01
ぎゃあぎゃあ、と髪を掻き毟るように頭を抱えたクロエがのたうち回る。
「ダンテ……ダンテ! 何でここ!?」
就職活動を理由に家を出て以来、一度も帰っていないことは気づいていた。同じ魔女の道を選んだことも、国家魔導士になったことも、あれから手紙で伝えたのかも怪しいものだ。
王都からは距離のある実家だが、帰れないほどじゃない。帰っていないのは偏に、クロエが何かを理由に意地を張っているだけだ。
「どうせ森から出るなら、昔馴染みに総当たりだ。まずは、ここ」
魔女、シャーラ。
魔王討伐の旅路で出会ったばあちゃんで、腹を空かせた奴にクッキーを食わすのが趣味というお節介な奴だ。俺も散々、口にクッキーを詰め込まれた。疲労で指先一つ動かせなかった俺を、元気にしてくれた恩人だ。
薬草に詳しくて、腹痛を緩和する薬だの眠り薬だのといった薬を調合しては、近隣の村や町に売りに行っていた、らしい。魔王の一件で近隣にあった村や町は壊滅して、シャーラは自給自足の生活を強化したという。その割に、値の張る食材を大盤振る舞いしたり菓子を大量に作ったりしていたから、底が知れない。
「な、何でおばあちゃん家……ダンテやっぱり――」
「ばあちゃんのクッキー美味いから」
「は?」
「美味いクッキー食わせてやろうと思ったんだよ、フェルに」
世界一のクッキーだ。俺が焼くよりずっと美味い。
「クッキーのために来たの……?」
「クッキー半分、人の家の玄関を吹き飛ばす厄介な魔女に説教してもらおうってのが半分」
「げっ……」
サーッと青褪めたクロエを置いて、俺はシャーラの家へまっすぐ進む。ノックしようと持ち上げた腕はしかし、先に扉を開けたシャーラによって用途を失った。
「おやおや、久し振りだねえ。元気にしてたかいダンテ坊や」
「久し振りだな、シャーラ。元気そうで嬉しいよ」
曲がった腰、しわだらけの顔、真っ白になった髪。黒いローブにでっかい三角帽子に胸元のよくわからないゴテゴテしたブローチ。十年前とちっとも変わらない、陽だまりのような橙色の瞳。懐かしくて、勝手に頬が緩んだ。
「あらあら、たくさん荷物持って重かったろう。中へお入り。ちょうどクッキーが焼けたところだよ」
「フェル、ばあちゃんがクッキー食わせてくれるってさ。持ってきた林檎でアップルパイも作ってもらおうな」
顔くらい上げるかとも思ったが、フェルはますます俺の首元に頭を擦りつけるばかりで、返事もない。
「おやおや、照れ屋さんだね」
気にした風でもなく、シャーラはからからと笑って俺たちを招き入れてくれた。そして後ろで立ち竦んでいるクロエを見遣る。
「クロエ、突っ立ってないでお前もお入り。まったく手紙の一枚も寄越しやしないで、困った孫だねえ。お茶が冷めちまうよ、早くおし」
わずかに尖った声は、寂しかったのだろうとわかるから何も言わない。
そろそろと顔を上げたクロエは真っ赤になっていて、落ち着きなく視線をさまよわせながらもか細い声で返事をした。
「は、はい……おばあちゃん、ただいま」
「はい、おかえり」
途端、とろけるように笑んだシャーラの嬉しそうな顔を見て、クロエがこっそり安堵の息を吐いたのを、俺は見逃さなかった。
◇
シャーラの家の食卓には、何がどうしてこうなったかはわからんが、とにかくクッキーが山のように盛ってあった。皿が足りないのか、ティーカップまで使っている。……気合入れすぎだろ、ばあちゃん。
とりあえず土産の林檎を渡して、全員で席につく。気分はちょっとした挑戦者だ。プレーン、ココア、ナッツにジャムと、味は様々あるようだが、それにしたって結局は全部クッキーなんだよな。食べきれるだろうか。
「あの、ごめんね。おばあちゃん張り切っちゃったみたいで」
アップルパイを作るとシャーラがキッチンに引っ込むのを待って、クロエが震える声で謝罪した。
「俺らのために張り切ってくれたんだから、嬉しいばっかだよ」
いただきます、と手を合わせ、猫の頭の形をしたのを口に放り込む。……うま。
「ダンテダンテ! 美味いなこれ! やっぱあの魔女すっげえな!」
シャーラの家で待っていた分裂体の方は散々食ったのだろう、クッキーには見向きもしない。クッキーの入った器に夢中で嘴を突っ込む本体を見てげらげら笑っている。
「ダンテダンテ! 俺様ってばすごいことに気づいちゃったんだぜ! 分裂した状態でそれぞれが飯を食えば、なんと倍食える!」
「お前以外の全員が損するだろが。俺を破産させる気か」
二重奏で誇らしげなセツを並べて両手で挟む。力を込めて押すと、二羽の境界線が曖昧になりやがて一羽に戻った。
「満腹になったお前らを融合させたら、本体の腹がはち切れるんじゃねえか?」
「ぎゃっ!? そんなことになったら俺様だって死んじゃうかもしんねえだろ!? 俺様が死んだらダンテは泣いちゃうから、怖いことはしちゃダメなんだぜ!」
強気な語調のわりに、セツはじわじわと後ずさる。
「へーへー。腹も膨れて幸せいっぱいだろ、セツ。運動がてら見回りしてこい」
「ちぇっ……ダンテってば俺様の扱いが雑なんだぜ。俺様ってば拗ねちゃうぜ!」
「そう言うなよ。セツ、愛してるぜ」
「ぎゃ、ぎゃぎゃぎゃ! 俺様も愛してるぜ~」
たちまち機嫌を直して飛び去って行くセツを見て、俺は何とも言えない気分になる。あいつ、やっぱりチョロいんではないだろうか。
ちらり、と横目でフェルを見る。うつむいて、しょんぼりしたままだ。
「フェル、そのまんまじゃクッキー食えないだろ。袋、食事用のに着替えようぜ」
返事の代わりに、大袈裟なほど首が振られた。向きは横だ。
クロエが俺の耳元に口を寄せる。
「フェル様どうしたの? ……私が貢物持ってこなかったから怒ってる?」
「がっつり人見知り発動してるだけ、気にすんな。それよりお前もばあちゃんのクッキー食えよ。フェルが食わないなら、俺らだけで完食するしかねえんだぞ」
しかもこの後には、アップルパイも控えている。
「む、無理だよこんなにたくさん! おばあちゃんのことだから、夕ご飯だってたくさん作るよ!?」
「わかってんだよそんなこと! でも食えとにかく食え!」
どうせ自ら食べなくたって、シャーラが口の中に詰め込んでくるんだから結果は変わらない。だったら自分で口に詰め込んだ方がまだマシだ。一度に詰め込む量を調節できる。シャーラの手にかかれば、腹より先に口が裂ける。
幸いなことに味は最高だ。満腹感以外に、嚥下を邪魔する要素はない。
「うぅ、ちょっとした拷問だよこれ……でも美味しい」
「食い物が美味いってのは幸福への第一歩だ。いいから食え」
後でキッチンに行って小麦粉の残量だけは確認しよう。いざとなったら転移魔法で森に移動させて隠そう。
そんなことを企みながらも手は止めない。クッキーとの戦いはこれからだ。
◇
太る太るとしくしく泣きながらも夕飯まできっちり完食したクロエは、食後の睡魔に勝てずコテンと寝てしまった。セツはだんまりを決め込んだままのフェルをからかうのに飽きたのか、俺にいくつか千切らせ外へ出た。
「フェル、お前もう寝ちまえ。疲れたろ」
気が向いたら食うかもしれない、と余らせたクッキーも手つかずだ。
「フェル? フェルさーん? 無視されるとおじさん寂しいんですけど?」
そこまで言ってようやく、フェルはとろとろ顔を上げた。へにゃり、と垂れ下がった眉が如実にフェルの心情を物語る。
「クッキー食うか?」
「……要らない」
「じゃあ、寝る?」
再びフェルがしょんぼりうつむいた。
昔を思い出すようだ。反抗期の真っ只中だった頃のフェルは、今みたいに何でもかんでも嫌がった。あの頃は今の岩のような状態ではなく、まるで嵐のようだったけれど。食事も睡眠も拒絶して、俺が欠伸してもくしゃみしても怒り狂っていた。
俺が森に引きこもるようになってから、初めての外出だ。事が事なだけあって、緊張したり怯えたり、内心きっと大荒れだろう。フェルはまだ、抱えた不安を上手に隠せるほど大人じゃない。
「俺さ、腹いっぱいで眠れないから散歩に行こうと思うんだけど、お前も来る?」
俺を見上げる双眸に、わずかに明るさが戻った。
「セツには内緒な。二人で散歩したって知ったら拗ねるから」
「わかった」
セツが絡むと途端にこれだ。まったく、仲が悪い。
両腕を伸ばし無言で抱っこをせがむフェルに微苦笑しつつ、黙って従う。余らせていたクッキーはハンカチで包んで、こっそり懐にしまう。食後の後片付けに追われるシャーラに声をかけ、外に出た。
シャーラの家は人間の国と魔族の領地のちょうど真ん中に位置している。周囲にあるのはだだっ広い草原だけ。人間も魔族も通りかからないこの場所は静かで、他に明かりもないから夜は真っ暗だ。
「近くに花が咲いてるとこがあるんだ。そっち行こうぜ」
「うん」
魔眼のおかげで夜でも問題なく見通せる。欲しくもなかったものではあるが、こんな時ばかりはあってよかったと思わざるを得ない。
「お土産に花を頼まれてるんだ。フェルが綺麗だと思うやつを摘んで行こう」
「赤いのがいい」
「咲いてるといいな」
わずかだが浮上したフェルの声に目を細める。
家の裏手に広がる花畑は、子どもたちの格好の遊び場だった。手入れをしなくても自由に咲き乱れて、季節によって好き勝手に彩を変える。
俺には花の種類なんてわからんが、子どもたちに花の名前を教えるシャーラの声は心地いい子守唄だった。
「ダンテ、赤いのあった! 綺麗~」
はしゃぐ声をあげ、フェルが俺の腕を振りほどく。駆けた先に座り込み、花弁をつついたり匂いを嗅いだりあっという間に虜になった。
視界の隅に捉えたまま、俺も目当ての花を探す。存外あっさり見つかったそれを手折り、フェルに声をかける。
「俺も綺麗なの見つけたぞ」
駆け寄ってきたフェルは俺が差し出した花を見て、不思議そうに首を傾げた。
「赤くないよ?」
「でも綺麗だろ。俺、この花が一番好きなんだ」
花の中で、名前を知っているのも見分けられるのもこれだけだ。
「白くて小っちゃい」
「でもこいつ、意外としぶといんだぜ」
「強い?」
「強い。しかも、いい匂いがする」
鼻をくすぐるように近づけてやると、匂いを嗅いだフェルの表情が溶けた。今日、ようやく見られた満面の笑みだった。
「ふふ、美味しそう」
「好きになっちゃうだろ?」
「うん。フェルもこの花、好き」
肩の力が抜けたところで、フェルの腹が盛大に鳴く。意地を張っていた分、恥ずかしいのかフェルが真っ赤に茹で上がった。
「見ないで!」
「あっはっは! 元気になってよかったな、フェル」
懐からクッキーを包んだハンカチを取り出す。
「もう夜だけど、今日は特別にお菓子食っていいぞ」
「い、いただきます」
きちんと手を合わせ、おそるおそるといった様子で手を伸ばした。
「~~っ!?」
麻袋をズラしクッキーを一口食べたフェルはこぼれ落ちそうなほど瞠目し、それからはあっという間だった。嚥下も待てず次を口に詰め込んで、完食までずっと頬を手で押さえていた。
昔、あんまり美味しいとうっかり頬が落ちるからな、と揶揄ったのを真に受けて以来の癖だ。
「美味かったろ」
「うん!」
「ばあちゃんの作る飯もおんなじくらい美味いから」
途端、怯んだフェルに苦笑する。
「ダンテ……フェル、今日はね……あのね、」
「朝ごはん食べ過ぎたな。眠かったし」
先回りして言葉を奪う。
「明日はたくさん食べるといい。楽しみだな、フェル」
「……うん」
抱っこ、とねだるので腿に座らせ抱きしめる。
「ダンテ……フェル、明日は元気なの。だから今日は、おやすみなさいする」
「ん、おやすみ」
そっと頭を撫でてやる。眠らせるために必要な魔力より多めに練って、寝息を立て始めたフェルに魔力を供給する。クッキーだけではこの食いしん坊の腹は満たせないから、食事の代わりだ。
しばらくそのまま花畑を眺めつつ、フェルが摘んだ花で冠を作ってみる。久し振りだが案外うまくできるものだ。完成品はフェルの頭に乗っける。そうこうしていると、背後に立つ気配があった。
「食ってすぐ寝るとオーガになるらしいぞ」
「なってないわよ、意地悪」
クロエだ。
「ダンテ、大事な話」
いつになく真剣な声に、さすがにばあちゃんの家に来れば言い逃れできないよなあ、と他人事のような気持ちが浮かぶ。久し振りの帰省で誤魔化されてくれるかと期待もしたが、どうやらそうもいかなかったらしい。
「ん~……いいよ。隣座るか?」
「このままでいい。すぐ済むわ」
深く息を吸って、吐き出す音。こっちまで緊張しそうだ。背後に立っているクロエを振り返って顔を見るだけの度胸は、俺にはない。
「ダンテ、ありがとう。ダンテが嫌がってることは知ってるけど、ありがとう。どうしても言いたかったの」
さて、困った。安請け合いしたものの、どう返事をしたものか。
魔王討伐の話でないことくらい、鈍い俺でも理解できる。だからと言って、のらりくらりと躱してきた話題だ。今更、どの面下げて……どの面をぶら下げても面映ゆい。
クロエが飽きもせず我が家を訪ねる理由。クロエが我が家の玄関をしつこく吹き飛ばす理由。
「クロエ、俺は――」
「大事な話終わり! 聞いてくれてありがとうダンテ!」
びっくりするほど大きな声で遮られ、思わず振り返る。しかしクロエは既に走り去っており、見えたのは小さくなった背中だった。
「ありがとうって……そんな何回も言うなよ」
俺との記憶を、そんな大事にしてくれるなよ。
◇
家に入りフェルをベッドに寝かせ、ダイニングへ戻ると、シャーラがお茶を用意して待っていた。促されるまま、向かいに座る。
「あの坊や、随分と懐いたね」
「まあ、な」
「連れて帰ると言い出した時はどうなるかと思ったけど、うまくやれてるようで安心したよ」
「うまく、ねぇ……」
やれているんだろうか。自信はない。
フェルはまだ幼くて、他に寄る辺もない。懐かざるを得なかった、というのが正しい気がする。俺が森に引きこもっているせいで、外の世界のこともほとんど知らない。籠の鳥でもあるまいし、いつかは出て行くというのにこのままでは、実がなる前に根が腐る。
「ダンテ坊やは本当にダメダメだね」
俺の渋顔から思考を読んでだろう、シャーラが肩を竦めて苦笑した。
「俺がダメな奴ってことは、俺が一番よく知ってるよ、シャーラ」
「ふふふ、しょうがない子だねぇ」
含みのある言い方に引っかかりを覚えるものの、どうせわからないのだから考えてもしかたない。
話題を変える。
「今日は悪かったな、セツはあの通り好き放題だし、フェルはあんな感じだし」
「気にしなさんな。元気な子は大好きだし、照れ屋な子も大好きだよあたしは」
「ありがとう、シャーラ」
「お礼を言うのはあたしだよ。クロエを連れてきてくれて、ありがとう。あの子、ちっとも帰ってこなくてね。おばあちゃんは寂しかったのさ」
昔から、腹を空かせて泣いている奴を放っておけない質だった。それこそ人間だろうが魔族だろうが、構わず口にクッキーを詰め込んでは連れ帰り、せっせと世話を焼いていたような人だ。クロエが家を出て、空っぽになった家はさぞ広く静かだったことだろう。
「喧嘩してしまってね、でも仲直りする前にあの子は家を出てしまったから。手紙もくれないし、かといってあたしが王都に行くのはねえ……」
それは珍しい、シャーラの弱音だった。
「王都に行けば、おばあちゃんはダンテ坊やにも会いたくなるからね。でもそれは、……」
それは、俺が許さない。
森に引きこもると決めた時、みんなと約束した。森から出ない。誰とも会わないし、誰とも会えない。覚悟が鈍るから誰とも会わない。死にたくなるから誰とも会えない。酷い約束だけれど、みんな頷いてくれた。この十年、違えることなく今日まできた。
「ごめんな、シャーラ」
「謝ることないよ、ダンテ。みんなで決めたことだ。それにお前さんはこうして会いに来てくれたからね」
シャーラが手を伸ばし、俺の頭をそっと撫でた。
「お前さんが魔王を斬ってからは平和でね。泣いてる子を見かけなくなった。よく頑張ったね、ダンテ」
昔から、シャーラに褒められるとくすぐったくて、むず痒くて、泣きそうになる。この称賛は否定してはいけないものだと、きちんと受け取るべきものだと、シャーラはそう思わせてくれる。けれど、それでも。
「俺が一人で頑張ったわけじゃない」
助けてもらって、支えてもらって、それでもギリギリだった。今があるのは、俺以外の連中が頑張ったからで。俺が褒められるようなことでは、決してない。
シャーラの手が離れる。
「……そうそう、魔王の話だったね。あたしの家の辺りには、魔王軍らしき連中は来てないよ」
とってつけたようなその話題に乗っかる。
「進軍中らしいんだが、セツも見てない。どうなってんだか、さっぱりだ。……まあ、ここは魔王城からも遠いしな」
「それでも、おばあちゃんに顔を見せにわざわざ寄ってくれたんだろう? ダンテ坊やは優しいねぇ」
いちいち言葉にすんなよ、意地悪だな。
熱を持った顔を見られたくなくて、口元を手で覆って向きを変える。食器棚に並ぶ子ども用のカップの中にいくつか、名前が書いてあるものを見つけた。正面を向いていないせいで全部は見えないが、子どもらしい拙い字で書かれている。子どもを連れ帰るたびに増えて、全部、大事に残しておくからこの家には食器棚だけで三台もある。
「シャーラ、クロエに俺の話しただろ」
「何のことだろうね。おばあちゃんさっぱりわからないよ」
「嘘吐け。俺の森の場所まで教えやがって」
「隠すことじゃないだろう? あたしの孫は可愛いからね。お前さんの癒しにもなろうさ」
やっぱり話してんじゃねえか。
「玄関を吹き飛ばすじゃじゃ馬だ」
「お前さんが本物か確かめたかったんだろうさ」
わかっていた。わかっていて、知らん顔していた。
「……時空魔法が使えるのは俺だけじゃない」
時間を操るのは神の奇蹟だ。人間には扱えない、魔族にも扱えない。神だけが扱えるはずの、奇跡の魔法。人間でなく、魔族でもない、化け物である俺だから使える魔法、その奇跡を。
「何を拗ねているんだろうねこの子は。ほら、クッキーお食べ」
自分が吹き飛ばした玄関を俺が魔法で修理する。時空魔法を行使する。多分、クロエの狙いはそれだけで、それしか策を用意しない程度には確信していた。
俺が誰で、クロエにとっての何なのか。
「クロエは、勇者にお礼が言いたかっただけなのさ」
ちらり、と扉の方へ視線を向けたシャーラにつられ、俺も視線だけそちらへ向ける。息を殺しても好奇心は隠せていない。フェルを寝かしつけた音で、俺の帰りを察したのだろう。クロエがこちらの話を盗み聞きしていた。
そっと息を吐き出して、観念する。
「……俺は、勇者じゃねえよ」
「知ってるとも。でもあの子にとって、お前さんは勇者なのさ」
「……どいつもこいつも、」
「救われた側に、救った側の事情なんて関係ないんだよ、ダンテ」
救ったつもりも、ないんだけどな。
旅の途中で出会った少女。名前もなくて、自分もなくて、伽藍洞だった。
最初から気づいていた。俺の森を訪ねてきたクロエを一目見て、本当はすぐに気がついた。だから招き入れた。
懐に入れた相手にはとことん甘い。嫌だと思うのは、こんな時。
「ダンテ、クロエの名前を覚えているかい? お前さんセンスはまったくなかったけど、今でもあの名前はあの子のお気に入りなんだよ」
「センスがないは黙っとけよ」
「ダサンテ」
黙っててくれよ、傷つくから。
「……イルコだろ」
ガタリ、と動揺が色濃く伝わる物音には、知らん顔した。
「とっさだったし、あの時は三日寝てなくて、眠かったんだよ」
「しゃんとしててもダサンテだよ、お前さんは」
「……そういうこと言うなよ」
傷つくんだってば。
「大事にしなくていいって、ちゃんと言ったんだけどな」
「初めてもらった宝物だよ? 大事にするさね」
『私、イラナイコだから』
言葉の意味も知らず、言われたまま自分の存在を否定する感情だけを理解した少女。在り方を強要されて、それを理解することもできずただ受け入れた。それが堪らなく嫌で、見ていられなくて。俺がしたのは救いではなく、自己満足だ。
人助けしたって俺が良い気分に浸るため。シャーラのところで元気に育ってくれれば、俺の善行の証明になる。寝覚めが悪い。言い訳だけならいくらでもある。言い訳しなければ人助けもできない、弱虫な俺の偽善。
「何であんなに懐いたんだか。記憶は美化されるもんだろう? くたびれたおっさんになってんだから、幻滅すればいいものを」
「内面で人を判断できる。あたしの育て方がよかったのさね」
たくさん食べて、しっかり眠って、そうして元気になったらたくさん遊んで。笑って喜んで時には泣いて。体と心、両方を整えて幸せを胸いっぱいに詰め込んでくれる。
「……ばあちゃんの教育の素晴らしさは知ってるけどな」
俺は、俺の内面がそれほど良いものだとは思ってない。他者評価と自己評価にズレがあるから、言葉を尽くされても実感できない。
「お前さんの悪い癖だね、ダンテ。褒められたり好かれたりした時は、素直に受け取るものだよ」
「昔から、そればっかりは学ばなくてな」
昔から、俺は俺を嫌っている。好きだと思ったことは、一度もない。