潜入任務
ほとんど外が見えない輸送車に何時間か揺られ、俺は半年ぶりの外を見た。
何が変わったわけでもないのに、空気が変わった気がする。
ここからは船で移動らしい。同行するバロックが桟橋で手を振った。
「バン、あの辺りに島があるのが見えるか?」
指さした先は霧の中だ。
「何も見えない。霧が深すぎる」
「だろうな。湖の中に島があり、その丘の上に霧宮学園がある。この霧は普通の霧じゃない。意味は分かるな?」
意図的に作られた霧か。結界なのだ。
「ああ。招かれざる客は島にたどり着けない」
「その通りだ。年に何度か島に入るチャンスはある。今日がその日だ。学園生たちの夏休みが今日で終わりだからな」
夏休みが終わったばかりでも、ここは霧があって暑くない。むしろ寒いくらいだ。
「たしか全寮制だったな。帰ってくる生徒に混ざって上陸か。しかし、編入試験もなしに大丈夫なのか?」
「大丈夫だ、と言いたいところだが安心はするな」
「……わかった」
「それよりも任務を忘れるな。船で乗り合わせるかもしれないぞ」
「ああ……、任務、ね」
気が進まなかった。
俺を噛んだ相手を見つけたら、その人物に恋愛感情を抱くという。
バカバカしい。
「そう難しく考えるな。見つけるまでは気楽にやればいい。それとこれを渡しておく」
バロックは白い歯を見せて笑って、ポケットからスマホを取り出した。
「連絡用端末だ。機関のアプリが入っている」
指さしたそれは美少女が描かれたアプリだった。
よく見るとノーニャに見えなくもない。
それをバロックは立ち上げた。
『プリヴェット! バン! シャバの空気はどうデスカー?』
ビデオ通信がつながってノーニャの姿が映った。
「シャバって、どこでそんな日本語覚えたんだよ」
長い耳がぴょこぴょこ動いている。
まずい。さんざん聞かされたアニメや漫画の語りが始まりそうだ。
「それより何のアプリなんだこれは?」
『日々の体調や目撃情報をワタシに報告してクダサーイ! バン以外がアプリを立ち上げても単なるゲームにしか見えないように作ってイマース!』
「そうなのか?」
『では、お見せしまショウ』
そう言うとノーニャの姿がぐにゃりと歪んで、原っぱにウサギのマスコットキャラが居る画面になった。
そのウサギが手を振っている。
「まさかそれがノーニャ?」
『その通りデース! 学園生活で吸血鬼に混ざって人間であることを隠さなければなりマセン。メンタルバランスを保つためにも話し相手は必要デース! ぜひオネーサンと呼んでクダサーイ!』
「話し相手か。フン、すぐに終わらせるさ、こんな任務」
恋愛感情が何かは知らない。
でも、とにかくいつもと違う気持ちになった相手を見つけるだけだ。
『そーデスカ。では早速いってみまショー!』
ノーニャの号令を合図に俺はバロックに別れを告げた。
港に行くとクルーザーが何台も停泊しており、そばに霧宮学園の制服を着た生徒たちが居るのを見つける。
「あいつらみんな吸血鬼ってことか……」
『その通りデース! 潜入任務の心得その1は?』
「顔見知りを作って孤立しない」
さあ、有言実行だ。
俺はクルーザーの乗船待ちをする列で最後尾に居た人物に声をかけた。
「すいません。これって霧宮学園に行く船で合ってますか?」
この日のために敬語もマスターしたのだ。
だが、この人物。
「……」
無反応……!
というかよく見ると、足から頭まですっぽりとコート姿。さらにフードを被っている。何を考えてるんだ、今は夏だぞ。見るからに怪しいじゃないか!
ここは霧がかっているから直射日光もない。だから吸血鬼なんだろうけど……。
「あの、ほとんど日光もないですよ。それほど警戒しなくても……」
そいつは少しだけ振り向いて、頭を横に振った。
……どういう意味だそれ。
それにしてもぜんぜん顔が見えない。
でも分かる。背丈は俺よりも低いし、何よりその胸。どう見ても女子だ。
だからかもしれない。学園生にとって当たり前に乗ってる船の乗り場を尋ねるなんて、よく考えてみれば不自然だ。
俺は潜入任務の心得その2を思い出す。
「あぁ、急に話しかけてすいませんでした。俺、実は今日から学園に転校するんです。それで右も左も分からなくて……」
困った時は転校生だと言う。これだ。
しかし、フード女は俺の方をチラ見しただけでそれ以外は無反応だった。
もしやイヤホンで音楽を聞いてるとか? そうじゃないならこれは無視されてるのでは。
……まいったな。
話しかける人物を間違えた気がする。
そうこうしていると、前から順番にクルーザーへ乗り込んでいく。どうやら俺が乗れそうなのは最後の1台だ。
俺の前のそいつが船に乗り込もうとした時。
「おいおいおい、待てよ。お前、どこのどいつだ、ァアン?」
ガラの悪いキツネ目の生徒がフード女を通せんぼをした。
フードに隠れた顔を覗き込もうとするが、フード女はそっぽを向く。
「……っ」
嫌がっている様子だが、助ける義理も無いだろう。
第一、みんな制服なのに一人だけフード被ってるのもおかしな話だ。
「どこの誰とも分からねえ奴を乗せるわけには行かねえ! そうですよね、ドラク様!!」
船の奥にキツネ目が話しかけた。
奥で足を組んだ貴公子風の生徒がうざったそうに舌打ちする。
「いちいち僕に言うな。第一、あの木偶の坊を乗せるんだから定員オーバーだ」
「キシシシ! そうでしたそうでした」
壊れた時計みたいに笑ったキツネ目が俺の方へ目をやる。
まあ、フード女には悪いがしょうがない。
俺はフード女の横を通り抜けようとした時、俺をすっぱり覆うほどの影が差した。
ドカ!
「痛ッ」
思い切り押しのけられる。
港のコンクリに手を付いた。危うく湖に落ちるところだった。
見上げると巨人がいた。背が高くて体が丸い巨漢だ。顔つきはゴリラっぽい。
「あ、なんかぶつかったか? まあいいか。すいやせん、ドラク様! 遅れちまいやした」
うわ! 踏み潰される!
俺はとっさに身を捩って巨漢の足をかわした。
ゴリラが船に乗り込むと、ざぶん、と水しぶきが跳ねた。
「バカゴリラ! もっと静かに乗れ!!」
ドラクと呼ばれた生徒が怒鳴った。
「すいやせん! すいやせん!!」
謝るとザブンザブンと船が揺れている。
「もういいもういい! 静かにしてろ! 少しも動くな!」
「キシシシシ!」
三人を乗せた船は大騒ぎしながらエンジンを切って発進した。たしかこの船、最後の1台だったはず。
いや、俺まだ乗ってないんだけど――!
霧の向こうへ消えていくクルーザーに俺は叫ぶ。
「俺まだ乗ってないんだけどー!」
地下室じゃないから声が跳ね返ってこなかった。
なんて広いんだ、外って。
……。
いや、現実逃避してる場合じゃないんだ。
港にはもう船がない。どうしよう。潜入任務なのにいきなり潜入失敗か!?