その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く
空が泣き始め、降り注ぐ雨粒が、返り血を洗い流していく。
≪負け戦なのは分かっていた≫
思考とは裏腹に、身体は生存本能のままに動き続ける。
右から突き出される槍の穂先を、コマのように回転して回避。その勢いのまま、敵兵の兜の隙間に剣の柄を叩き込み、脳を揺らす。
間髪入れず、真正面から振り下ろされる剣。斜め前に転がり込むようにして白刃を避け、がら空きになった膝裏の柔らかい腱を、逆手に持った剣で抉るように突き刺した。
≪傭兵として、泥水を啜り、鉄の味を知る日々だった。逃げるのを恥だなんて嘯く連中が、無様に死んでいくのを飽きるほど見てきた≫
視界の端で弓が引き絞られるのを捉える。倒れかけた敵兵の身体を無慈悲に引き寄せ、生きた盾とした。
背中に突き刺さる矢の衝撃を感じながら、それを突き放し、すれ違いざまに弓兵の喉を切り裂く。
横薙ぎに振るわれた大剣の風圧を、一歩後退することでやり過ごし、がら空きになった胴体へ、体重を乗せた剣を振り下ろした。
≪自殺願望なんてこれっぽちもない。だが、それより大事なことがあるのだから仕方が無い≫
ふと、殺意が頬を撫でる。視界の端、敵のひとりが放った短剣が首筋に迫る。
コンマ数秒、首を傾けてそれを回避すると、お返しとばかりに手にしていた剣を投擲した。
放たれた鉄塊は正確に相手の胸を捉え、鮮血という真っ赤な華を咲かせる。
新たな返り血で濡れた顔を上げ、ゆっくりと口角を吊り上げる。
その狂気じみた笑みに、包囲していた敵兵たちが怯えたように後ずさるのが見えた。
「寂しいねぇ。仲良くしようぜ?」
雨音だけが支配する戦場の中心で、哀しき鬼は再び剣を構える。
その瞳には、絶望も諦めもなかった。ただ、果たすべき目的だけが静かに、それでいて強く灯っていた。
◆◆◆◆◆
常勝無敗の傭兵団『暁の剣』。片田舎の農村で、数人の悪ガキたちが立ち上げたその集団は、帝国との戦で数多の武功を上げ、今や王国正規軍の一翼を担うまでに成長した。
だが、帝国最強と謳われる“千年将軍”。その男の前では、我々の勝利はあまりにも脆く崩れ去った。
練り上げた策はことごとく読まれ、陣形は巧みに分断され、仲間たちが各個撃破されていく。
戦線は、もはや立て直しが不可能なほどに崩壊していた。
「レイア!退却だ」
本陣で指揮を執る総大将、そして俺の幼馴染でもある彼女に叫ぶ。
レイアは、燃えるような紅の瞳で俺を鋭く睨みつけた。
「なんだと!?敵にこれだけやられておいて、私に尻尾を巻いて逃げろというのか!」
「そうだ」
即答すると、彼女の眉がさらに吊り上がる。レイアは天才だ。幼い頃から、その才能は抜きんでていた。
だが、あの“千年将軍”と渡り合うには、まだ早すぎた。勝敗は、覆しようもなく決している。
そして何より、今この時を逃せば、撤退すら叶わなくなるという確信が、俺の背筋を凍らせていた。
「ふざけるなッ!グレン、いくらお前でも許さないぞ!」
「冷静になれ、いつものように。そうすれば分かるはずだ。このままじゃ、全滅するだけだってことが」
その紅の瞳を静かにじっと見つめる。
お前なら、この絶望的な状況を理解できるはずだ、と。
レイアの肩が、わなわなと震える。
そして、口を開きかけ、唇を血がにじむほどに噛むと、絞り出すような、か細い声が漏れた。
「………………無理だよ、グレン。逃げきれない」
今にも泣きだしそうな、幼子のような姿。
そうだ。こちらの馬は連戦で疲弊しきっている。
対する敵は、温存していた新手。普通に退却すれば、追いつかれるのは火を見るより明らかだった。
「俺が殿を務める。だから、本隊だけ連れて逃げろ。お前さえ生きていればまだ再起の芽はある」
「嫌だ!そんなことをするくらいなら、ここで一緒に果てたほうがマシだ!」
分かっていたさ。お前がそう言うことは、痛いほど。
「お前は、生きるんだ。……どうせ死ぬなら、美女に泣いて貰うほうが本望だからな」
「それでも……っ!お前を見捨てていくなんてこと、私には――」
悪いな。そう心の中で呟き、合図を送る。
物陰に潜ませていた部下が、音もなく睡眠薬を塗り込んだ吹き矢を放ち、それを正確にレイアの首筋に吸い込ませた。
「グレ…ン………………」
一瞬の驚愕の後、その瞳からは力が抜けていき、最後に縋るように手が伸ばされる。
俺は、その手を掴むと、ゆっくりと傾く体を静かに受け止めた。
「……俺達の女神様を頼むぞ?」
レイアを屈強な男たちに預ける。誰もが、泣き出しそうな、悔しさに歪んだ顔をしていた。
「…………はい、副長。必ずや、生きてお連れいたします」
「おいおい、『暁の剣』の団員がそんな情けない顔するんじゃねえ。……でも、任せたぜ。俺は、奴さんにちょっくら挨拶してくるからよ」
「……ご武運を」
背中にその声を受けながら、俺は腰に差した双剣を抜く。
そして、残った少数の手勢と共に、最後の突撃を敢行した。
迫りくる敵兵を斬り、突き、殴り飛ばし、踏みつける。
敵の武器を奪い、身体を盾にし、思考の全てを生存と時間稼ぎに注ぎ込む。
ふと気づけば、周りに味方の姿は既になく、おびただしい数の敵兵に、たった一人で囲まれていた。
「並んで並んでってのは……さすがに無理か」
苦笑とともにそう呟く。
それと同時に、まるで舞台の幕が上がるのを待っていたかのように、じりじりと距離を詰めていた敵が、一斉に踏み込んできた。
前から突き出された細身の剣を紙一重で躱し、相手の腕を掴む。その突進の勢いを利用して、背後の敵に叩きつけた。
左から振り下ろされる斧を、身体を滑り込ませるようにして受け流し、がら空きになった顔面に膝蹴りを叩き込む。
崩れ落ちる相手の背を足場に高く跳び上がり、背後を取った別の敵兵の無防備な首筋に、容赦なく剣を突き立てた。
乱れた息を整えながら周囲を窺うと、ひときわ立派な鎧を纏った巨躯の騎士が、静かに前に出てきた。
「これはこれは、大層なお召し物で。俺とのダンスをご所望ですかい?」
「……貴様、名は?」
地に響くような重厚な声。
その威圧感、あふれ出る自信が只者ではないことを物語っていた。
「…………グレン」
「なるほど、貴様があの“血濡れのグレン”か。噂は聞いているぞ」
「あんたは?」
「ガリオス帝国、第三騎士団長ダグラン。貴様のせいで、まんまと大将首を逃してしまった。ならばせめて、その首を我が武功とさせてもらおう」
「好きにしろよ。……取れるもんならな」
「……あまり、なめるなよ」
空気が張り詰める。巨躯の騎士が、その体躯にふさわしい質量のハルバードを構える。
対する俺は、足元に転がる手頃な剣をもう一本拾い上げ、二刀を構えた。
睨み合いは、一瞬の静寂を挟み、破られた。
ダグランが獲物を構えたかと思うと、次の瞬間、雷鳴のような神速の突きが放たれる。
気づいた時には、風さえ置き去りにした鋭利な刃が、すぐ眼前に迫っていた。死、という二文字が脳裏を過る。
だが、長年の戦闘で研ぎ澄まされた勘が、反射的に身体を動かした。奇跡的に、剣の一本がその一撃を弾く。
(くそっなんて鋭さだ!全く見えねぇ)
その一撃を受け流しきれず、わずかに体勢を崩した俺に、死の嵐が襲いかかる。
耳元を風が通り過ぎるたび、命の灯火が揺らめくのを感じる。
息もできないほどの緊張感の中、俺はただ必死に、その猛攻にしがみついていた。
だが、全ては避けきれない。掠めた刃が鎧を紙のように切り裂き、肉を抉る。
気づけば全身から血が噴き出し、立っていることすら億劫になっていた。この出血量では、もって数分だろう。
「他愛無い。“血濡れのグレン”、その評価は過大だったようだな」
興ざめだと言わんばかりの吐き捨てるような物言いとともに、再びハルバードがゆっくりと構えられる。
一見隙だらけにも見えるその動きは、絶対的な自信の表れだった。
(確かに、あんたは強い。自信を持つだけはあるぜ。だが、戦場ではちょいと真っ直ぐに過ぎたな)
再び、神速の突きが放たれる。もはや、目は掠れ追うことすらできない。
それでも、これまでの応酬で分かっていた。
奴が必殺を期して狙うのは、ただ一点。必ず、心臓だ。
その軌跡を予測し、左手の剣を滑らせて受け流す。
しかし、凄まじい衝撃に剣は耐えきれず、甲高い音を立てて砕け散ると、そのまま切っ先が脇腹を抉るようにして体を貫く。
「っぐ!……まだだッ!」
遠のきかける意識を、奥歯を噛み締めて引き戻す。
痛みに叫ぶ身体に鞭打ち、俺はさらに一歩、ダグランの懐深く踏み込んだ。
「なっ――」
予想外の接近に、騎士の目に一瞬の驚愕が浮かぶ。しかし、その一瞬が、奴の命運を分けた。
振り抜いた右手の剣が、ダグランの無防備な首を鮮やかに刎ね飛ばす。
宙を舞ったそれがやがて地につき音を立てると、俺の身体もまた、糸が切れたように大地に倒れ込んだ。
しばしの静寂。やがて、俺を取り囲んでいた敵兵たちの間に、恐慌が伝播していくのが分かった。
どうやら、彼らの騎士団長様は、よほど名の知れた英雄だったらしい。
逃げるなら、今が絶好の機会だろう。
だが、もうそれは叶わない。
腹に開いた大きな風穴から、命が、体温が、急速に漏れ出ていき、もはや指先すら動かせる気がしなかった。
「…………終わり、か」
かつて、貧しい村に住む、頭のネジが数本外れたイカれた女が言った。
いつの日か、天下を取るのだと。この世界に、自分たちの名を刻み込むのだと。
誰もが腹を抱えて笑ったその荒唐無稽な夢物語に、なぜか、数人の悪ガキたちは心を奪われ、乗っかった。
「正直なところ、俺はお前の夢なんて、どうだってよかったんだ」
誰にも言わず、胸の奥底にしまい込んだ想い。俺が戦う理由。
この命を懸けるに値する、たった一つの真実。
降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。厚い雲の切れ間から、隠されていた太陽が顔を出し始めている。
「ただ俺は、お前が好きだった。……それだけだ」
ずっと、ずっと隠してきた。お前が、その想いに頷くことはないと、分かっていたから。
ただ悩ませ、苦しませ、重荷になるだけだと分かっていたから。
それに、俺が勝手にしたことだ。
見返りを欲しいと思ったことは、ただの一度もない。
「笑顔をくれ、なんて言わねえさ」
急速に冷えていく身体。重くなる瞼。
お前の想い人が、『夢』そのものであることを知っている。
その夢に一歩近づくたびに、お前がどうしようもないほど眩しい笑顔になることも。
お前が俺に振り向くことはない。そんなことは、昔から重々承知だ。欲張るつもりはさらさらない。
だから、最期にひとつだけ。ほんの、ほんの少しだけでいいのだ。
「泣いてくれれば……それで、いい」
夥しい数の骸の中心で、男は穏やかに微笑みながら眠りについた。
その冷え切った身体を、天から降り注ぐ太陽の光が、まるで労うかのように、仄かに温め続けていた。