運命の相手
湖を前に頭が真っ白になった俺は、深呼吸をした。
頭のモヤが晴れる。やれやれと思いながら立ち上がった時。
「あの……、ごめんなさいっ」
隣で可愛らしい鈴みたいな声がした。
その声の人物に目をやる。フードで顔は見えないが、女の子座りして顔の前で祈り手をしていた。申し訳ない気持ちはひしひしと伝わる。
「いい。君のせいじゃない」
悪いのは自分勝手な吸血鬼どもだ。
「でも」
たしかにフードで顔を隠してなければ、通せんぼもされないし、乗るチャンスもあっただろう。
それに巻き込まれた俺に謝るのは道理だ。
でも俺はこう考える。
「俺がアンタを無視して乗ろうとしたからバチが当たったんだ」
「バチ、ですか……」
「ああ。あいにく俺は神とか運命とかって奴を信じることにしているんでね」
「変わった吸血鬼ですね。そんなことを信じて何になるんですか?」
その時、後ろから声が聞こえた。
「あー……、間に合わなかったか……。まいったな、また校長にドヤされる」
声のした方を振り向くとよれよれのスーツ姿のおっさんが、アゴの無精髭をさすりながら途方に暮れていた。
「ディンゴ先生!」
フード女がおっさんをそう呼んだ。メキシカンな名前の割に見た目は日本人っぽい。
先生ってことは霧宮学園の先生なのだろうか。
「お? なんだ、フードの不審者かと思えば姫里君か」
「フードの不審者とは何ですか。姫里ココです、あなたのクラスの学級委員長ですよ」
「わかったわかった。それにしても珍しいな、君も遅刻か?」
「恥かしながら……。そうだ、先生。船を一隻、用意してくださいよ」
「無茶いうな。定期船でいくぞ。あぁ、船賃は出さないからな」
「ケチ! 無精髭!」
ディンゴ先生と呼ばれたおっさんは手をひらひらと振って罵詈雑言を無視した。
ずいぶん気に入られているようだ。
話に割って入れず気まずい気持ちになっていると、ディンゴ先生の方から声をかけてきた。
「で、君は転校生の黒曜君で合ってるか?」
「はい。黒曜バンです」
「そうか。俺はディンゴ。霧宮学園の教師で、君の担任だ。よろしくな」
「は、はい! よろしくお願いします!」
頭を下げる。
まさか担任がこのよれよれスーツのおっさんとは思わなかった。
肩をぽんぽんと叩かれて、頭を上げるとおっさんは一人でさっさと歩いて行った。
「ほら何してる、初日から遅刻の転校生君!」
「やめてくださいよ!」
痛い所を突かれ、俺は情けなく付いていった。
◆
ちょうど港に停泊していた定期船に乗って俺たちは出発する。
ディンゴ先生は中で一眠りすると言って、甲板に俺は取り残された。
やることもないのでぼんやり湖と霧を眺めていると、コツコツと後ろから足音が聞こえてくる。
「黒曜バンくん」
隣に立ったのはフード女だった。
巨乳を手すりにもにゅっと乗せているのに無意識に目がいって、慌てて湖に目をやった。
「バンでいい。で、きみの名前は姫里……」
「ココです。バンくん」
姫里ココ。それが彼女の名前らしかった。
「敬語もいいよ。どうやら俺たち同級生だし」
「いいえ! わたし、バンくんには迷惑をおかけしましたから……」
フード頭のままぺこりと頭を下げる。
何か事情があるんだろう。
「それはもういいよ。きみが悪いんじゃない」
「いえ、元はと言えばわたしのこの格好のせいです。人に肌を見られたくないだけで、大げさだったと思います」
「それはたしかに大げさだ」
夏なのにコート。頭までフード。大げさを通り越しておかしいレベルだ。
「人の目さえなければわたしだって……」
ギリギリと歯ぎしりの音がフードの中から聞こえた。
この話題はあまり触れない方が良さそうだ。
「それよりも定期船に乗れて運が良かった。神は俺に味方している」
「本当に神や運なんて信じてるんですね」
見るからにあきれてる。
「そうだぜ。俺はここにくるまで漫画を何冊も読んだんだ。その漫画の主人公たちはみんな運命的な出会いをしていた」
「運命的な出会い……、ですか?」
今度は訝しげだ。表情は見えないが声色で分かる。
「ああ。俺はこう考えてる。世の中の大抵のことは比較して一番良いものを選んだ方が良い。でも、人付き合いはそうじゃない。その出会いはもう運命なんだ。最初はそうじゃないと思っていても、物語の中でその出会いを運命だと信じた主人公は報われる。……少し難しかったかな」
ココの気持ちが途切れているような気がして、心配になって話をやめた。
彼女は言葉を選ぶように空を眺めた。どこまでも白く霧がかった空だ。
「じゃあ、この空の下のどこかに運命の相手がいるんですね」
「ああ」
俺はそいつを見つけて殺さなきゃならないからな、と心の中で唱えた。
でも、その前に俺は人間に戻らなねば。
ココはぱたぱたと手うちわをした。
「ですよね。いや、びっくりしちゃいました。まるで口説かれてるのかな、と思ってしまいまし――キャッ」
ブワッ!
その時、風が吹いた。
フードがはらりとめくれ、隠れていた顔があらわになった。
――ドキリ
「うそ、だろ……?」
俺は信じられなかった。
ココを見ただけなのに胸が高鳴っていたからだ。
「あの、どうかしましたか?」
こくりと首を傾げた。
ドッドッドッドッ
「そ、想像以上だな」
胸に手を当てる。もちろん自分のだ。たしかに彼女の胸は普通よりも蠱惑的ではあるが。いや、すごい心拍数だ。脳に必要以上の血が送られている。考えなくて良いことまで考えそうになる。
「あのぅ……、どこか痛めましたか?」
胸を押さえる俺を心配そうに見つめ、上目遣いを俺に送った。
目を合わせた瞬間、心臓が破裂しそうになった。
ははあ、これが恋か。
「だ、だだだ、大丈夫」
まずい、声が震えてる。
とんでもねえな、恋というやつは。
「大丈夫そうには見えません! 先生を呼んできますね!」
ココが立ち去る。すると、少しずつ頭が冷静になってくる。
俺はココに恋した。つまり、この子が俺を噛んだ吸血鬼なんだ。
ディンゴ先生が駆けつけてきた時、ココはふたたびフードを被っていた。そのおかげで俺は心臓がおかしくならずに済んだ。