするような笑みを浮かべていることだろう。集中するときの儀式のようなものだ。
ブツブツと不満を並べて呟く。
不満を言っていると魔物が近寄ってくることもない。
(寄ってこれるだけの大物が、いるならいるで構わないが)
ウェイドンの村に強敵が向かわず、自分の方に来るのはいいことだ。自分一人で倒すまでのことである。
(その分だけ村が安全になるということだからね。一般人もたくさんいたのだから。無辜の人々が犠牲になることもない)
だが、何も襲っては来ない。やはり、まだウェイドンの村の近くにいるのは小物ばかりなのだ。
「まずいな」
カドリは歩きながら呟く。走らなくてはいけないかもしれない。
血の匂いがしてきた。いよいよレグダの最前線に近づいてきたのだろうと察する。
やがて森の中、崩れた土塁が視界に飛び込んできた。そこら中に遺体が転がっている。
レグダの最前線に辿り着いたのだ。長年、防壁で囲った土地に陣営を築いて、魔物と戦い続けてきた拠点である。破壊されているが小屋なども点在していることに、カドリは遅れて気付いた。
「遅かった、か」
カドリは落胆して呟く。
身を屈めて最寄りの遺体を検分するに、白い軽鎧に白銀の盾、折れてはいるが立派な剣を装備していた人物のようだ。
さらに盾の表には、教会をあらわす白馬の文様が刻まれていた。聖女フォリアの元護衛、その誰かだとは推察できる。当然、誰とも面識が無いのでカドリは誰かまでは分からない。
「主力が退却するほどの戦況だったのだから、苦しい状況なのは分かりきっていた」
ウェイドンの村で見た兵士たちは、そのまま、ここレグダの最前線から退却してきた兵士たちだろう。
「私では弔ってやることも出来ない」
申し訳ない思いとともに、カドリは呟く。
ただの雨乞いなのだ。せいぜい目を瞑って黙祷してやるぐらいしか出来ない。
本当は墓も作ってやりたいが、今度はウェイドンの村まで戻って、今、生きている人々のため、魔物の襲撃に備えなくてはならない。
それでも死者のため黙祷を捧げていると、甲高い音を耳が拾った。金属の音、剣か槍か。武器のものであることは分かりきっていた。
カドリは音のした方へ走る。
「くっ、ぐっ!」
白い軽鎧を纏った兵士が純白の槍を持って、岩の剣を持つ岩の身体をした戦士と戦っている。淡い桃色の髪が森の中では実によく目立つ。
人間ではない、魔物の方は『岩兵』という土属性の魔物だ。
身体が固く、胴体中央にある核を貫かない限りは永遠に戦い続ける難敵である。風や水属性の魔術攻撃を受けると身体の組成を維持できず、滅法弱いのだが。
物理攻撃しか出来ない戦士たちには厳しい相手だろう。
なお、武具は個体ごとに違うのだが、今いる個体は岩の剣を振るっている。
戦士では不利だ。
(おまけにどうやら負傷しているようだ)
色白で端正な顔立ちの若い兵士だ。打ち合うたびに痛みで顔を歪めている。負傷してなお、分の悪い相手と戦えているのだから、武芸の腕前はかなりのものと思えた。
しかし、疲労もあるのか、とうとう槍で攻撃を受け止めようとして、若い兵士が弾き飛ばされてしまう。
「くうっ」
木に叩きつけられて、若い兵士が苦悶の声を上げる。
「君っ!」
カドリは声を発して自分に注意を向けさせ、『岩兵』に駆け寄り身を寄せた。
「な、なぜ一般人が!き、危険ですっ、退がってくださいっ!」
鎧も来ていない自分を一般人だと思ったらしい。槍を杖代わりになんとか立ち上がろうとしながら若い兵士が叫ぶ。
(こんなところに今更、一般人がいるわけもないだろうに)
カドリはどこまでも冷静だった。岩兵ごときに自分の敵は務まらない。
「いい人間だな、君は」
告げて、カドリはいつも口元に当てている鉄扇で岩兵を軽く叩く。
ゴゥンッと太い破裂音とともに、岩兵が粉々に砕けて飛んだ。
「なっ」
なんとかよろよろと立ち上がった若い兵士が絶句して目を見張る。
「私はカドリ。雨乞いだ。生存者がいたら、連れて帰ろうと思ってね。君は?」
カドリは鉄扇を口元に当てた。内側で薄く笑みを浮かべる。
「私はアレックスといいます。この戦線に来るまでは聖女フォリア様の」
言いかけてアレックスが口をつぐむ。細身に薄い桃色の髪をした、瞳は淡い紫色の、端正な若者だ。華奢だが負傷していなければ、かなりの手練れだろう。
「もう聖女フォリア様の護衛団は私しか生き残っていません。仲間の大多数を失い、途中で隠れて離脱しようとしたのですが、それもかなわず。とうとう団長もつい先程」
仲間を失うのは誰であれ、沈痛なことだ。
本当は弔ってやりたいし墓も作ってやりたい。カドリは薄く笑みを浮かべたまま、内心でその死を悼む。
「分かった。いろいろ無念もあると思うが1つ頼みがある」
今は国難の時だ。アレックスにとって不快かもしれなくとも、今後の話をしなくてはならない。
「この戦いの間だけでいい。この地区の人々を助けるため、私に力を貸してほしい」
たった一人であっても、いるのといないのとではだいぶ違う。
カドリは思い、アレックスの生存を喜びつつ告げるのであった。