砂時計の雫
大人の恋愛?
なのか、わかりませんが、これもひとつの形なのかも。
~ 僕 ~
夜も更け、気温は下がり始めていた。開け放った窓からは、ときおり思いだしたように風が吹き込んでくる。
パソコンに向かって書いている原稿は遅々として進まない。締め切りは三日後に迫っていたが、仕上がりは二割程度。いらいらする気持ちを落ち着けようと、カフェインと煙草を絶え間なくとり続けたため喉は嗄れたように痛かった。
僕は気分を変えようとキッチンに立った。コップにミルクを注ぎレンジで温める。流石にもうコーヒーは口にしたくなかった。だからホットミルクに蜂蜜をたらしたものを作ることにした。
喉の痛みにいいと知り合いに薦められ、試したところ意外に効果があったのだ。それ以来気分転換を兼ねて作っては飲んでいる。
蜂蜜ミルクを飲みながら『仮面と時の獣の相互性について』という、いま書いている原稿に思考を巡らせた。
―――どうやって仕上げるべきか。
時間の流れと、それを抗うように挿入される仮面のエピソード、時間を進める時の獣の鳴き声、それらを上手くまとめることが出来ないでいる。
フリーになって三年。そろそろ自分の名刺代わりになる作品に携わりたいと考えていたときに舞い込んできた話だった。
外部受注の編集兼・解説、それが僕の仕事だ。で今回は注目株の新人作家の解説を任されている。
作品自体は悪くない。だが、掴みどころがない作品だけにどう書けば良いかわからなかった。
作品の意図としたことと違うものを書けばたちまち批評家の餌食になってしまう。そうなれば組織に属さない僕のような人間には致命的なものになりかねない。逆に評価されるようなことになれば、これを期に大きな仕事が転がり込む可能性もある。
やっと掴んだチャンスだし、ものにしたかった。
どうすればいい。
なにか良いアイデアはないだろうか。
僕は時計に目をやった。午前二時十七分。
機械時計の父とよばれているのは、ホイヘンスだっただろうか。
記憶は確かじゃないが、時計はすばらしい発明だと僕は思う。時の流れを目で見て確認することができるのだ。
だが、時間というのは元来ファジーなもののはずだ。それが視覚化され誰もが同じ時間を知ることが出来るようになった。そのために人間が失ってしまった感覚というのは案外多い気がする。
そう考えると不思議なものだ、と僕は思う。
喪失した感覚の中で、もがき、何かを手にしようとしている。
自分たちは時の流れに身を預けてしか生きていけないのに、だ。漂うように、曖昧に。
いまの時代白黒ハッキリさせたがる風潮がある。曖昧さは悪と見なされているように感じる。
もちろんハッキリさせなければならないものもあるだろう。
―――だが……。
いま解説を書いているあの小説のテーマにも、捕らえられないものをなんとか形に、目に見えるものにしたいというのがわかる。
ファンタジックな世界観の中に、硬質なエピソードと物事の曖昧さが同居しているのだ。
だからだろう、作品の底流には全体を掴みきれないやわらかさがある。しかし、そうでありながらも前に進んでいこうとする不思議な力を持ったものに仕上がっていた。
その上、詩的な言葉で綴られる描写は秀逸で、仮面が崩れさらさらと流れる音や、時の獣が鳴き時間が動き始める空気感は、自分の中にある五感以外の場所で感じることが出来た。
読者にどうすれば、この作品の魅力を伝えることが出来るだろう。どうすれば批評家を唸らせることが出来るだろう。
そう思いを巡らしているとき、ふと僕の中でイメージが沸き上がってきた。
仮面が崩れる音―――さらさら……。
時の獣が鳴く―――時計……。
砂時計!
使えるかもしれない。
砂時計を道具に、主人公の心情、仮面の過去、時の獣の未来、これらに迫ることが出来る。
これしかないように思えた。
溢れ出すイメージを逃さないように、僕はグラスをシンクに放り出し、部屋に戻ろうとした。
そのとき、視界の端で影が揺れた。
ここには自分以外誰もいないから、それはあり得ないことだった。見間違いだろうとおもいつつも影の方に向いた。
そこにはなにかがいた。黒く、もやがかったものが宙に浮いていた。
「誰だ!」
恐怖心からだろう、必要以上に大きな声が出た。
「誰と問われても困るんです」
その返答に僕は息を呑んだ。まさか答えが返ってくるとは思ってもいなかった。
「だって名前を思い出せないだもの」
と言葉が続いた。
僕の身体と思考はフリーズし、幽霊というひとつの単語が浮かぶまでには長い時間を要することになった。
~ 影 ~
その影は消えることも、僕に危害を加えることもなく宙を漂っていた。
「疲れてるのかな」
と僕は呟き、仕事部屋に戻ろうとした。
「ちょ、ちょっと……」
影が僕を引き留めた。
僕は振り返った。
「なに」
「話を聞いて欲しいの」
「時間がないんだ」
たとえ幽霊が僕の目の前に現れようと、しなけらばならない仕事が無くなるわけじゃない。
僕は一刻も早く原稿を仕上げたかった。イメージが消えないうちに仕事に取り掛かりたかった。
影の言葉を無視して仕事部屋に戻った。
椅子に座り、パソコンに向かう。そして僕は愕然とした。電源が落ちている。
「ごめんなさい。どうやら家電製品とは相性が良くないみたいなの、わたし」
「…………」
「よくあるじゃない電球がチカチカしたり、突然テレビが付いたり消えたりするアレ。たぶんそれが起こったのね」
いつの間入ってきたのか、ベッドの上で影がいった。僕は絶望的な表情でそれを見つめた。
「どうしてくれるんだ」
「なにを」
「データーを保存してないんだぞ。今日書いたものが全てパーになった」
いいながら、感情が怒りがこみ上げてくるのが自分でもわかった。だが、止めることはできなかった。
「だから謝ってるじゃない、ごめんなさいって」
黒いもやが膨張と縮小を繰り返し始めた。どうやら感情の変化が大きさに表れるらしい。
「謝って済む問題じゃない」
「あなたも悪いのよ。パソコンで仕事をしていて、データーをこまめに保存するのは常識でしょ」
「うるさい!」
「それに人が頼んでいるのに、無視するからこうなったんじゃない。そもそもキッチンで話を聞いてくれたらこんなことにならなかった」
「幽霊なんかに説教されたくないね。それに幽霊が人様に頼み事なんてするな」
「ユーレイなんかじゃないわ!」
影が感情的にいった。つられて僕もいい返した。
「じゃあ、なんだっていうんだ!」
「知らないわよ!」
僕は首を振り、電源ボタンを押した。
しかしパソコンは立ち上がらなかった。
僕は深い息を吐き出し、高ぶる感情を落ち着けた。
「なあ、頼むから消えてくれないか。君がいたら仕事にならない。僕には力になれないし、もっと他に適任の人がいるはずだ。その人の所にいってくれないか」
懇願するようにいったが、影は素気無かった。
「嫌よ。話を聞いてくれるまで出ていかない。それにあなた以外には無理なことなのよ」
僕は首を振り、なにかいうのをあきらめた。
「……わかったよ。聞くよ。だから早く話して、どこかにいってくれ」
そういうと、影は口をつぐむように黙った。どういう表情をしているのかは、僕にはわからない。
そもそも影に表情なんてものがあることすら僕には知らない。
しばらくして、影がぽつりといった。
「いま『仮面と時の獣』の解説をかいているわよね」
「ああ」
どうして知っているんだ、と思いつつも僕は頷いた。
「その解説をわたしに書かせて欲しいの」
「なんだって!? そんなこと無理に決まってるだろう」
「そうよね、物理的に……」
「そうじゃない。君がいたらパソコンの電源が付かないから、無理だといっているわけじゃない」
「じゃあ、どういう意味よ」
「これは大事な仕事なんだ。僕のこれからの生活がかかっているといってもいい。素人に任せることなんてできないし、させたくない」
「だったら全てとはいわない。わたしの気持ち、わたしの言葉を盛り込んで書いて欲しい」
「無理だ」
と僕はいった。だが影からはこれ以上一歩も引かないという強い意志が窺えた。
「どうして、そんなことをする必要がある」
と僕は当然の疑問を口にした。
「わたしね、このままなにも生み出せないまま終わってしまうのが嫌なの。
怖いのよ。みんなわたしのことなど忘れてしまう。
名前や顔、そして存在していたという事実も。
だけどそれは仕方がないことだと思う。時間という放流の中でわたしたちは生きているんだから。
でもね、やっぱり納得できない」
「そもそも君に顔や名前があるようには見えないけど」
「あなたにはわからないだけよ。わたしはちゃんと存在している。ある場所では名前も持ってるし顔もある。あなたが存在しているように確かなことよ」
「どうだか、ね。君は忘れられるのが納得できないといったけどそんなことは関係ないさ。世界はそういう仕組みになっているんだから。一個人でどうこうできる問題じゃない。僕にじゃなく神様にお願いするんだね」
といった僕の言葉を影は聞いてはいないようだった。
「わたしはね、人の心に傷とは違うけど、違和感というかモヤモヤしたものを植え付けたいの」
「…………」
「でね、その人がこの気持ちはなんだろう、と立ち止まり、考えるの。そしてどこか懐かしいような、切ないような気持ちになる。でもそれがなにかはっきりしない。そういう言葉を発したいのよ」
「どうして」
「それが、わたしが生きた証になるからよ。たとえわたしのことを知らない人でも、わたしを思い出すことになるの。うまくいえないけれど、そういうことなの」
僕は黙った。影がいった言葉は、僕の気持ちを表しているようだった。
時代、時間を越えて自分が存在したことを残したい、と僕も常々考えていた。
だが、それは歴史に名前を残したいという意味ではなかった。
子ともが欲しいという意味でもない。人の心に、そっと生きていたいのだ。寄り添うように、考えて欲しいのだ。
ふとしたときに思い出して欲しい。心に引っかかる存在でいたい。
そう願っていた。そういった言葉を、作品を、残したいと僕は思っていた。
「でも、どうしてこの解説なんだ? ほかにもいろいろあるだろう」
「『仮面と時の獣』はわたしの分身なのよ。別に著者というわけでも、作品に係わったわけじゃないけど、この作品はわたしなの」
僕には影がいわんとしていることが、なんとなくわかるような気がした。
『仮面と時の獣』にはそういう風に思わせる力がある。そう、僕自身も、この作品にはどこか他人事ではないものを感じていたのだ。
「だけど解説を書いたところで、人の心に違和感を植えつけることになるとは思えない」
「そうかもしれない。だけど、この作品はたくさんの人に読まれることになると確信している。それだけ植えつけられるチャンスがあるの」
影はどこか懇願するようにいった。
~ 妻 ~
僕と影はダイニングルームにいた。影がいる限りパソコンは立ち上がらないし、電源が落ちるほどのほどの影響があるのだ。電子機器にいいはずはないと考えてのことだった。
卓袱台に着いた僕は、水道水を注いだコップを置いた。喉の痛みは相変わらずあるが、蜂蜜ミルクを飲もうという気にはなれなかった。
「で、いったい、君はどういう言葉を入れたいんだ」
水で喉を潤した後、僕はいった。
「その前に、あなたについてもっと知りたい」
「僕について?」
「そう。あなたがいま抱えている問題について」
「……そんなものないよ。あるとすれば、どうすればいち早く君が消えてくれるかってことだね」
「わたしがいったのは、そんなことじゃない。あなたが心に抱えている、気に病んでいるものよ」
「仕事のことか?」
「違う。奥さんのことよ」
僕は飲もうとしていた水を口元から離した。つい、睨むように影を見つめた。だが、影には意味がないことのようだった。
「なに」
「いま、別居している奥さんのことよ」
「どうして、知ってる?」
「だってわかるんだもの」
「解説に書く言葉をいうのに、どうして他人の私生活が必要なんだ」
「言い回しや文体、それに言葉の選択にはその人の性格、生活環境が大きく影響していると思うの。あなたがわたしの言葉を文章にするのだから知る必要がある。言葉や文章は、その人の心の奥にあるものが表れやすいし、実際心の中にあるものほど力を持つ」
たしかにそうかもしれない。だが、得体の知れないものに抱えている問題など話したくない。
「わたしには大体のことがわかっている。でもあなたの口から聞きたいの。話すことによって本人ですら気づかなかったことが解るときもあるし、縛られているものから開放されることもある。
それがわたしの言葉、伝えたいことを読者に伝えやすくする」
「幽霊には、プライバシーもくそのないんだな」
僕は吐き捨てるようにいったが、影は、しれっとしていた。
「だからユーレイじゃないって」
僕は長い間黙ったままだった。どうして話さなければならないんだという思いと、どうやって話せばいいんだという葛藤をしていた。
ぽつぽつと話し始めた僕に、影は黒いもやを大きくしたり小さくしたりしながら黙って聞いていた。
妻の異変に気づいたのは二週間前ほどだった。
仕事のために借りているマンションから帰ってきたのは午後九時ごろ。いつもより早い時間だった。
部屋に入ると彼女はバスルームから出てきたところで、僕の顔を見て驚いた顔をした。
「いま帰ってきたのか」
といった僕に、彼女はすまなそうに謝った。
「ごめんなさい。今日、急に昔の友達に会ってご飯食べに出かけてたのよ。だからまだあなたの食事の準備ができてないわ」
彼女は髪を拭きながらいった。
「ああ、いいよ。適当に済ますから」
「あら、そう。悪いわね」
そのとき、僕は彼女の呼気からアルコールの匂いを嗅ぎ取った。
「お酒飲んでるの?」
「ええ。昔話に花が咲いて、ついつい周りにつられて飲んじゃった」
普段出かけてもめったにお酒を飲まない彼女にしては珍しいことだった。僕は素直にそのことをいった。
「そうね。久しぶりだから酔っちゃった。そうそう。そういえばK出版社のTさんが、こんど新人作家の解説を頼みたいっていってたわ」
「Tさんと飲んでたの」
と深く考えずにいった僕の言葉に、彼女の顔が一瞬強張った。しかし僕にはそれがなにを意味するのかわからなかったし、深くも考えなかった。
「そんなわけないでしょ」
「ま、それもそうだな。じゃあ、今度ぼくからTさんに電話しとくよ」
「うん、お願いね。わたし疲れたから、今日はもう寝るね」
そういって彼女はそそくさと寝室に消えた。僕は冷凍食品をレンジで解凍して、ひとり寂しく食べた。
四日後、その日も早く帰宅した僕は彼女に晩酌を付き合ってもらっていた。
今日受け取った原稿を読んで、久しぶりに妻と飲みたくなったのだ。
その原稿というのが『仮面と時の獣』だった。僕はこの仕事を任されたとこに興奮を覚えていた。
一読して、これは自分のために書かれたものだ、とさえ思った。
僕は饒舌に語り、お酒の強くない彼女は酔っていた。楽しい時間だった。
僕は酒の勢いを借りて「愛してる」といった。
呂律の怪しくなった彼女も「わたしもよ」と答えた。
しかしその後に続いた言葉に、僕はわが耳を疑った。彼女が口にした名前はTだった。
しばらくして空気が変わったことに気づいたのだろう、妻が窺うように僕を見つめた。
震えそうになる声を僕はなんとか堪えていった。
「どういう、ことだ」
彼女は怯えたような目をしたが、なにもいわなかった。
「どうしてTの名前が出てくるんだ」
「…………」
「どうしてここで、Tの名前が出てくるんだ、と聞いているんだ」
僕は信じられない思いだった。
まさか、妻が浮気。
しかも、自分に仕事を回してくれる人間と。
「信じて、あなたが思っているようなことはなにもないの」
彼女はいった。信じたかった。だけど、僕はすぐに言葉を継ぐことができなかった。
「……愛してるなら信じて、わたしが必要なら信じて……」
それでも黙っている僕に、彼女は涙を浮かべた。
「信じるよ」
僕は、かろうじてそういった。彼女の目からは涙がこぼれた。
僕は彼女の側により、流れる涙を親指で拭った。彼女は照れたように微笑んだが、僕の心は晴れることはなかった。しょっぱく、切ない気持ちでいっぱいだった。
翌日、僕はいつものように仕事に出かけた。
朝から原稿は進まなかった。昨日の出来事が尾を引いていた。このままでは行けないと思い、自宅に帰ることにした。
妻を昼食に誘おうと思ったのだ。昔結婚する前に出かけたなじみのレストランに行き、気持ちをリセットしたいと考えてのことだった。
しかし彼女はいなかった。買い物に出かけているだけだと思った。だが、一時間たっても二時間たっても帰って来ることはなかった。
僕は仕事部屋に戻り、原稿を書くことにした。だが、彼女のことが気にかかり一向に仕事は進まなかった。
夜、仕事を終え自宅に帰ると彼女は普段と変わらない様子でに料理を作っていた。僕はそれとなく今日出かけたかどうか訊ねた。
しかし返ってきた答えは「今日は一歩も出ていない」というものだった。
「どうして」と聞き返した彼女に僕は、「いや、電話したけど出なかったからどうしてだろうって思ってさ」と答えた。
「ああ、たぶんウトウトしてたのね。最近なんだか眠たいのよ。疲れてるのかしら。でも、電話で何の用だったの」
「出版社から仕事の電話をもらう約束をしてたんだ。いくら待っても携帯にかかってこないから自宅に連絡がいったんじゃないかって思ってさ」
「そうなの。電話はなかったと思うわ。でも、わたし寝てたから気づかなかっただけかも」
そういって彼女は笑った。僕は、調理に戻った彼女を後ろから抱きしめ、首筋にキスをした。
彼女を離したくなかった。
浮気など信じたくなかった。
「止めてよ、危ないから」
といいながら彼女は身をよじらせた。
いまキスをした場所と少しずれた所に、薄赤いあざがあるのを僕は発見した。虫に刺されたそれとは違った。
キスマーク。
僕がつけたものではなかった。
動きを止めた僕に彼女は妖艶に微笑んだ。
「もう、変な人ね」
僕の心の一部が、深い奈落の底に落ちていくのがわかった。
~ 仮面 ~
「あなた。それでも奥さんを愛してるの?」
話し終えた僕に、影が優しくいった。
「わからない。正直、考えることができないんだ」
「でも浮気なんてみんなしてるわよ。気にしなくていいんじゃない。男も女も関係ない。浮気する人はするし、過去していた人や未来にする人もいる。絶対数はあなたが想像しているより遙かに多いわ」
「知ってるよ、そんなことぐらい。見聞きしているし、これでも35年生きているんだ。それなりに色々経験はしているつもりだ」
「だったら……」
「そう簡単に割り切れるものじゃない」
「浮気するほうにもされるほうにも原因がある」
「そんな一般論が聞きたいわけじゃない」
「ねえ。因果応報じゃないけど、あなたも浮気をしたらいいじゃないかしら」
「…………」
「例えばよ、わたしが若い独身の女の子だとするわね。でね、仕事ができてかっこよくて、ちょっといいなって思ってる人がいるの。でもその人にはお腹の大きな奥さんがいる」
「…………」
「だけどその人がある日、わたしに誘いをかけて来るのよ。こんど食事でもどうかって。だけどわたしは断るの。だって奥さんがいる人だし……。
でもその人は、寂しそうにいうの。妻はいま実家に帰っていていないんだ。
男ひとりじゃ侘しいから、付き合ってくれると助かるんだけどって。
とても紳士的にね。とても素敵な声で。わたしは、じゃあ食事ぐらいならいいかなって思ってOKするの」
「…………」
「そんなことが一回二回と続くうちに、やっぱり男と女の関係になる。わたしはこの人に必要とされている。この人の役に立ちたい。そのときは浮気なんて深いこと考えてもいない。でも、やっぱりそれは浮気なのね」
「…………」
「しばらくして、わたしはその人と別れることになる。少しゴタゴタガあったけど、気持ちよく別れるの。それはわたしに本当に好きな人ができたから。そしてその人とお付き合いして結婚する。
で、その人の子を身籠る。わたしは幸せの絶頂にいる。でも、最近愛する旦那さんの様子が変なことに気づくの。どこかそわそわしていて、仕事や出張といって家を空けることが頻繁に起こるの」
「…………」
「で、わたしはぴんと気づくのよ。あ、この人浮気してるって。でも、わたしはそれを旦那さんにいうことができない。
だって、かつてはわたしがしていたことだもの。あの時、あの人の奥さんはどんな気持ちだったんだろうって。
本当に実家に帰ってたのかな。本当は全部知っていて耐えていただけじゃないのかなって」
「…………」
「因果応報。相手は違うけど、回りまわって自分に返ってきたのねってわたしは思うの。そう考えてわたしは深く後悔するの」
「…………」
「どう。相手に痛みを知ってもらうには、同じ痛みを与えるの」
「……僕は、そんなことがしたいのじゃない……」
妻の浮気に気づかなかった自分の愚かさあった。自分の魅力のなさが招いた虚しさがあった。ただ自分が惚れた女が、こともなげにそのようなことをしている事実が嫌だったのだ。
結局、自分はひとりなのだと思った。誰も僕を必要としてないのだと知った。
顔が重たかった。
いつの間にか仮面をつけられているような感覚があった。
顔を手で覆った。
自分でも気づかないうちに嗚咽が漏れていた。
涙が流れ出て、ぽつりぽつりと床に模様を描いた。
~ 砂時計 ~
ぽつぽつ床に音を立てる涙は、歪な時間を刻んでいた。
誰もが仮面を被って生きている。
それが素顔のようなものもあるし、まったく違うものもあるだろう。
僕も彼女も、世間も、世界も様々な仮面を被っているのだ。
僕は顔を上げると、洗面所に向かった。
蛇口をひねり水を勢いよく出す。顔を無造作に洗い、鏡に映った自分の顔を見た。
酷い顔をしていた。だけど先ほどまで感じていた顔の重みは消えていた。
『仮面と時の獣』の中にある、仮面が崩れる場面が脳裏に蘇った。
僕の仮面は、涙と嗚咽、そして影のお陰で音を立てて崩れたようだった。
鏡の向こうで、影がいった。
「わたしが解説に書いて欲しいのは『孤独』よ。だけどその中に希望も含まれているということなの。
それは小さく見つけづらいものかもしれないけれど、確かにあるのよ。
わたしは、そういったものを発信していきたい。伝えたい。そして人の心によりそっていたい。
あなたに、あなたの奥さんに、そしてこれから読むであろう無数の人に」
僕は鏡に向かってうなずいた。
影にうなずいたというよりも、自分自身に対してだったのかもしれない。
洗面所を出て、ふとすぐ隣のキッチンの棚に目をやった。そこにはパスタをゆでる時間を計るために使っている手のひらサイズの砂時計があった。
僕は思わず微笑した。解説を書くのに散々苦労して悩んだ挙句、出てきたアイデアはこんな近くにあったものなのだ。
僕は棚に戻そうとして、手を滑らした。床に落ち、砂時計のガラスが割れた。僕はあわてて拾い上げ手を添えたが、指先からは砂が滑り落ちていった。
こぼれて床にたてる砂の音が、僕には時の獣の鳴き声のように聞こえた。
未来に進む音。
彼女と話し合おうと思った。どういう結果が出るかわからないが、面と向かって話し合うのだ。
浮気したとこに関しては許せる自信がない。
だけど、心のどこかではやり直したいのだと思う。僕には彼女が必要なのだ。
どのような道があるかわからない。不安だし、恐かった。失うかもしれない。失っていることに改めて気づかされるかもしれない。
だけど時の獣は鳴いたのだ。いま、確かに。
僕は壊れた砂時計を棚に置き、携帯を取り出した。
ボタンを押し、電話をかける。
息を潜めるようにして、相手が出た。
僕は優しく、勇気を持って声を出す。
「もしもし……。いまから、逢えないかな?」
End
他にも色々短編書いてますので、よろしかったら読んでみて下さい。
感想などいただけたら嬉しいです。