その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く
降り注ぐ雨粒が、赤黒い雫となって泥へ吸い込まれていく。
(負け戦だってことは、分かっていた)
それでも身体は止まらない。
考えるより早く足が動く。息を吸うより先に、視線が戦場の“次”を探す。
生き延びるためではない。
為せなばならぬことが、まだあった。
右から槍が突き出される。
踏み込みに合わせて腰を捻り、穂先を紙一重で外す。
回転の勢いを殺さぬまま懐へ滑り込み、剣の柄を敵の兜の隙間――剥き出しの顎へ叩き込んだ。
鈍い感触。
砕けた衝撃が、手のひらから肘まで響く。
男は声も上げられず、糸の切れた人形のように膝を折った。
間髪入れず、正面から白刃が振り下ろされる。
地面を転がるようにしてかわし、晒された膝裏へ逆手の剣を突き立てた。
柔らかな腱が裂ける感触。
悲鳴は、雨音の奥へ呑まれていく。
(傭兵稼業なんざ、泥水を啜る毎日だ)
逃げることを恥だと嘯いた連中が、動けなくなった瞬間に母親の名を呼ぶ。
武名だ、誇りだと吠えていた男が、腹を割かれて命乞いをする。
そんなものは、腐るほど見てきた。
だから、分かっている。
死にたくないと思うことは、恥ではない。
それでも死地に残るなら、そこには理由が要る。
視界の端で、弓が引き絞られた。
倒れかけた敵兵の襟を掴み、無理矢理引き寄せる。
矢が背中へ突き刺さる鈍い衝撃。
生きた盾を突き放し、すれ違いざまに弓兵の喉を掻き切った。
血が噴き出す。
雨に混ざって、赤い線を描く。
横薙ぎの大剣が、空気ごと叩き潰す勢いで迫る。
一歩だけ退く。
刃ではなく、風圧をやり過ごす。
次の瞬間、がら空きになった胴へ体重を乗せた一撃を振り下ろした。
骨が折れる感触が、刃を通して返ってくる。
(死にたいわけじゃない)
誰だってそうだ。
俺だって、そうだ。
(だが、それでも俺は――)
殺意が、肌を撫でた。
首筋へ短剣が迫る。
わずかに頭を傾けてかわし、手にしていた剣を投げた。
鉄塊は吸い込まれるように敵兵の胸を貫き、雨の中に真っ赤な花を咲かせる。
顔を上げる。
新たな返り血が、頬を伝った。
ゆっくりと口角を吊り上げる。
包囲していた敵兵たちが、一歩、後ずさった。
「寂しいねぇ。仲良くしようぜ?」
雨音だけが支配する戦場の中心で、男は再び剣を構えた。
絶望はない。
諦めもない。
ただ、果たすべき役目だけが、胸の奥で静かに燃えていた。
◆◆◆◆◆
常勝無敗の傭兵団『暁の剣』。
片田舎の農村で、数人の悪ガキが立ち上げたその集団は、帝国との戦で数多の武功を上げ、今や王国正規軍の一翼を担うまでに成長していた。
だが。
帝国最強と謳われる“千年将軍”。
その男の前では、こちらの勝利の歴史など、薄い紙のようなものだった。
練り上げた策はことごとく読まれた。
陣形は巧みに分断された。
仲間たちは、救援に向かう間もなく各個撃破されていった。
偶然ではない。
単なる力量差でもない。
まるで、こちらが考えるより先に、すべての答えを置かれているようだった。
戦線は崩壊していた。
もう、立て直せる段階ではなかった。
「レイア! 退却だ!」
本陣で指揮を執る総大将――そして俺の幼馴染でもある女に向かって叫ぶ。
燃えるような紅の瞳が、怒りと焦燥を孕んで俺を射抜いた。
「なんだと!? 敵にこれだけやられておいて、私に尻尾を巻いて逃げろというのか!」
「そうだ」
即答した。
レイアの眉がさらに吊り上がる。
だが、その奥で、ほんの一瞬だけ瞳が揺れた。
レイアは天才だ。
幼い頃から、そうだった。
誰よりも先に状況を掴み、誰よりも早く最善手を選ぶ。
怒りも、悔しさも、恐怖さえも飲み込んで、勝つための道を切り開く。
それが、俺たちをここまで生かしてきた。
だから今も、本当は分かっているはずだった。
あの“千年将軍”と渡り合うには、まだ早すぎる。
そして、今を逃せば――撤退すら叶わなくなる、と。
「ふざけるなッ! グレン、いくらお前でも許さないぞ!」
「冷静になれ、いつものように」
紅の瞳を、ただ静かに見つめ返す。
レイアの唇が開きかける。
けれど、言葉は出てこなかった。
代わりに奥歯を噛み、彼女はわずかに目を伏せた。
感情の扉を、理性で無理矢理押さえ込んだのだろう。
いつものレイアが戻ってくる。
そのことに、胸の奥で小さく安堵した。
「…………無理だよ、グレン」
だが、冷静になったからこそ、その声は震えていた。
「逃げきれない」
まるで幼い頃に戻ったみたいな声だった。
王国の女神と呼ばれた総大将ではない。
天下を取るのだと笑っていた少女でもない。
ただ、俺の隣で泥まみれになって走っていた、あの頃のレイアの声だった。
こちらの馬は連戦で疲弊しきっている。
普通に退却すれば追いつかれるのは、火を見るより明らかだった。
「俺が殿を務める」
言った瞬間、レイアの顔が歪んだ。
「本隊だけ連れて逃げろ。お前さえ生きていれば、まだ再起の芽はある」
「っ……嫌だ」
その声は、命令ではなかった。
「そんなことをするくらいなら、ここで一緒に果てたほうがマシだ!」
分かっていた。
お前がそう言うことくらい、痛いほど。
「お前は、生きろ」
なるべく軽く聞こえるように笑う。
「……どうせ死ぬなら、美女に泣いて貰うほうが本望だからな」
「それでも……っ!」
レイアの手が、俺の袖を掴んだ。
強い力だった。
戦場で剣を振るう時と同じ、決して離すまいとする力。
「お前を見捨てていくなんてこと……お前がいなきゃ、私は――」
その先は、言葉にならなかった。
指揮官ではない。
英雄でもない。
幼い頃から隣にいた、一人の人間としての弱さが、そこに滲んでいた。
胸の奥が、軋む。
喉元までせり上がった言葉を、噛み殺した。
(……悪いな)
本当に、悪い。
長年の付き合いだ。
お前がこの先、いらぬ後悔を背負うことくらい分かっている。
それでも。
合図を送る。
物陰に潜ませていた部下が、音もなく吹き矢を放った。
睡眠薬を塗り込んだ針が、正確にレイアの首筋へ吸い込まれる。
「グレ……ン………………」
一瞬の驚愕。
それから、紅の瞳から力が抜けていく。
縋るように伸ばされた手を掴み、傾く身体を受け止めた。
軽かった。
戦場で誰よりも大きく見えた女が、腕の中ではひどく軽かった。
「……俺たちの女神様を頼むぞ?」
その温もりを、ほんの少しだけ惜しんでから、屈強な男たちにレイアを預ける。
誰もが泣き出しそうな顔をしていた。
悔しさに歪んだ顔。
それでも、命令を受ける兵の顔。
「…………はい、副団長。必ずや、生きてお連れいたします」
「おいおい」
喉の奥に詰まったものを、笑いで押し潰す。
「『暁の剣』の団員が、そんな情けない顔するんじゃねえよ」
腰の双剣を抜く。
「……でも、任せたぜ」
「ご武運を」
嗚咽混じりの声を背中に受けながら、俺は残った少数の手勢と共に、死地へと足を踏み出した。
斬る。
突く。
殴る。
踏みつける。
迫りくる敵兵を倒し、武器を奪い、死体を盾にし、思考のすべてを生存と時間稼ぎに注ぎ込んだ。
一秒でも長く。
一歩でも遠く。
レイアたちの背に、手が届かぬように。
ふと気づけば、周囲に味方の姿はなかった。
おびただしい数の敵兵の前で、立っているのは俺一人。
呼吸は荒い。
腕は痺れている。
視界の端が、白く滲んでいた。
それでも、膝はまだ折れていない。
「並んで並んでってのは……さすがに無理か」
苦笑が漏れた。
その瞬間、じりじりと距離を詰めていた敵兵たちが、一斉に踏み込んできた。
前から突き出された細身の剣を紙一重でかわし、相手の腕を掴む。
突進の勢いを利用して、背後の敵へ叩きつけた。
左から斧が振り下ろされる。
身体を滑り込ませるように受け流し、がら空きになった顔面へ膝蹴りを叩き込む。
崩れ落ちる背を足場に跳び上がる。
空中で身を捻り、背後の敵兵の首筋へ剣を突き立てた。
刃が骨に当たる。
引き抜く。
血が雨に散る。
乱れた息を整えようとした、その時だった。
ひときわ立派な鎧を纏った巨躯の騎士が、静かに前へ出てきた。
「これはこれは、大層なお召し物で」
剣先を下げ、片目を細める。
「俺とのダンスをご所望ですかい?」
「……貴様、名は?」
地を震わせるような声だった。
威圧感。
揺るぎない自信。
身に纏う空気だけで、並の兵ではないと分かる。
「…………グレン」
「なるほど、貴様があの“血濡れのグレン”か。噂は聞いているぞ」
「あんたは?」
「ガリオス帝国、第三騎士団長ダグラン」
騎士は、身の丈を遥かに超える巨大なハルバードを構えた。
「貴様のせいで、まんまと大将首を逃してしまった。ならばせめて、その首を我が武功とさせてもらおう」
大将首を逃した。
その言葉だけで、胸の奥に小さな安堵が広がった。
逃げ切った。
少なくとも、今は。
ならば、あとは燃やすだけだ。
この命を、最後の一欠片まで。
「好きにしろよ」
足元に転がっていた剣を拾い上げ、二刀を構える。
「……ただ、地面に転がるのがあんたの首でも、恨むなよ?」
「……あまり、なめるな」
空気が張り詰める。
睨み合いは一瞬。
静寂が裂けた。
ダグランがハルバードを構えた――と思った次の瞬間、雷鳴のような突きが放たれる。
見えなかった。
気づいた時には、風さえ置き去りにした刃が眼前にあった。
死。
その一文字が、脳裏を掠める。
だが、長年の戦闘で擦り切れるほど磨かれた勘が、反射的に身体を動かした。
片方の剣が、奇跡的にその一撃を弾く。
(くそっ……なんて鋭さだ)
受け流しきれず、体勢が崩れる。
そこへ、死の嵐が襲いかかった。
突き。
薙ぎ払い。
払い上げ。
踏み込み。
また突き。
耳元を風が通り過ぎるたび、命の灯が揺れる。
息をする隙すらない。
俺はただ必死に、その猛攻へしがみついた。
一合。
二合。
三合。
命の削り合いの中で、雨音が遠ざかっていく。
視界が狭くなる。
痛みが薄れる。
代わりに、相手の呼吸だけがやけに鮮明になった。
ダグランの目が、突きの直前にわずかに動く。
次の狙いを定めているのか。
癖なのか。
どちらでもいい。
心臓を狙う時だけ、その視線がほんの僅かに揺れる。
それだけ分かれば、十分だった。
刃が鎧を裂く。
肉を抉る。
熱い痛みのあとに、冷たい感覚が遅れてやってくる。
血で柄が滑る。
気づけば、全身から血が滲んでいた。
立っていることすら、億劫だった。
あと数分。
それ以上は、もたない。
「他愛無い」
ダグランが吐き捨てる。
「“血濡れのグレン”。その評価は、どうやら過大だったようだな」
興ざめしたような声。
ハルバードが、ゆっくりと構え直される。
一見、隙だらけに見える動き。
だがそれは、絶対的な自信の表れだった。
(確かに、あんたは強い)
俺は血に濡れた唇を歪める。
(けどな)
戦場で最後に立っているのは、強い奴とは限らない。
再び、神速の突き。
掴んだ軌跡を先回りし、左手の剣を滑らせる。
衝撃。
甲高い音。
剣が砕け散った。
切っ先は勢いを殺しきれず、そのまま脇腹を抉るように貫いた。
「っぐ……!」
視界が暗転しかける。
膝が折れそうになる。
奥歯を噛み締め、遠のく意識を無理矢理引き戻した。
「……まだだッ!」
痛みに叫ぶ身体へ、さらに鞭を入れる。
一歩。
相手の懐へ踏み込む。
「なっ――」
予想外の接近。
ダグランの目に、一瞬だけ驚愕が浮かんだ。
その一瞬が、すべてだった。
右手の剣を振り抜く。
刃が首筋を捉えた。
重いものが宙を舞い、地面へ落ちる。
遅れて、巨躯の身体が崩れた。
同時に、俺も大地へ倒れ込む。
音が遠い。
雨も、悲鳴も、敵兵たちの怒号も、どこか薄い膜の向こう側にあるようだった。
やがて、包囲していた敵兵たちの間に恐慌が広がっていくのが分かった。
どうやら、彼らの騎士団長様は、よほど名の知れた英雄だったらしい。
今なら、逃げられる。
そう思って、少し笑った。
指一本、動かなかった。
「……終わり、か」
腹に開いた大きな傷から、命が抜けていく。
熱が失われていく。
身体が、泥と同じ温度に近づいていく。
いつの間にか、雨は止んでいた。
厚い雲の切れ間から、隠れていた太陽が顔を出し始めている。
「……まぁ」
掠れた声が、喉の奥で笑った。
「俺にしちゃ、上出来だよな」
昔。
貧しい村に、頭のネジが数本外れた女がいた。
いつの日か天下を取るのだと。
自分たちの名を、この世界に刻み込むのだと。
泥だらけの顔で、馬鹿みたいに眩しく笑っていた。
誰もが腹を抱えて笑った。
でも、数人の悪ガキだけは、その荒唐無稽な夢物語に乗った。
なぜだったのか。
あの頃は、うまく言葉にできなかった。
レイアが前を向くと、世界が少し広く見えた。
レイアが笑うと、自分たちまで何者かになれる気がした。
だから、剣を握った。
だから、泥を啜った。
だから、ここまで来た。
(正直なところさ)
胸の奥に、誰にも見せなかったものが浮かぶ。
(お前の夢なんて、俺にはどうだってよかったんだ)
天下でも。
名声でも。
歴史でも。
そんなものは、俺には遠すぎた。
ただ。
お前がそれを語る時だけ、どうしようもなく綺麗に笑うから。
その顔を、もう少し見ていたかった。
(俺は、ただ――お前が好きだった)
ずっと隠してきた。
お前が、その想いに頷くことはないと分かっていたから。
重荷になるだけだと分かっていたから。
それに、見返りが欲しかったわけじゃない。
頷いてほしかったわけでもない。
振り向いてほしかったわけでもない。
お前が夢を見るたびに笑うなら。
その夢へ一歩近づくたび、あの馬鹿みたいに眩しい顔をするなら。
それだけで、よかった。
それだけで、剣を振るう理由になった。
(笑顔をくれ、なんて言わねえさ)
瞼が重い。
身体が冷えていく。
けれど、雲の切れ間から降り注ぐ光だけが、まだ少しだけ温かかった。
最期に、ひとつだけ。
わがままを言うなら。
お前の人生の、ほんの片隅に。
俺がいたことを、欠片だけでいい。
「泣いてくれれば……それで、いい」
夥しい骸の中心で、男は穏やかに微笑んだ。
血と泥に汚れたその顔に、もう狂気はなかった。
ただ、遠い誰かを思うような、静かな笑みだけが残っていた。
風が吹く。
厚い雲がゆっくりと流れ、隠れていた太陽が戦場を照らしていく。
冷えきっていく身体に、天から降り注ぐ光が触れた。
まるで、長い戦いを終えた男を、そっと労うかのように。
その息が、まだ残っていたのか。
それとも、もう尽きていたのか。
確かめる者は、誰もいなかった。
ただ、泥の中に落ちた剣だけが、淡い光を受けて、いつまでも静かに輝いていた。
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