3 追手〜オオツメコウモリ
長年、暮らしてきたベルナレク王国王都ベルスを後とすることになった。
聖女フォリアは馬車の窓から身を乗り出して、見慣れたベルスの町並みを振り返る。未だに実感が湧かない。
(こんな形で出ることになるなんて)
懸命に責務をこなしてきたつもりだった。
(確かに鉄鎖獅子に私は勝てなかったけど)
当然、悔しい思いもあったうえ、力不足まで痛感していたところ、さらに追い討ちのような仕打ちを受けたのである。
フォリアは馬車の椅子に再び身を戻した。
「名残惜しいですか?」
馬車の中、向かい側に座るレックス皇子が尋ねてくる。
信じられないことに、魔物に負けるは、王太子からは破談をされるは、の自分を妻に欲しいのだという。幸せや喜びよりも、未だにフォリアの中では戸惑いや驚きのほうが強い。
まだ全て昨日のことなのだ。
『拉致される可能性がある』とレックス皇子やその従者のハリスが言っていた。大袈裟で被害妄想ではないかとフォリア自身は思っていたが、神聖教会の教主も青褪めた顔で自分を逃がそうとしてくれたのだ。無碍には出来ない。
(それでも、こんな私でいいのかしら。王子から捨てられたような女で。この御方だって、自国で妻になりたいって人がきっといくらでもいるでしょうに)
青髪の端正な美男子であるレックスをちらりと一瞥して、フォリアは思う。余計なお節介かもしれない。
婚約破棄された当日に求婚してくれたのだから、悪い印象など抱きようもないのだが。本当に自分は、このレックス皇子や親代わりの教主たちが言うように危険なのだろうか。
「ええ、その、心配で」
フォリアは俯いて答えた。なんとなく眩しくて正視出来ないのだ。
心配なのは自分を捨てたヘリック王子のことではない。
自分の維持してきた結界がほつれた後のベルナレク王国自体と国民が心配なのだ。
北の魔窟周りには大昔に大聖女が考案作成した守り石とその祠があり、定期的に歴代聖女が神聖な魔力を注ぎ込むことで維持してきた。
(しかも、ちょうど更新時期なのに)
なお、更新は6年おきに実施するよう言い伝えられてきた。鉄鎖獅子など強力な魔物が漏れ出てしまったのも更新時期だったからだ。
「本当に優しい人だ、あなたは。私はますます手放したくなくなってしまいましたよ」
冗談めかして、しかし、労るような視線を注いで、レックス皇子が告げる。自分としてはまだ、こういうやり取りを楽しめる心情ではなかった。
「一緒に戦ってきた仲間や私を育ててくれた教会の人たちのことも心配です」
本当はせめて結界を強力に張り直し、お世話になった人たちにじっくりと別れを告げてから出国したかった。それすらも許されない情勢なのだという。
「申し訳ありません。しかし、事は一刻を争うのですよ」
自分の戸惑いや不満が伝わったのか、今度は真摯な表情を浮かべてレックス皇子が言う。
こうしている間にも馬車がどんどんとブレイダー帝国との国境へ東へと進んでいく。
何に切迫しているのか。護衛の20名もカドリという青年に無力化されていたのが復活しており、さらには50人ほどの兵士もついているのだ。
皇太子レックスにとっては、ただ穏やかな旅となるのではないか。
(この辺りはもちろん、ブレイダー帝国までの街道は安全なはずだけど。あまり魔物も出ないし)
つい先日まで魔物を討滅するため、ベルナレク王国中を駆け回っていた身の聖女フォリアである。国内の情勢はしっかりと頭に入っていた。
「あっ、ブレイダー帝国内が、それほど急を要する状態なんですか」
ようやく思い至って、聖女フォリアは尋ねる。生国のことしか考えられなかった自分の不明を恥じていた。
「いえ、東に小さな魔窟があるので、まったく悩まされていないわけでもありませんが、ベルナレクほど酷くはありません。歴史の古い巨大な魔窟を国土のすぐ北に抱えているのですから」
苦笑してレックス皇子が答える。
『魔窟』には『主』とでも言うべき魔物が棲息しており、倒さないと消し去ることも出来ない。
「じゃあ、なぜこんなに急いでいるのですか?」
聖女フォリアは改めて首を傾げてしまう。
「ベルナレク王国は、あなたを体よく利用し、酷使するつもりです。一刻も早く、拘束される前にブレイダー帝国へ逃がす、ということで教主様とも話をつけたのです。あなたはそれぐらい今、危険であり、逃れるべきなのですよ」
レックス皇子が丁寧に説明してくれた。
にわかには、フォリアにとって頷き難いことではある。
「特にあの、カドリという男は危険だ」
深刻そうな顔でレックス皇子が続けて言う。
カドリのことは聖女フォリアも聞いたことがあった。歌の上手い美男子だ。ヘリック王子の友人でもあり、様々な祝宴に顔を出しては歌い手を務めている。
雨乞いでもあり、農期には耕作地で儀式もするらしい。
(危険っていう印象もなかったけど)
再度、フォリアは首を傾げる。
不意に甲高く警笛が響いた。
「敵襲っ!」
続けて護衛の誰かが叫んだ。
「やはりなっ、早速、来たかっ」
馬車の停止とともに剣を引っ提げて、レックス皇子が飛び出していく。
フォリアも聖石のついた杖を手に取って後に続いた。
「何事だ?」
側近らしき騎乗の男にレックス皇子が尋ねている。
皆が一様に同じ方向を見つめていることにフォリアは気付いた。
「魔物ですか?」
フォリアは誰にともなく尋ねる。
戦いの気配に自然と身が引き締まるような思いになって、杖を構えていた。聖なる石の先についた、唯一無二のものだ。聖女の魔力を増幅してくれる。
「こちらに飛んできますっ!」
別の護衛が叫ぶ。若く金髪だが、護衛としかわからない。まだ顔と名前が一致しないのである。
空に1つ、黒い点があった。みるみる近付いて大きくなってくる。身体の両脇に羽ばたく翼が見えた。
「いかんっ!オオツメコウモリだっ!」
相手の正体に気付いたレックス皇子が剣を抜き放っていた。
遥か彼方から飛来してきて、一瞬の間に獲物を強靭な後ろ足で鷲掴みにするような戦い方を得意としている魔獣だ。
魔獣と魔物にはっきりとした違いはないが、より獣に近く一見して獣と認識できるものが、総じて魔獣と呼ばれていた。
オオツメコウモリというのは一気に間合いを侵略してくることから、馬車の御者などからは特に恐れられている。
「それに、剣では相性が悪い」
護衛の人々がほぼ皆、片手剣を得物としていることにフォリアは気付く。間合いが短く、空を飛ぶ相手には不利だ。
「フォリア殿は馬車の中へ!」
レックス皇子がオオツメコウモリに目を向けたまま叫ぶ。
自分を気づかってくれての言葉だとは分かるが、ブレイダー帝国は本当に平和らしい。
ベルナレク王国では誰であれ、戦える人間は戦うのである。
「かえって危険です!私も戦いますっ!マジックウォール!」
フォリアは杖を掲げて魔力を放出する。複雑で強力な魔術であれば、自分もいちいち祈りを捧げなくてはならないのだが。
マジックウォール。ただの透明な魔力の壁である。
「オオツメコウモリにはこれが一番いい」
フォリアも何度か戦ったことのある相手だ。
行動が分かりきっている。落ち着いていれば一気に飛んでくるだけの相手なのだ。
(冷静に落ち着いて、動線を操って誘導するだけ)
何枚も作り、あえて1箇所、地面に近いところに穴を設けておく。
「殿下っ!低空へと誘導します。息を合わせて、斬り倒して下さいますか?」
あえて微笑みを見せて、フォリアはレックス皇子に告げる。
今、この場にいる中でもっとも腕が立つ剣豪がレックス皇子なのであった。素早く飛ぶ巨大な相手にも通用しそうだ。
「あぁ、任せてくれ」
だが、あまり実戦慣れはしていないのかもしれない。頷く顔が強張っている。
(大丈夫、殿下なら出来ます、多分)
フォリアは信ずることとした。
既にかなり近付かれている。ただの黒い点だったところ、体毛の紫まで見て取れるのだった。
体長は羽を広げれば1ベルク(約4メートル)にも及ぶ。
オオツメコウモリというのは絶えず聞き取れないほどの甲高い声を発しており、その反響で見えない壁なども避けてしまうのだ。
巧みにマジックウォールを避けて、地面すれすれを飛んでくる。
(その、巧みさが命取りよ)
昔は上手く地面すれすれにマジックウォールをフォリアも設置できなかったものだ。今は簡単に出来る。
「殿下、額が急所です」
フォリアは十分にオオツメコウモリを引き付けていた。
「今ですっ!」
護衛を制して前に出たレックス皇子に、フォリアは声を上げた。
「おうっ!」
レックス皇子が駆けて跳躍し、白銀の剣を一閃させた。
見るからに業物の、素晴らしい切れ味だ。
「ギエエエエッ」
断末魔の叫びをあげて、オオツメコウモリが額から血をほとばしらせて絶命した。
「すごい、腕前です。殿下」
オオツメコウモリが動かなくなったのを確認してから、フォリアはレックスに微笑みを向けた。
「いや、フォリア殿の指示が的確だったからだよ」
汗を袖で拭って、レックス皇子が謙遜する。
眩しい笑顔を返されて、フォリアはなぜだか照れくさくなって俯く。
「でも、それにしても、なんでこんなところにオオツメコウモリが出たのかしら?もっと南方の、それも山間に住む魔獣なのに」
フォリアは首を傾げる。
だが、もっと不思議なことが起きた。
「あっ!」
オオツメコウモリの死骸が忽然と消えてしまったのだ。
「やはり自然のものではないよ、フォリア殿」
厳しい顔でレックス皇子が言う。
「だから、一刻も早く我が国へ向かおう」
言われて、ようやくフォリアは自身が強硬にでもベルナレク王国に縛りつけられそうになっていたのだ、と痛感するのであった。