その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く
降り注ぐ雨粒が、鎧と地面にこびりついた血を叩き落とし、赤黒い雫となって泥へ吸い込まれていく。
≪負け戦だってことは、分かっていた≫
それでも身体は止まらない。
思考よりも早く、生存本能が四肢を動かし、視界を戦場の“次”へと走らせる。
右から突き出された槍。
踏み込みと同時に腰を捻り、穂先の軌道を紙一重で外す。回転の勢いを殺さぬまま懐へ滑り込み、剣の柄を敵の兜の隙間――剥き出しの顎へ叩き込んだ。
鈍い感触。
脳が揺れた振動が、手のひらを伝って肘まで響く。
男は声も上げられず、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
間髪入れず、正面から剣が振り下ろされる。
地面を転がり込むようにして白刃をやり過ごし、晒された膝裏へ逆手の剣を突き立てた。柔らかな腱が裂け、悲鳴が雨音に呑まれる。
≪傭兵稼業は泥水を啜る毎日だ。逃げるのを恥だと嘯く連中が、無様に死ぬのも腐るほど見てきた≫
視界の端で、弓が引き絞られる。
倒れかけた敵兵の襟を掴み、無理矢理引き寄せた。
矢が背中へ突き刺さる鈍い衝撃。
生きた盾を突き放し、すれ違いざまに弓兵の喉を掻き切る。噴き出した血が雨に混じって散った。
横薙ぎの大剣が、空気そのものを叩き潰す勢いで迫る。
一歩だけ退き、刃ではなく風圧をやり過ごす。次の瞬間、がら空きになった胴へ体重を乗せた一撃を振り下ろした。骨が折れる感触が、刃を通して返ってくる。
≪死にたいわけじゃない。だが、それより優先すべきものがある≫
殺意が、肌を撫でた。
短剣が首筋へ迫る。
わずかに首を傾けてかわし、手にしていた剣を投げた。
鉄塊は正確に胸を貫き、鮮血という真っ赤な華を咲かせる。
新たな返り血で濡れた顔を上げ、ゆっくりと口角を吊り上げる。
その狂気を孕んだ笑みに、包囲していた敵兵たちが一歩、後ずさった。
「寂しいねぇ。仲良くしようぜ?」
雨音だけが支配する戦場の中心で、男は再び剣を構える。
その瞳に絶望はない。諦めもない。
ただ、果たすべき目的だけが、静かに――それでいて確かに燃えていた。
◆◆◆◆◆
常勝無敗の傭兵団『暁の剣』。
片田舎の農村で、数人の悪ガキが立ち上げたその集団は、帝国との戦で数多の武功を上げ、今や王国正規軍の一翼を担うまでに成長した。
だが、帝国最強と謳われる“千年将軍”。
その男の前では、こちらの勝利はあまりにも脆かった。
練り上げた策はことごとく読まれ、陣形は巧みに分断され、仲間たちは各個撃破されていく。
それは偶然でも、単なる力量差でもない。
まるで――こちらの思考そのものを、先回りされているかのようだった。
戦線は、もはや立て直しが不可能なほどに崩壊していた。
「レイア! 退却だ!」
本陣で指揮を執る総大将、そして俺の幼馴染でもある彼女に叫ぶ。
燃えるような紅の瞳が、怒りと焦燥を孕んで俺を射抜いた。
「なんだと!? 敵にこれだけやられておいて、私に尻尾を巻いて逃げろというのか!」
「そうだ」
即答すると、眉がさらに吊り上がる。
レイアは天才だ。幼い頃から、その才能は抜きんでていた。
だが、あの“千年将軍”と渡り合うには、まだ早すぎた。勝敗は、覆しようもなく決している。
そして何より、今この時を逃せば撤退すら叶わなくなる――その確信が、俺の背筋を凍らせていた。
「ふざけるなッ! グレン、いくらお前でも許さないぞ!」
「冷静になれ、いつものように。そうすれば分かるはずだ。このままじゃ、全滅するだけだってことが」
紅の瞳を、静かに見つめ返す。
お前なら、この絶望的な状況を理解できるはずだ、と。
レイアの肩が、わなわなと震えた。
口を開きかけ、唇を血が滲むほど噛み、絞り出すような声が漏れる。
「………………無理だよ、グレン。逃げきれない」
今にも泣きだしそうな、幼子のような姿。
こちらの馬は連戦で疲弊しきっている。対する敵は温存していた新手。
普通に退却すれば追いつかれるのは火を見るより明らかだった。
「俺が殿を務める。だから、本隊だけ連れて逃げろ。お前さえ生きていれば、まだ再起の芽はある」
「嫌だ! そんなことをするくらいなら、ここで一緒に果てたほうがマシだ!」
分かっていたさ。
お前がそう言うことは、痛いほど。
「お前は、生きるんだ。……どうせ死ぬなら、美女に泣いて貰うほうが本望だからな」
「それでも……っ!お前を見捨てていくなんてこと……お前がいなければ、私は――」
その言葉には、指揮官ではない、幼い頃から隣にいた一人の人間としての弱さが滲んでいた。
胸の奥が、きしむ。無意識のうちに零れそうになる言葉を喉の奥に押し込み、静かに息を吐いた。
(…………悪いな)
そう心の中で呟き、合図を送る。
物陰に潜ませていた部下が、音もなく吹き矢を放つ。
睡眠薬を塗り込んだ針が、正確にレイアの首筋へ吸い込まれた。
「グレ……ン………………」
一瞬の驚愕の後、瞳から力が抜けていく。
縋るように伸ばされた手を掴み、傾く細い体を壊れ物を扱うように優しく受け止めた。
「……俺たちの女神様を頼むぞ?」
その温もりに名残惜しさを感じつつ、レイアを屈強な男たちに預ける。
誰もが泣き出しそうな、悔しさに歪んだ顔をしていた。
「…………はい、副団長。必ずや、生きてお連れいたします」
「おいおい、『暁の剣』の団員がそんな情けない顔するんじゃねえ。……でも、任せたぜ」
喉の奥に詰まったものを笑いで押し潰し、腰の双剣を抜く。
「俺は、奴さんにちょっくら挨拶してくるからよ」
「……ご武運を」
背中に嗚咽混じりの声を受けながら、俺は残った少数の手勢と共に、死地へと足を踏み出した。
迫りくる敵兵を斬り、突き、殴り飛ばし、踏みつける。
敵の武器を奪い、身体を盾にし、思考の全てを生存と時間稼ぎに注ぎ込む。
ふと気づけば、周りに味方の姿は既になく、おびただしい数の敵兵の前で、たった一人。
呼吸は荒れ、腕は痺れ、視界の端が白く滲む。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
「並んで並んでってのは……さすがに無理か」
苦笑が漏れる。
それと同時に、じりじりと距離を詰めていた敵が、一斉に踏み込んできた。
前から突き出された細身の剣。
それを紙一重で躱し、相手の腕を掴む。
突進の勢いのまま背後の敵へ叩きつけた。
左から振り下ろされる斧。身体を滑り込ませるように受け流し、がら空きになった顔面へ膝蹴りを叩き込む。
崩れ落ちる背を足場に跳び上がる。
空中で身を捻り、背後の敵兵の無防備な首筋へ剣を突き立てた。
刃が骨に当たる感触。引き抜くと同時に、血が雨に散る。
乱れた息を整えながら周囲を窺うと、ひときわ立派な鎧を纏った巨躯の騎士が、静かに前へ出てきた。
「これはこれは、大層なお召し物で。俺とのダンスをご所望ですかい?」
「……貴様、名は?」
地に響くような重厚な声。
その威圧感、あふれ出る自信が只者ではないことを物語っていた。
「…………グレン」
「なるほど、貴様があの“血濡れのグレン”か。噂は聞いているぞ」
「あんたは?」
「ガリオス帝国、第三騎士団長ダグラン。貴様のせいで、まんまと大将首を逃してしまった。ならばせめて、その首を我が武功とさせてもらおう」
大将首を逃した。 その言葉に、俺の胸に小さな安堵が広がる。
同時に思った。ならば、あとは命を燃やすだけだと。
「好きにしろよ。……だが、地面に転がるのはあんたの首かもな」
「……あまり、なめるなよ」
空気が張り詰める。巨躯の騎士が、その体躯にふさわしい質量のハルバードを構える。
対する俺は、足元に転がる手頃な剣を拾い上げ、二刀を構えた。
睨み合いは一瞬。
静寂が裂けた。
ダグランが獲物を構えた――と思った次の瞬間、雷鳴のような突きが放たれる。
気づいた時には、風さえ置き去りにした刃が眼前にあった。
死、という二文字が脳裏を過る。
だが、長年の戦闘で研ぎ澄まされた勘が、反射的に身体を動かした。
奇跡的に、片方の剣がその一撃を弾く。
(くそっ……なんて鋭さだ。全く見えねぇ)
既に体は満身創痍。受け流しきれず、わずかに体勢が崩れる。
そこへ、死の嵐が襲いかかった。
耳元を風が通り過ぎるたび、命の灯火が揺らめく。
息をする隙すらない。俺はただ必死に、その猛攻にしがみついた。
だが、全ては避けきれない。
掠めた刃が鎧を紙のように裂き、肉を抉る。熱い痛み。遅れて、冷たい感覚。血が噴き出し、手が滑る。
(――まずい)
初めて、心臓が嫌な音を立てた。
これは勝てるかどうかじゃない。生き残れるかどうかの相手だ。
気づけば全身から血が滲み、立っていることすら億劫になっていた。
この出血量では、もって数分。
「他愛無い。“血濡れのグレン”、その評価は過大だったようだな」
興ざめだと言わんばかりに吐き捨て、再びハルバードがゆっくりと構えられる。
一見隙だらけに見えるその動きは、絶対的な自信の表れだった。
(確かに、あんたは強い。だが――戦場じゃ、真っ直ぐすぎたな)
再び、神速の突き。もはや、目は掠れ追うことすらできない。
それでも、これまでの応酬で分かっていた。
奴が必殺を期して狙うのは、ただ一点。
必ず、心臓だ。
その軌跡を予測し、左手の剣を滑らせて受け流す。
だが、凄まじい衝撃に剣は耐えきれず、甲高い音を立てて砕け散ると、そのまま切っ先が脇腹を抉るようにして体を貫く。
「っぐ……!」
視界が暗転しかける。膝が折れそうになる。
奥歯を噛み締め、遠のく意識を引き戻した。
「……まだだッ!」
痛みに叫ぶ身体へ無理矢理鞭を入れる。
俺はさらに一歩、ダグランの懐深く踏み込んだ。
「なっ――」
予想外の接近。騎士の目に一瞬の驚愕が浮かぶ。
その一瞬が、命運を分けた。
右手の剣を振り抜く。
刃が首筋を捉え、鮮やかに刎ね飛ばす。
宙を舞ったそれが地に落ち、重い音を立てた。
同時に俺の身体も、糸が切れたように大地へ倒れ込む。
しばしの静寂。
やがて、俺を取り囲んでいた敵兵たちの間に恐慌が伝播していくのが分かった。
どうやら、彼らの騎士団長様は、よほど名の知れた英雄だったらしい。
逃げるなら、今が好機だろう。
だが、もうそれは叶わない。
腹に開いた大きな風穴から、命が――体温が急速に漏れ出ていく。
指先すら動かせる気がしなかった。
「……終わり、か」
雨はいつの間にか止んでいた。
厚い雲の切れ間から、隠されていた太陽が顔を出し始めている。
「……まぁ、上出来だよな」
かつて、貧しい村に住む、頭のネジが数本外れたイカれた女が言った。
いつの日か、天下を取るのだと。自分たちの名を、この世界に刻み込むのだと。
誰もが腹を抱えて笑ったその荒唐無稽な夢物語に、なぜか、数人の悪ガキたちは心を奪われ、乗っかった。
「正直なところ、俺はお前の夢なんて、どうだってよかったんだ」
誰にも言わず、胸の奥底にしまい込んだ想い。
俺が戦う理由。
この命を懸けるに値する、たった一つの真実。
「ただ俺は――お前が好きだった。……それだけだ」
ずっと隠してきた。
お前が、その想いに頷くことはないと分かっていたから。重荷になるだけだと分かっていたから。
それに、俺が勝手にしたことだ。
見返りを欲しいと思ったことは、一度もない。
「笑顔をくれ、なんて言わねえさ」
急速に冷えていく身体。重くなる瞼。
お前の想い人が、『夢』そのものであることを知っている。
その夢に一歩近づくたびに、お前がどうしようもないほど眩しい笑顔になることも。
お前が俺に振り向くことはない。そんなことは、昔から重々承知だ。欲張るつもりはさらさらない。
だから、最期にひとつだけ。
お前の人生の、ほんの片隅を。
「泣いてくれれば……それで、いい」
夥しい数の骸の中心で、男は穏やかに微笑みながら眠りについた。
その冷え切った身体を、天から降り注ぐ太陽の光が、まるで労うかのように、仄かに温め続けていた。




