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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

春待ち鬼

作者:



 ――春は鬼が来るよ……



 傘の下からそぼ降る路上に目をやったとき、そんな言葉が頭を掠めた。

 誰の言葉だっただろう。

 美和みわはそれを思い出せなかった。


 ――きっと、数年前に流行ったアニメか何かの台詞だ。


 そう思って、美和は一瞬ぎった言葉のこともすぐに忘れてしまった。


 このところ、雨が降り続いている。

 美和は、道路に散り敷いた薄桃色の花弁を汚らしい、と思う。

 雨で一気に散ってしまったから、辺りは薄桃色に染まっていた。

 満開だった桜の花は無惨なほど散ってしまい、ただ緑の葉にちらほらと薄桃色が残るだけになっていた。


 ――模試の結果が悪かった。


 散り敷く桜を目の端に留め、それさえも苛立たしいと眉を顰める。


 水滴の落ちる傘を畳んで、家に入った。

 いらいらしている上に、模試の結果を見た母親にも怒られる。


「いい加減、もう少し真面目に勉強して。塾だって、安くないのよ」

「……うるさいな。やってるよ。今回は、たまたま」

「美和。ちょっと、そこ座って」


 母親が溜め息を吐いて、ダイニングのテーブルを指す。

 冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出した美和は、母親を振り返った。


「……何」


 嫌な予感で、低く母親に問い返した。

 座る気がないらしい娘に、母親もこめかみのあたりを揉んだ。


「美和、高校は公立にして」

「……は?」


 美和の志望校は私立の女子校だった。同じチアリーディング部の、仲のいい友達と約束している。チア部も強いところだし、授業のプログラムも意欲的な高校で、交換留学の制度も整っていた。何より制服が可愛い。


 模試の成績は確かに悪かったが、受験まではあと一年あった。すごく偏差値が高い、というわけではない高校だったから、美和でも今から頑張ればまだ間に合う。

 ――と、思っていた。


「……なんで。次は頑張るってば」


 母親は溜め息を吐いた。


「そうじゃないの。――パパの会社、うまくいってないの。この春から部署異動になって、お給料も下がっちゃったの。こういう状況でしょ、この先もどうなるかわからないから」


 世界で感染症が流行って、父親の会社も業績が悪化してしまったらしい。父は部署異動したらしいが、もしかしてリストラ間際なのだろうか。


 ――いらいらする。


 この二年、入学してからというもの学校生活も我慢することばかりだった。部活も大会が中止されたり、行事も満足に行われない。

 お小遣いだって他の子に比べて決して多くはなかった。いろいろなことを我慢させられているのに。


 その上、親の都合で好きな学校にさえ行けないなんて。


 ――理不尽すぎる。


 美和は手にしていたスポーツドリンクを冷蔵庫に戻して乱暴にドアを閉めた。


 鞄を持って足音荒く階段を上っていく。


「美和……!」


 階段下から母の声が響く。

 美和は構わず自分の部屋に閉じこもった。






 鞄を放り投げて、ベッドに突っ伏した。

 放り投げた鞄が本棚に当たり、バサバサと本が落ちてくる。

 散らばったそれを拾うのも腹立たしく億劫で、美和はそのままにしてベッドに寝ころんでいた。


「なんで、うまくいかないんだろう……」


 うちの子じゃなかったら。

 ――美和は、時々そう思ってしまう。

 お金持ちの家の子が羨ましかった。

 何を買うにも不自由なくて、好きな服も小物も好きだと思った時に買えて。

 高校だって、希望通りのところに行きたいと言って反対なんかされないんだろう。


 母はいつも家のローンが、とか、パパの給料が少ないから、とか言って、自由にさせてくれない。


 ――ずるい、と思う。


 生まれながらにして、既に格差がついている。

 そういう子はこの先もうまくやるんだろう。

 そういう子が美和が好きなものを苦労もせずに手に入れていくんだろう。

 不公平で、ずるい。




「……じゃあ、代わってあげようか?」




 突然、どこからか響いた低い女の子の声に美和はビクリと震えて起き上がった。

 自分以外に誰もいないはずの部屋を恐る恐る、見回す。

 母親は階下だ。そもそも、母親の声ではない。

 ――やはり、美和以外には誰もいない。


「……私が、代わって、あげる……」

「ヒッ!?」


 確かに、誰かの声が響いた。

 春なのに、部屋はどんどん寒くなっていく。


 壁際に置かれたベッドの上で、美和は壁際に背をつけ、手近なぬいぐるみを思わず抱きしめた。


「……だ、誰?」

「……私。私、よ。……ねえ、ここ。開けて……」


 クローゼットの扉からカリカリと、爪で掻くような音が響いてきた。

 女の声もそこから響いてくる。

 美和はくまのぬいぐるみを抱きしめたまま、そっとベッドから降り、クローゼットへ近づいた。


 カリカリ、カリ……


 確かに音はそこから響いてくる。

 

 カリカリ、カリ……


 美和はごくり、と唾を飲み込み、震える手でクローゼットの扉に手をかけた。


 カリカリ……カリ。


 折り畳まれるように開くそれをゆっくりと開ける。


「ヒッ……!」


 ギイイ、と開いた薄暗い隙間に、痩せた若い女が膝を抱えて座っていた。

 美和は扉から手を離し、ドスンと尻餅をついた。

 暗い目をした少女がそこにいた。

 ぬっ、と白い手がクローゼットの中から伸びてきて、美和が中途半端に開けた扉を中から開いてくる。


「だ、だ、だ、誰、あなた……!?」


 後退る美和に中から出てきた少女はにじり寄ってきた。

 長い髪の間からから暗い目が覗く。

 その口元がにたり、と笑みを湛える。


「忘れちゃったの、美和ちゃん。私、私よ。サヨよ」

「さ、サヨ……? サヨ、ちゃん……?」


 少女と、美和の間に、ひらり、と先ほど散らばった本の隙間から落ちたのか、しおりが一枚あるのが、美和は急に目に入る。

 古い、桜の花の押し花が留められた、そのしおり。


「昔……、おばあちゃんの家で遊んだ、サヨちゃん……?」


 なぜ、今まで忘れていたのだろう。

 美和は急速に小さな頃の記憶を思い出す。

 

 そう、母方の祖母の古い家。桜の古木が庭にあったその家に春休み行くと、必ず遊んだ子がいた。

 どこの子かは知らなかった。――その子は祖母の家の奥の押し入れから出入りしていた。子どもの頃はそれを疑問には感じていなかった。

 美和はその子のことが好きだった。

 可愛くて、賢い――サヨちゃん。

 なぜ、今まで忘れてしまっていたのだろう。


 目の前の薄暗い目をした少女に急に色がついたように見えた。

 恐ろしかった気持ちが不思議となくなってしまう。

 そうして見ると、サヨは、どこにでもいる綺麗な中学生の女の子に見えた。


「良かった。思い出してくれたの、美和ちゃん」


 にこり、と笑ったサヨの長い髪が、さらりと揺れた。

 よく見ればサヨはSNSで良く見るインフルエンサーがこの間紹介していた人気の服を着ていた。ピアスは、美和がフォローしている人気雑貨の店のもの。この間、欲しいな、と思っていいね、していたものだ。


「なんで、ここにいるの、サヨちゃん……」


 サヨが桜の押し花のしおりをそっと拾い上げた。


「……これ。これがあったら、繋がったの。あちらとこちらが」

「おばあちゃんの家の、桜……」


 美和は、サヨの美しい指を不思議な気持ちで見る。

 

 ――そうだ。祖母の家の桜には、不思議な力があるのだと、祖母は言っていなかったか。


 サヨが冷たい手で、美和の手に触れた。


「……ねえ。代わってあげられるよ? あなたと、私。あなたが望むなら、入れ替わろうか」


 美和はサヨのどこか甘い声を、まるで遠くで聞くようにどこかぼんやりとした気持ちで聞いた。


 サヨは美和の耳に口元を寄せて囁いた。


「ねえ。ためしに、行ってみる?」

「どこへ……?」

「私の家へ。あなたが欲しいと思っているものがすべてあるわよ」


 まるで夢の中にいるように、美和はその言葉に頷いた。

 冷たいサヨの手が美和の手を引く。

 サヨに導かれて、美和はクローゼットの中に入っていった。







 クローゼットの中、真っ暗な中を四つん這いで辿る。そんなに広い空間がクローゼットの中にあるはずがないのに、サヨはどんどん進んでいく。


 美和の部屋の光は既に届かない。

 真っ暗な中どれだけ進んだのだろう。

 暗闇にも目が慣れた頃、サヨが止まった。

 行き止まりに細く、白い縦の線があった。

 クローゼットの扉から漏れる光だった。


 サヨは中からそれを開けた。


 差し込んだ眩しい光に、美和は思わず目を閉じる。


 目を閉じた美和の手を冷たい指が掴んで、美和はビクリと震えて目を開けた。


「さあ、来て。私の家へ。………こちらの、あなたの家へ」


 光を背に、サヨは神々しく美しく見えた。

 サヨに手を引かれて、美和は這い出す。


 そこは広い、素敵な部屋だった。

 ドラマに出てくるようなインテリアが統一され、生活感のないお洒落な部屋。

 

「ここが、サヨちゃんの部屋?」

「そう。好きに使っていいわ。財布の中にクレジットカードがあるから、それも使っていい」

「クレジットカード、なんて自由に使えるの?」


 サヨは財布を取り出して、テーブルの上に置いた。


「父のだけど。欲しいものがあれば通販でもお取り寄せでも、なんでも使って構わないの」


 サヨの部屋を出て、家を簡単に案内してくれる。

 広い家だった。

 美和の家と同じ二階建てではあるが、部屋数など数えるほどしかない美和の家と違って、廊下に出ると二階だけでもいくつもドアがあった。


 階段を下り、天井が高い広々としたリビングに入る。

 美和はあっけに取られなからサヨのあとをついていく。


 高そうな革のソファーセット、大きなテレビ、片付いた部屋。

 壁にかけられた絵は美和の知らない画家のものだが、額縁だけでもずいぶんと高価そうだった。


 リビングの奥にはアイランドキッチン。

 その奥には壁面いっぱいの収納扉と、業務用かと思う大きな冷蔵庫があった。


 サヨがその冷蔵庫を開けると、有名店の商品がぎっしりと詰められていた。

 電子レンジで温めればすぐに食べられる総菜や、デザートもたくさんあった。


「ここにあるものはどれも食べていいわ。ほかのものが足りなければ宅配を頼んでもいいの。好きなものを食べて」


 驚いたまま、美和は頷いた。


 ――なんて、贅沢なのだろう。


 母はいつもスーパーの特売日にしか食品を買わない。高級品のお取り寄せや出来合いのものの宅配などは年に数回あるかないかだ。母のレパートリーは多くはないし、変わった料理を作ることはほとんどなかったから、美和は驚いてしまった。


「いつもひとりで食べているの?」

「そうね、そういうことが多いわ」


 もう夜なのに、しん、とした広い家がふと気になって美和はサヨに何気なく訊いた。


「おうちの方はどうしてるの?」

「母は数年前に離婚して家を出て行ったわ。兄弟はいない」

「お父さんは?」


 サヨは少し微笑んだ。


「――仕事が忙しくて、帰ってくる日とこない日があるわ」

「……そうなの」


 美和の家とだいぶ違う、と思った。

 サヨはにっこりと笑う。


「ひとりは気楽よ。自由にできていいでしょう?」

「うん、そうね」


 二人はサヨの部屋へ戻った。

 クローゼットを開けると、うきうきしたようにサヨが微笑んで手を振った。


「まずは一日交代してみましょう。あなたが良ければ、完全に交換してあげる」

「ママにはなんて言うの?」


 サヨと美和では見た目がたいぶ違う。急に知らない子が家にいたら母は驚くだろう。

 サヨは振り向いて桜の押し花のしおりを取り出した。


「大丈夫。これがあるから。これがあれば私たちはつながっていられる。あなたと私は同じに見える」

「同じって……」


 サヨは目を眇めて、そっと美和の頬を撫でた。

 冷たい、氷のような指先だった。


「私はあなたに。あなたは私に。――ほかの人に見分けはつかない」

「本当?」

「ええ」

 

 サヨは踊るような足取りでクローゼットの中へ入っていく。


「じゃあ、美和ちゃん。どうぞ、楽しんで」


 美和はサヨが不思議だった。

 こんな素敵な家に住んでいて、お金も自由に使えるのに、美和の家へ行くのが楽しそうだ。サヨはきっとがっかりして、やっぱりやめようと言い出すに違いないと美和は思った。


 パタンと閉まったクローゼットの扉を再び開けると、そこはなんの変哲もないクローゼットだった。

 クローゼットの奥はすぐに行き止まりの壁になっていて、そこを通ってきたことが嘘のようだった。

 そこにかかっているのはたくさんの素敵な洋服だった。好きな歌手がSNSに上げていた写真に写っていたものと同じものもある。憧れていた可愛い服たち。

 そして一番端には美和が志望している私立校の中等部の制服があった。


 ――サヨはあの高校へ受験をしないでも進学できるのだ。


 サヨと入れ替われば、受験もせず行きたい高校へ行ける。

 なんて素敵なことなのだろう。


 美和はキッチンへ戻って、冷蔵庫から有名店のパスタとデリの総菜を取り出した。電子レンジで温めてリビングへ持って行く。ひとりだけの食事というのは少し寂しい気がした。

 テレビは特に面白いものがやっていなかったが、インターネットに繋げられていて配信登録制のストリーミングサービスに加入しているようで、映画でもアニメでも好きなだけ観られた。いちいち食事の食べ方に口を出してくる母親もいないし、テレビを観ながら食べていてもお行儀が悪い、と注意されることもない。苦手なものも食べなくてよくて、好きなものを好きなだけ食べられる。

 食事のあとは容器を捨てればいいだけだから、食器の片付けを手伝わされることもない。


 なんて自由なんだろう、と美和は少し寂しい気がしたことも忘れてしまった。

 映画を何本か観たあとは、風呂に湯を溜めて入った。驚くほど広いバスタブだった。風呂場もピカピカで、誰が掃除してるんだろう、と美和は不思議に思う。

 風呂のあとはふかふかのベッドでぐっすり眠ってしまった。






 その夜、サヨの父親は帰ってこなかったようだった。

 翌朝、美和は憧れの学校の制服を着てみた。

 恐る恐るだが、学校へも行ってみることにした。

 

 恐る恐る、というのは、もしかしたらサヨが入れ替わりたい、と思うのはいじめにでもあっているのではないか、と思ったからだ。

 サヨの家は美和の家と住所は違う場所にあった。しかし、驚くのは近くだったことだ。少し山側にある高級住宅地だった。

 なんとなくの場所もわかったので、駅までの道も迷わなかった。

 

 学校につくと、校門のところで肩を叩かれた。

 驚いて振り向くと、同じ年頃の少女が数人笑顔でいる。


「サヨちゃん、おはよう!」

「……おはよう」

「どうしたの?」

「ううん」


 どうやらクラスメイトのようだった。その子たちについて行けば、迷うこともなかった。


 いじめられているのでは、という懸念は取り越し苦労だった。

 サヨはどうやらクラスの中でも一目置かれている存在のようだった。

 クラスメイトたちは美和に優しく接してくれたし、教師からも信頼されているようだった。

 美和はなんだか拍子抜けする。

 

 ――こんなにうまくいっているのに、サヨは何が不満なんだろう。


 美和はサヨに対して少し苛立たしい気持ちさえ感じた。

 

 きっと、サヨはなんでも手に入りすぎて退屈しているのだろう。なんて、我が儘なのだろう。

 自分だったらこの生活を退屈だなんて欠片も思わないのに。

 サヨがやっぱり入れ替わりをやめよう、と言ってきても頷かないことにしよう、と美和は思った。


 こんな素敵な生活が簡単に手に入るなら、それを手放すのは馬鹿げたことだ。


 楽しい学校を終えて家に帰り、美和は美味しいケーキを食べ、夕飯はピザを頼んだ。

 ひとりでは当然食べきれなかったが、残りを捨てることに罪悪感はなかった。

 だって、この家にとってそんな金額はたいしたことはないのだろう。

 

 その日はお笑い番組を観ながら、サヨの友人たちのSNSを見て過ごした。

 その夜も父親は帰ってこなかったが、美和はそれもあまり気にならなかった。

 むしろ、知らないおじさんと気まずく過ごすよりよっぽど気は楽だ。

 

 部屋に戻ると、昨日は気づかなかった書棚の上の方に、伏せてある写真立てに気づいた。

 なぜ、伏せてあるのだろう、と美和はそれを起こしてみる。

 家族写真だ、と思う。何気なく見てどきりとした。


 そこには小さなサヨと父親と思われる男の人、――そして、少し若い美和の母親が写っていたのだ。


「ママ……?」


 なぜ、母親が写っているのだろう。

 写真を見つめていると、突然後ろから肩に手を置かれた。


「……どうだった?」

「ヒャッ!?」


 耳元で囁かれて、美和は思わず飛び上がる。

 

 そこにはサヨが立っていた。


「ど、どうだったって……?」

「こちらの生活。楽しかった?」

「う、うん。とても」


 サヨは小首を傾げて微笑んだ。


「そう、それは良かった。私も楽しかったわ」

「ね、ねえ、サヨちゃん。この写真って……」

「写真がどうかしたの?」

「こ、これ、ママ、よね……? どうしてママが写っているの? それに」


 美和は急に嫌な記憶を思い出す。

 昔、母のアルバムに一枚だけ挟まっていた古い写真を思い出したのだ。

 母が学生の頃なのか、男の人に腕を絡めた母が父ではない人と仲が良さそうにしている写真を。だから、少し嫌だと思ったのだ。

 

 ――昔、付き合っていた人よ。……この人と結婚していたら、今もう少しいい暮らしをしていたかもしれないわね。


 母は確かそう言ったのではなかったか。


 あの男の人――、それはサヨの家族写真に写っている人に似ていた。


「……何を驚いているの? そうよ、これはママ」

「ママって……、だって、これは私のママよ?」

「ええ、そう。そして私のママでもある」

「どういうこと……?」


 サヨはふふっと笑みを零した。

 微笑んでいるのに、美和は少し背筋が寒くなる。

 それが、なぜだかわからなかった。


「こちらとあちらは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、なのよ。ママがこちらのパパと別れなかったらあったかもしれない世界。ママが別れてあなたのパパと結婚することを選んだときに別れてしまった世界なの。だから言ったでしょう。――あなたは私。私はあなた。だから、本当はどちらでもいいはずなの。私がそちらにいても良かったはず。こちらの生活を手に入れるのはあなたでも良かったはず」


 美和は混乱して、首を振る。

 サヨは優しく美和の頬を撫でた。

 ひやり、とする痩せて冷たく細い指が。


「……一日、考える時間をあげる。あちらに戻って、ゆっくり考えてみて。明日の夜、迎えに行くわ」


 サヨは美和の背をそっと押して、クローゼットへ導く。

 中に入った美和がサヨを振り返る。

 サヨは表情の窺えない顔で、そう言えば、と低く呟いた。


「……パパは帰ってきた?」

「いいえ。帰ってこなかったわ」

「……そう」


 サヨは美しくにこりと笑って手を振った。

 その服の袖から覗いた腕にうっすらと痣があるのが見えた。


「サヨちゃん、その痣どうしたの……?」

「少し前にぶつけただけよ。――じゃあね、美和ちゃん。また明日」


 クローゼットはパタリとしまり、暗闇が美和を覆った。







 サヨの生活を知ったあとでは、美和の日常はすっかり色褪せてしまった。

 母の作る料理は有名店に比べるとやはり味が落ちたし、相変わらず口うるさい。

 学校でもサヨのようにはちやほやされず、クローゼットの中身はつまらなくて子どもっぽい女子中学生のものだった。塾の小テストの成績もぱっとしない。


「昨日はずいぶんお手伝いもしてくれて、いい子になったと思ったのに。元通りなのね」


 溜め息混じりに母がそう言った。

 サヨはずいぶん物わかりのいい子を演じたのだろう。

 なんとなくつまらなく思えて、美和は夕飯を食べると早々に部屋に戻った。


 早くサヨが迎えに来るといい、と思って待っているが、その日結局サヨは訪れなかった。


 美和はいらいらとしながらベッドに入った。

 きっと、サヨはやっぱり自分の今の生活が惜しくなったのだ。


 ――ありえたはずの世界。


 母が間違ってしまったために産まれた自分。美和はそれを理不尽に思う。


 ――あれは、本当だったら私が手に入れていたはずなのに。


 理不尽に思うが、美和の側からあちらに渡ることはできないのだった。

 美和がクローゼットを開けても、そこはただのクローゼットだった。

 それをなぜだろう、と考える。

 

 そして、ふと起き出して部屋のあちこちを捜すが、あの桜のしおりを見つけられなかった。

 サヨが持っていったままなのだ。


 あれがないと、こちらの扉が開かないのかもしれない。

 なぜなのかはわからない。ただ、美和はそう確信していた。


 美和はそれを知っているのだ。






◇◇◇






 ――母方の祖母の家だった。


 今はもう亡くなっていない、祖母。

 祖母がひとりで住んでいたあの家も、取り壊してしまった。


 祖母が縁側に座って、ぼんやりと満開の桜を眺めていたのを思い出す。


「……春は鬼が来るよ」


 祖母はぽつり、とそう言ったのではなかったか。


「この桜が、鬼を連れてくる」

「おに……?」


 祖母がすっと、桜を指差した。


「一生に一度だけ、取り替えることができる」

「なにを?」


 祖母は初めてこちらに気づいたかのように振り返った。

 その、表情を思い出せない。

 笑っていたのか、悲しそうにしていたのか。


「取り返しのつかない、つらい人生を取り替えることができる」

「じんせい……? だれ、と」


 祖母はふと、遠くを見つめるような眼差しになった。


「――あるはずだった、もうひとりの私と」

「……おばあちゃん、は」


 祖母は――そうだ、そのときふと笑ったのではなかったか。


「私は取り替えたよ。桜が鬼を連れてきたから」


 そのときはよくわからなかった。

 ――あれは、このことだったのだ。


 この桜が持っている不思議な力。

 今はもう、このしおりにしか存在しない力。


 この押し花になった儚い桜の花が、鍵だった。


 向こうとこちらの扉を開けるための。






◇◇◇






 真夜中だった。

 

 美和はその音に気づいて目を覚ました。


 カリカリ、カリ……


 クローゼットから内側を引っ掻く音。


 カリカリ、カリ……


 布団をはねのけて、美和はクローゼットの扉に飛びついた。


 開けると、そこに膝を抱えた暗い目をした少女がいた。


「サヨ、ちゃん……。もう、来ないのかと思った」


 ぬるっと、顔をあげて長い髪の隙間からサヨが美和を見上げて笑った。


「……どうして? 来ないはずが、ないでしょう?」

「でも……、ずいぶん遅かったから」


 サヨは俯いた。

 髪に隠れて、その顔が見えなくなってしまう。


「パパが帰ってきたから。……なかなか、ひとりになれなかった」


 膝を抱えたサヨに、美和は近づく。

 ふわりと、そこから煙草の香りがした。

 美和は思わず顔をしかめた。


 美和の父は煙草を吸わない人だった。だから美和自身も、煙草の香りは嫌いだった。吸っている人が近くにいるだけで、その香りで気持ちが悪くなってしまう。


「煙草の匂いがするね」

「パパが吸うから……」

「そうなんだ」


 それは少し嫌だな、と美和は思う。

 しかし、サヨの父はあまり家に帰らないらしいから、我慢もできなくはないだろう、と自分を納得させた。


「ねえ、そんなところに座ってないで、出てきたら?」


 美和は膝を抱えたままのサヨに声をかける。

 サヨはまたぬるり、と顔を上げて、のろのろと頷いた。


 ゆっくりと動いて這い出してくる。

 長い髪が床について、その隙間から顔が覗いた。


「……どうしたの、その、顔」


 はっとして美和は後退った。

 サヨの髪に隠れていた左目のあたりが覗いた。そこが腫れて痣ができていたのだ。


「なんでもないわ。ちょっとぶつけただけ」


 美和はまるで殴られたようだ、とは思ったが実際には殴られた人を見たことはなかったから、果たしてそれがぶつかってできた痣なのか、殴られたあとなのかは判断がつかなかった。サヨが言うなら、そうなのだろう、と思う。


 ――思う、が、なんだか胸がざわざわした。


「ねえ、そんなことより。決心はついた?」


 ゆらり、とこちらをサヨが見上げてくる。

 

「う、うん。もちろん。……私、昔おばあちゃんに言われたことを思い出したよ」

「なんて?」

「一生に一度だけ、人生を取り替えることができるって。あの桜のおかげで」

「そう……、うん。そう」


 サヨが目を落とした。

 綺麗にネイルを施された指があのしおりを持っていた。


 ――やはりサヨが、持っていたのだ。


「ねえ、サヨちゃん。サヨちゃんはあの生活の何が不満なの?」


 サヨは緩慢に首を傾げる。

 しかし、髪の隙間からこちらを覗く目は不思議にぎらぎらと輝いている気がした。

 その口角がゆっくりと上がる。


「……お金なんて、なんの意味もない。あんなもの」


 笑っているのに、吐き捨てるような声だった。冷たく、低い。

 ゆっくりと、サヨの手が伸ばされる。

 ひやり、とした指が美和に触れる。


「……ねえ、あなたこそ。何が不満なの」

「不満……? 不満ならサヨちゃんにだってわかるでしょ? 口うるさいママに、貧乏なうち。買いたいものも買えなくて、我慢ばっかり」


 サヨはすっと、手を引いた。

 口元には笑みがまだあったが、その目がなぜか睨むように美和を貫いた。


「……ママがうちにいて、温かい料理を出してくれて。パパはちゃんと毎日家に帰ってきて、優しくて。ねえ、それの何が不満なの?」


 サヨの凍るような冷たい声に、美和は何も言えなかった。

 ひとりきりの食卓を思い出したからだ。

 

 でもあれは、美和にとってはどれほどのことでもない。

 

 ならば、人生を取り替えるのは悪くないことだ。

 お互いが納得しているなら。

 

 ――なのに。なぜこんなに胸がざわざわするのだろう。


「……ねえ、サヨちゃん。その手に持ってるのは何……?」


 ふと、美和は目を落としたサヨの片手が隠すように何かを持っているのを見た。


「ああ……、これ?」


 ふふっと、サヨが歪んだ笑みを零す。

 重そうに持ち上げたのは、石作りの灰皿だった。

 丸く、厚みのあるそれ。側面に何やら黒ずんだ模様が見えた。


「向こうから持ってきちゃったのね。――ちょうどいいわ」


 サヨはそれをゴトリ、と床に置いた。


「ちょうど、いい?」


 何が、と聞き返そうとした美和をサヨがドン、と突いた。

 開いていたクローゼットの中へと突き飛ばされたのだ。

 クローゼットの中へ尻餅をついて、美和は呆然とサヨを見上げる。

 立ち上がったサヨは嫣然と微笑んだ。


「サヨ、ちゃん……?」


 サヨは、しおりを手にしていた。


「これは、もう必要ないね」

「サヨちゃん?」

「向こうとこちら、もう混じってしまわないよう、焼いてしまおう。――だって、美和ちゃんはそれでいいんだものね」

「サヨちゃん」


 目の前で、サヨはスカートのポケットからライターを取り出した。

 それも父親のものなのだろうか。

 美和が呆然とサヨを見上げる前で、サヨはしおりに火をつけた。


「サヨちゃん……!」


 焦げ臭い匂いを発して、しおりはあっという間に燃え上がる。

 サヨは少しも動じず、そっとそれを灰皿に置いた。


「さようなら、美和ちゃん。――感謝してるわ」


 パタリと、クローゼットの扉が閉められた。






 訪れた暗闇の中で、美和は突然全身に痛みを感じた。

 サヨの痣のあった左目あたりだけでなく、腕、背中、腰、腹、腿……、体の至る所が痛み出した。

 チアの練習で打ち身ができてしまったときのようだが、こんなに一度に何カ所も痛むことは経験したことがなかった。


 呻きながらクローゼットの扉を必死で開ける。

 転がり出たそこはサヨの部屋だった。


 慌てて体中を見ると、腕と言わず足と言わず、痣だらけだった。


「なんで……」


 サヨと入れ替わったからだ、と思い至った。

 サヨはなぜ、こんなにも傷だらけなのだろう。


 ふと目を上げて部屋を見た美和は息を呑んだ。


 そこに、男の人が倒れていたのだ。


 頭のあたりから血を流している。


「ヒッ……!?」


 座り込んだまま思わず美和は後退った。

 ドン、と背中がクローゼットに当たる。


 ――あれは。


 ――あの灰皿の、模様は……。模様、じゃなくて、血……?


 美和は震えながら、悲鳴を上げそうになる口元を手で押さえた。


「う……」


 呻き声を上げたのは、美和ではなくその男の人だった。

 

 ――良かった、生きてる……。


 美和はがたがたと震えながら、その人を見る。

 こめかみあたりから血を流しながら、起き上がったのは、写真で見たことのあった人――サヨの父だった。


 サヨは父親を重い石の灰皿で殴って、あちら側に行ったのだ。


 ――なぜ。


 頭を振って起き上がったその人は、血走った目を美和に向けた。

 そして、にやりと笑った。


「サヨ、どうして、おとなしくしていないんだ……」


 ふらふらと、その人は美和に近づいた。

 美和は追い詰められるようにクローゼットの扉に押し付けられた。

 ぬるり、と血で汚れた男の指が美和の首筋に触れた。

 にたり、と笑った男の顔が近づく。


「……悪い子だな。お仕置きをしよう……」


 耳元で囁かれたねっとりとした声に、美和は震えた。

 思わず顔を背ける。

 

 背けた先にふと、姿見が目に入った。


 ――そこには、怯えたサヨの姿が映っていた。


 目を見開いて、美和はその姿を信じられない気持ちで見つめた。


 ――鬼。


 ――つらい人生を、一度だけ。


 ああ、と合点する。


 ……鬼はサヨだった。







◇◇◇






 サヨは燃え尽きたしおりをしばらく見つめていた。

 体のどこも痛くなかった。

 それどころか、今まで感じたことがないくらい体が軽かった。

 毎日栄養がある食事をして、スポーツに取り組んでいる健康な子の体だった。


 完全に入れ替われたのだとわかった。

 部屋の隅に置かれた姿見に近づく。

 

 ――そこには、美和の姿があった。


「……美和? 大丈夫? 何か音が聞こえたけど」


 ノックと共に母の声がした。

 ゆっくりと微笑んで、答える。


「なんでもないの。怖い夢を見ただけ」


 ――父親が暴力を振るってくるあの世界は。身代わりのように母親に置いていかれて、助けてくれる人もいないあの世界は。どれだけちやほやされても、表面しか見ないでこの苦しみに気づいてくれる人などいないあの世界は。どれだけお金があろうとも。虚しい物に囲まれるだけのあの世界は。……ただの、怖い夢。


 ドアをカチャリ、と開けて母が顔を覗かせた。

 その母に抱きついた。


「どうしたの? 小さい子に戻ったみたいね」


 くすり、と笑って背をなでてくれる母にぎゅっと抱きついて、微笑んだ。


「だって、怖い夢だったんだもの」

「そう。でも、もう大丈夫よ。夢は覚めたわ」

「うん……」

「おやすみ、美和」

「うん、おやすみ、ママ」 



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