04
家中に俺の悲鳴が響き渡る。これで何度目だ。
十年振りに取り戻した力は現在、俺を大いに困らせている。
「ダンテ、またテーブル壊した」
「すんません」
まず、力加減を忘れた。スプーンを持てばへし折り、椅子を引けば壊し、フライパンはひしゃげた。キリがない。そんな俺にすっかり怯えて、フェルは壁に背をつけ限界まで距離をとっている。うっかり触れようものなら潰されると思っているらしい。……否定できない。
そして、魔法の加減も忘れた。修理のために使った時空魔法で、木製の椅子が樹に戻った時はちょっと泣いた。水やりのために使った水魔法では畑を水没させ、卵を焼こうと使った火魔法では家まで焼いた。
昨日はちゃんと加減ができたのに、一晩ぐっすり眠ったら魂が定着して針が振り切れたらしい。
「ダンテ、危ない」
「ぎゃっぎゃっぎゃ! だらしねえぞ、ダンテ」
真っ先に玉を壊したセツは全く困った様子もなく、元気いっぱい絶好調だというのに。……ズルいぞ、お前だけ。主人がこんなにも困っているというのに。
「やばい、これはやばい。フェル、俺は今からちょっと気持ち悪いことをする。目を瞑って耳も塞いでろ」
魔王討伐どころじゃない。
首を傾げたフェルはしかし、俺の言う通り目を瞑って耳を塞いだ。わからない時は指示通りに、と教育したのは俺だ。素直に育ってくれて助かる。
力を手に入れたばかりの頃、同じように触れるものみなぶっ壊していた。当時の記憶頼みで何とか加減しようと試みているが、なにせ十年だ。薄ぼんやりして自力では無理。たかだか魂一つ、肉体に戻っただけでこうも変わるのだ。危険だとフェルが怒るのも頷ける。
回復魔法をぶっかけながら腹、へその少し上の辺りに手を突っ込む。やけっぱちだ。魂を鷲掴み、干渉する。強引に記憶の蓋をこじ開け、当時のことを実感として身に再現する。どういう仕組みなのか俺自身、いまいちわかっていない。昔馴染みが頭に手を突っ込んで掻き回していたことの応用、だと思う。おっかないから本当はしたくないのだが、しかたない。
……あー、思い出して……きた。ついでに思い出しそうになったあれこれは爪弾いて、必要な記憶だけ引っ張り出す。――よし、思い出した。
手を引き抜く。腹は何事もなかったように塞がった。我ながら気持ち悪い。
「フェル、もういいぞ」
「ダンテ、何した?」
「んー……ちょっと、力加減を思い出してた」
魔力を練り、壊れたテーブルの時間を巻き戻す。早く、正確に。新品の頃まで巻き戻ったテーブルを見て、フェルが思わずといった風に拍手した。
「ダンテすごい! もう大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんと思い出したから、もういつものダンテさんだぞ~」
破壊した諸々をまとめて巻き戻す。卵は昼に焼き直そう、と割る前まで戻した。水没させた畑と、卵の回収の際に壊した鶏小屋は後回し。
「すごい、ダンテすごい!」
無邪気にはしゃぐフェルの隣で、なぜかセツが偉そうに胸を張った。
「ダンテは昔からすごかったんだぜ。知らなかったのか、ガキんちょ」
「むぅ……フェルだってちょっと知ってる!」
「ちょっとかよ。ぎゃぎゃ! ダメダメだな、ガキんちょ」
ムッとしたフェルがセツに掴みかかるのを、すんでのところで制止する。
「こらこら、ガキ共。喧嘩すんな」
今のセツと喧嘩すると、フェルでも怪我をしかねない。
フェルは胴に回した俺の腕を噛んで不満を示し、セツは嘴を掴む俺の腕を三本足で引っ掻いて不満を示している。
「セツ、お前はみんなに魔王討伐に行くって連絡してこい」
嘴を放してやる。同じく下ろしてやったフェルをちらりと見て、セツはふふん、と誇らしげに顎をあげた。
「とっくに連絡したんだな、これが。俺様ってば超優秀だろ、ダンテ。褒めていいぜ」
「へぇ、偉いじゃん」
「ぎゃぎゃ! だろう? 俺様ってば超偉いんだ」
舞い上がったセツの羽ばたきが止み、双肩がずしり、と重くなる。仮にも主人の肩に着地すんなよ。重い。おまけに三本目の足はこともあろうに人の後頭部を踏みつけている。
「ダンテ、偉い俺様にもっともっと感謝していいんだぜ」
「偉いっつうか、態度の悪さは世界一だよ。口も悪いし。昔みたいにお上品に話せよ」
「うるせえやい! お前のせいでこうなったんだろ。責任とって罵倒されとけよ」
「仮にもご主人様を罵倒すんなよ」
ぎゃあぎゃあ、とわざと喧しく鳴くセツの嘴を再び掴んで黙らせる。
「セツ、おしゃべりするなら報告しろ」
ゆっくり名を呼ぶと途端に大人しくなる。口も態度も悪い奴だが、なんでも俺に名前を呼ばれるのは好きらしい。ゆっくりはっきり呼んでやれば効果はてきめんに表れる。
「みんな殺気立ってるぞ、ダンテ。姫ちゃんなんてダンテ連れて来いって眷属を食べてる」
食うなよ、大事な戦力だぞ。
「太っちゃうって嘆いてるのに食うのやめねえんだぜ。雌ってわかんねえな、ダンテ」
雌とか雄とか関係なしにわかんねえよ。楽しげに弾むセツの声とは裏腹に、俺の気分はどんどん沈む。
「魔樹たちも気合入ってるぞ、ダンテ。でもあいつら年寄りだからな、のろのろだ」
「あいつらは森を迷宮化させるためにいるんだから、のろのろでもいいんだよ」
常に動き回る魔樹は、侵入者を惑わせ迷わせ狂わせる。それに、実った果実に毒を含ませる程度の力もある。俊敏さがなくともあいつらは十分に戦えるのだ。
「そうだ、ダンテ。東の湖で彼女が泣いてたぞ。ダンテに会いたいって」
「……これまで平気だったろ」
「ダンテが制限を解いて魔力が満ち満ちてるんだぜ? 懐かしくなっちゃったんだろ」
魔族の起源は魔素と瘴気だといわれている。魔力の源であり生命の源である魔素と、世界の澱みであり穢れである瘴気が融合して誕生したのが魔族の始まり。
魔族は魔力の満ちた場所、魔素の濃い場所を好む。魔素の密度が高い場所では食事が要らないほど、調子がいいのだという。森には俺の魔力と瘴気が満ちている。魔族である住人たちが本来の食事をしなくても生きていけるように。どいつもこいつも肉食で大食らい、好物は人間なんて奴ばっかりなのだ。もちろん他の肉でもいいが、食事をさせると足りなくて共食いする。
無理してでも俺の魔力で森を満たしてやると、食事量はうんと減るし、食べなくても済む奴も多い。魂に制限をかけていた分、森の魔力は薄くなっていたから、久し振りに腹いっぱいになってご機嫌なんだろう。
「懐かしく、ねえ……」
「会いに行くのか? また溺愛されるぞ」
「お前も来るか? ついでに抱きしめてもらえるかもしんねえぞ」
途端、セツが悲鳴をあげた。
「お前と一緒にすんなよダンテ。俺様ってばあれに抱きしめられたら死んじゃうぜ。俺様が死んだら寂しいだろダンテ」
「セツ、俺だってあいつに抱きしめられたら死んじゃうんだぜ?」
「今のダンテはそれくらいじゃ死なないんだから、ちゃんと会いに行ってやれよ。母ちゃんなんだろ」
「そりゃあいつの自称だよ」
「母ちゃんいっぱいでよかったな、ダンテ」
「よかねえよ、全部自称だよ」
主従の関係であるはずなのに、森に住む連中はどいつもこいつも俺の母親だの祖母だのと名乗りをあげて覇権争いだ。頼りになるし、実際に頼ってはいるのだが、母親というのは違うだろう。
「ぎゃっぎゃっぎゃ! まあ、頑張れよダンテ。せいぜいたくさん小遣いもらえよ」
「……そうだな」
不貞腐れた子どものように口を尖らす俺を見て、セツが笑う。
「フェル、今日はちょっと遠くまで散歩行くけど、お前もく、る……?」
下向けた視線の先ではフェルがうつむいて、唇を噛みしめて、服の裾を握りしめ立っていた。
「フェル? フェルさーん?」
顔を見ようとしゃがんだ俺を拒絶するように背を向け、触れようと伸ばした手は弾かれた。
「散歩行かない!」
「あ、そう? じゃあセツと留守番――」
「嫌! フェル一人で留守番できる!」
怒っているのとは違う。悲しんでいるとも違う。初めて見るようなフェルの態度を、俺は持て余した。どう対応していいかわからなくて、目を逸らす。
「じゃあ、良い子で留守番してくれるフェルのために、昼飯は魚を焼こうな」
「焼き鳥」
「……セツを食われると俺が困っちゃうんで、諦めて。トマト、俺の分もやるから」
「……わかった」
助かるよ、と頭を撫でるべく伸ばした手はやんわりと拒絶され、結局、顔を見ることは叶わぬまま、フェルは領地へ引っ込んだ。
「……どうしたってんだよ」
独り言ちる俺の後頭部を、セツがぐいぐい、と踏みしめる。
「わかってねえな、ダンテ。ダメダメだ」
「ま、俺はダメダメなおっさんだけどよ。何でお前は訳知り顔なんだよ」
「俺様ってば超すごいから」
「あ、そう」
林檎の樹からもらった林檎の残りが入ったカゴを、領地の前に置く。
「フェル、散歩行ってくるな。朝飯は悪いけど林檎で許して。昼飯で挽回するから」
返事はない。どんなに怒っても、いってらっしゃい、だけは言ってくれるあのフェルが、反応すらしてくれない。
「ぎゃぎゃ、寂しいのか? ダンテ」
「うるせえやい」
寂しい。
誤魔化すようにわざと大袈裟に体を揺らして立ち上がる。ぎゃっ、と悲鳴をあげたセツの嘴が、揺れた拍子に顔面にぶつかった。
「危ねえだろ、ダンテ!」
「折れなくて良かったな、嘴」
悪びれず歩を進め、家を出る。畑と鶏小屋をささっと修復して、家の裏手に回る。
「セツ、魔王のことを調べろ」
大きめの木箱が一つ置いてあり、中には俺が昔、使っていた装備品なんかがまとめて投げ込んである。
「ぎゃっぎゃっぎゃ! 任せろ、ダンテ。でも俺様のことちゃんと守らねえと、女神様に見つかっちゃうかもしれねえぞ」
「この俺がそんなこと許すわけねえだろ」
箱を引っくり返して中身をぶちまける。
「捨ててなかったんだな、ダンテ」
「……ここに隠して、そのまま忘れてたんだよ」
勇者と呼ばれていた頃の残滓。魔力探知を阻害する指輪、防具などなど様々な装備がごちゃごちゃと地面に転がる。なぜか紛失している物がいくつかあるが、まあいいだろう。指輪を回収する。
「……おい、ダンテ。さすがにそいつはそばに置いとけよ」
セツが翼で指し示す先、無造作に転がるそれは、聖剣。
尊き希望を叶える剣。
湖の乙女が鍛え女神が祝福した、決して折れず刃毀れすることもなく、あらゆるものを断ち切る光の聖剣が、砂にまみれていた。
「大事な剣じゃねえのか?」
長年、所有者に放置された剣は光を失い、刀身が半透明になっている。
「……フェルの目に届かないところに置いておこうと隠して、そのまま忘れてたんだよ」
忘れていたかった。思い出すきっかけなど、視界に入れたくなかった。
「それ、どうするんだ? 抜き身のままはやべえだろ」
「わかってるよ」
聖剣を拾い上げ砂を掃う。清潔ではないだろうが、まあ俺の腹は鈍感だ。大丈夫、大丈夫。
迷いを振り払うように頭を振って一思いに、切っ先から――聖剣を丸呑みした。
「ぎゃぎゃ!? ダンテそういうのは前置きしろよ! うへぇ……」
実体のある剣ではあれど、これは高純度で練られた魔法の塊だ。しかも所有権は俺に移っている。呑み込んだところで、俺の体内がどうこうなったりはしない……多分。
「便利だよな、この剣」
「ダンテでなきゃ不便しかねえんだぜ」
「いいんだよ俺の剣なんだから」
ふぅん、と気のない返事をして、セツは気を取り直すように殊更に明るい声を出した。
「ダンテ、ダンテ! どうせ魔王をぶっ殺しに行くなら、寄り道しろよ。情報収集ついでに俺様が伝言してやっとくからよ」
「ンな悠長な……」
「いいじゃねえか。どうせ魔王の偽物だ、ダンテの敵じゃねえんだろ?」
女神の言葉はお世辞じゃない。確かに今の俺なら、かつての魔王だって難なく斬れるだろう。――強くなり過ぎた。
人間の領域を超え、魔族の領域すら踏み外し。
化け物、とはよく言ったものだ。
「フェルが寄り道を許したら、会いに行くよ」
「照れんなよ、ダンテ。せっかく外に出るんだ、友達に会いたいと思うのは普通だ、普通」
「照れてねえよ!」
セツの足をもぐ。二羽になったセツが揶揄うように笑った。
「一応だぞ、一応。確定で伝言すんなよ!」
「わかってるよ、ダンテ。ちゃんと会いたいって伝えてやるぞ」
どんなにもいでもセツに痛みはない。笑声が重なるばかりでちっとも大人しくならないのが腹立たしくて、余計にもいだ。それすらも揶揄って、セツたちは俺の周囲をぐるぐると飛ぶ。
「じゃあ、行ってくるぜダンテ。と、言っても俺様の本体は残るけどな!」
幾重にも重なった声が耳に痛い。
女神に探知されないよう、誰にも存在を知られないよう、セツの魂に幾重にも結界を張り巡らせる。
「いいから、さっさと行け」
魔力を練る。森の結界を害さないよう、慎重に、慎重に。かざした手の先にある空間が歪み、薄闇が渦巻く。転移門の構築は久し振りだが、うまくいった。森の外、遥か上空に出口を繋げる。魂を解放するだけでこうも簡単に森から出してやれるとは。つくづくでたらめな制限を課したものだと我ながら呆れ果てる。
「気をつけろよ」
「ダンテが守ってくれるんだから、俺様ってば世界一安心安全な旅なんだぜ」
ぎゃっぎゃ、と笑い声を重ね、セツたちは転移していった。すぐさま本体に声をかける。
「何かわかったらすぐ知らせろ」
「もちろん」
「迷子になるなよ」
「ダンテは俺様を何だと思ってんだよ! 俺様ってば案内役としては世界一なんだからな! 待ってろよ魔王城なんてすぐだかんな!」
ぎゃあぎゃあ、と喚いて、セツが舞い上がった。怒ってどこかへ行くのかと思ったが、すぐ戻ってきた。
「ダンテ、お客だぞ。魔女だ。クロエ、クロエ! 森の入り口に突っ立ってる」
ぐっと瞑目する。今日は構ってやる余裕がない。
「セツ、俺の代わりに魚を獲ってこい」
言うなりもう一回セツをもぐ。本体は家に残し、フェルの護衛だ。
「魚って、彼女のとこか!? 嫌だよダンテ、死んじゃうよ!」
「フェルの昼飯が遅くなるだろ。お前だけが頼りなんだ、セツ」
「ぎ、ぎぎ……ズルいぞ、ダンテ。帰ってきたら俺様のこと褒めろよ! 今日は一緒に寝るって約束しろ、ダンテ!」
「わかった。抱きしめて寝てやるよ、セツ」
約束だぞ、と声を張り上げ、セツは高く舞い上がった。
指輪をはめる。これで、俺のバカみたいな魔力に中てられて吐く被害者を出さずに済む。
「さて、と……」
クロエを迎えに行くべく、俺は森の入り口までちょっと本気出して走った。
◇
森の入り口、立ち入り禁止の立て札のそばで、クロエはしゃがみこんでいた。
「よお、クロエ」
「ダンテ……」
顔を上げたクロエと視線が交錯する。その双眸にいつもの輝きはなく、どこか落ち込んでいるように見えた。
「どうした? そんなとこにうずくまって」
領内に踏み込んでくれないと、手を差し伸べてやることもできない。さすがに俺自身を森の外に出すのは、セツの時ほど容易じゃない。俺が森の外に出るための準備はまだ、整っていないのだ。
返事をしないクロエに、他愛のない話を振る。少しでも気が紛れてくれればいいのだが。
「今日の昼飯は魚なんだけど、クロエも一緒に食うか?」
「ダンテ……」
やはり言葉は続かない。……どうしよう、困った。
「クロエ、クロエさーん? お前がそんな顔してると、おっさん寂しいんだけど。距離も遠いし」
瞬くクロエの瞳から、大粒の涙がぼろぼろあふれた。
「ダンテ、ごめんね。ごめんなさい」
「今日はまだ玄関吹き飛ばしてねぇだろ。謝罪の前払いか?」
「魔王のこと、お願いしに来たの」
ごめんなさい、と涙をこぼすクロエに瞑目する。
どうして、と浮かんだ疑問はしかし、わかりきっていることだと気づいた。クロエは国家魔導士だ。そして俺の森に立ち入れる、唯一の人間。あの王様が見逃すはずがない。馬車から降りず残った一人はクロエだったのだろう。
俺が拒絶した時の保険としてクロエを選ぶとは、胸糞悪いことを思いつくものだ。
「なるほど確かに、お前の説得なら頷いたかもしれねえな」
「ごめん、ごめんなさい……。ダンテは嫌だって言ってたのに……ごめん、」
「説得に失敗したら、王様は俺をどうするってお前を脅した?」
「……聖剣だけでも取り返すって、そのためなら……森を、その、」
取り返す、か。森だけでなく、聖剣も盗んだことになっているらしい。
あの女神のことだから、聖剣が俺と共に在ることなんて伝えていないだろう。女神が望んだ勇者を、どんなに切羽詰まっていても人間が殺すはずがない。そんな甘ったれた前向きさで、俺が頷くのを待っているに違いない。あんまり頭良くないんだよな、あの女神……。
「森に火でもつけるって?」
返事はなかったが、否定もなかった。
「火をつけたくらいでこの森が燃えると思われてるなんて、揃いも揃って俺のこと舐めすぎだろ」
「ダンテ……?」
親しい人間に頭を下げさせる。俺に言うこと聞かせるのに、これ以上に効果を発揮する手はない。懐に入れた相手にはとことん甘いという、俺の性格をよくわかっている。
けれど俺のことをちっともわかっていない。
「クロエ、気にすんな」
俺が、フェルのために、俺の決定で魔王を斬る。
外野の思惑なんて知ったこっちゃねえと思っていたが、クロエを泣かせたとあれば事情も変わる。じじいも王も女神も関係ない。国も世界もどうでもいい。懐から弾き出した相手には、とことん無慈悲でいられるのだ俺は。
かつて、魔王を討伐した俺が何をしたのか。忘れたというなら思い出させてやろう。
「クロエ、ばっちり説得しましたってちゃんと報告するんだぞ」
「え……それって」
涙が止まったことに安堵し、ホッと息を吐く。
「魔王は斬る。じじいのお願いも王の命令も女神の頼みも聞かねえけど、フェルのおねだりなら叶えてやるさ」
お前の我儘もな、と付け加えると、クロエは瞬く間に茹で上がった。
「い、良いの? だって勇者じゃないって、ダンテ……」
「勇者じゃなくたって魔王くらい殺せる」
聖剣だって、必要不可欠というわけではない。手っ取り早い、それだけだ。魔王を殺す、それだけなら。
「き、筋肉痛は? 遅れてくるんでしょ?」
そんなに混乱するようなことは言っていないつもりだが、クロエはおろおろ落ち着きがない。なにやら的外れなことを言い出した。筋肉痛の遅れに年齢は関係ねえよ、適当だよ。
「……こないだはおじさんじゃないって言ってくれたじゃん。何でそんなこと言うんだ?」
「え、違うあの、ダンテ! ……ありがとう」
耳まで真っ赤になったクロエの声はもう、聞き取るのがやっと、というか細さだ。
「どういたしまして。じゃあ、そういうことだから。お前は早く宮廷に戻って報告してこい。俺も準備があって忙しい」
「ま、待って。フェル様は? 私、ダンテが帰ってくるまでフェル様とお留守番してるよ?」
「フェルも連れて行くから心配いらねえよ」
何気なく口走った言葉に、クロエが愕然と立ち竦んだ。
「嘘でしょ? フェル様はまだ子どもだよ? 魔王討伐なんて危険な旅に連れて行くなんて」
有り得ない、となぜか頭を抱えている。
失敗したなあ……。魔王討伐に行くのは、あくまでもフェルを安心させるためだ。フェルのおかげで昨晩はぐっすり眠れたし、今の俺は一晩しっかり眠れば一週間くらいは不眠不休で問題ない。
魔王は斬るが、切迫してはいない。セツの言葉に同意するわけではないが、寄り道だって構わないかな、くらいには肩の力を抜いている。かつてとは大違い。ものすごく低い志で、フェルのため、その一点で魔王討伐に臨むのだ。
ぶつぶつぶつ、と何かしら悩んでいたらしいクロエがキッと顔を上げた。
「ダンテ!」
「ん~?」
「私も行くわ!」
「却下」
「何でよ!?」
「どういう思考で行き着いた結論だ、それ」
びっくりした。何を、覚悟を決めました、みたいな顔してんだこの娘は。
「だ、だってやっぱりフェル様を連れて行くのは危ない! 私お利口さんだし、強いからフェル様を守るくらいのことはできるよ?」
「国のために使ってやれよ、それ」
「だ、ダメよ! 困ってる人を助けるために鍛えた力だもの!」
困ってない。今、魔王を名乗っている奴が俺の脅威になるとは思えないし、斬るべき相手ならサクッと討伐する気満々だ。
俺の顔を見たクロエが羞恥以外の理由でまた真っ赤になった。
「ぽかんとしないで! 私だってダンテの助けになれるんだから!」
「でもなぁ、国家魔導士をそう簡単に連れ出せねえよ。俺の扱い聞いたろ」
先王がどうしているのかは知らんが、今の王は俺を英雄だとは思ってない。元勇者、現大罪人だ。国家の貴重な人材をぽんぽんあてがうわけにもいかないだろう。
「大丈夫よ。ダンテの監視役を申し出るわ」
「新米のお前にその重役は無理だろ」
「じゃあどうすればいいのよ!」
感情が暴走しているのか、クロエはぷんすか怒りだした。
「私はもうか弱い女の子じゃない! 誰かを守れる力を持った大人よ!」
それは知ってる。魔法への耐性がえらく高いし、潜在魔力も豊富だ。けれど、それとこれとは話が違う。
「せっかく頑張って国家魔導士になったんだろ。無駄にするなよ」
国家魔導士という肩書きはそれだけで他人から信用を得られる。誰にも後ろ指をさされない、真っ当な人生を歩める仕事だ。食うに困ることはなく、将来だって安泰だ。安心して生きていける。
俺と仲良くしているなんて、それだけで立場を危ぶまれるとわかっただろうに。優しさのせいで自分を損なうことはないのだ。
「他人よりまず、自分を守ってやれ」
でないと、俺みたいになる。
「違うもん。ダンテは他人じゃないもん」
クロエの目からまたぼろぼろと大粒の涙があふれる。照れたり怒ったり泣いたり、忙しい奴だ。
「私にも、ダンテを心配させてよ」
懐に入れた相手にはとことん甘い。自分の性格を嫌だと思うのはこんな時だ。
断るべきだとわかっているのに、俺のそばにいた方が安全かも、なんて首をもたげる気持ちが邪魔をする。嫌だと駄々をこねるのはひとえに、臆病な俺の感情の問題だ。
「……クロエはお利口さんだしスペース取らないし、良い子にできるもんな」
ぴたりと涙が止まった。
そばに置いておかないと、今度は人質にされるかもしれない。言い訳として妥当なのを思いついてしまったらもう、断れない。
「連れて行くから、帰ってきた時ちゃんと職場復帰できる言い訳を思いつけよ」
「うん、考える、一生懸命考える」
「じゃあ涙を拭いて、今日は帰れ」
「うん、明日また来る」
ローブの袖口で乱暴に涙を拭いて、絶対に明日また来るから先に出発しないでね、と散々念を押して、クロエは騒がしく帰って行った。
どうしてこうも懐いてしまったのか。堪らず溜め息が漏れる。
あまり俺を、好いてくれるな。