01
魔王が現れた、そんなはずない。だって魔王は、俺が斬った。俺がこの手で、角を折って胴を絶って心臓を潰した。消滅する様をこの目で見届けたんだ。
「魔王は俺が、殺した」
「わかっとる。お前が討った魔王とは別物じゃ」
「ありえない。魔王の器がそうそういて堪るか。魔王のことはちゃんと殺し尽くしたんだ」
一滴残らず、間違いなく、全部、殺した。
「じゃが事実、魔王は現れ魔王軍は侵攻を始めておる」
まだたった十年だ。俺が魔王を殺して、まだ十年しか経っていない。早過ぎる。
「くそったれ女神はなんて言ってる」
「聖剣を持つお前に、再び魔王を討ってほしい、と」
怒りで目の前が真っ赤になる。聖剣を持っている、ただそれだけで。
俺にまた悪夢の続きを見ろと言う。
「断っとけくそじじい。俺はこの森から出ない、そういう約束だろ」
俺が森の外に出ない代わりに、誰もこの森に入らない。そういう約束だ。
「言うとる場合か! 世界の危機じゃぞ」
「俺の世界じゃない」
俺の世界はこの森だ。この森だけが、俺の守るべき世界。その他の世界なんて知ったことか。
大体、誰も入らないという約束を反故にして図々しくも中に入ってきているくせに、よく俺にお願いなんてできるものだ。呆れ果てる。俺に森への立ち入り許可を求めること自体が間違いだと、気づいてもくれないくせに。
立ち上がって膝を伸ばす。
「この森に侵入しようとしたら、その時は魔王でも神でもぶっ殺してやるよ」
せいぜい頑張ってくれ。大丈夫、俺一人でも殺せたんだ。国総出で挑めばなんとかなるさ。もしなんとかならなかったらその時は、人間の歴史はここまでだったと諦めて、潔く死ね。大丈夫、一人じゃないんだ。寂しくないだろ……俺と違って。
笑顔で見捨てる俺に何を思ったかじじいは青褪め、そして地に膝をついた。
「ダンテ……頼む、お前しかおらんのじゃ」
それは、いつか見た光景。
地に伏せ頭を下げるその姿は、以前にも見たことがある。女神が俺を勇者に選んだ日、村中の人間を引き連れて、教会からは神官まで出張ってきて、同じように頭を下げて頼んできた。奇しくもセリフまで同じとは、笑えない。
あれは俺の、悪夢の始まりだ。
「帰れくそじじい、これ以上はあんたでも斬るぞ」
「……ならばせめて、聖剣を女神様に返してくれまいか。さすれば新たな勇者の導きが得られるやもしれん」
「帰れ!」
声を荒げた俺に驚いたのか、びくり、と肩を震わせたじじいが顔を上げた。その顔に浮かぶのは、恐怖。魔王、と口にする時と同じ、恐怖の表情だった。
「あれは俺の物だ。所有権は、俺にある」
魔王を倒した暁に叶えてもらえるたった一つの願い。俺の願いは、聖剣を俺の所有物とすること。俺以外の誰にも扱えず、俺が死ぬと同時に滅ぶ。破れば女神が消滅する、根源の誓いをもって叶えられた、絶対の願いだ。
「俺が自ら差し出せば無効だとでも言われたか?」
「……」
返事をしない、ということが何よりの肯定だ。ふざけんな。
「帰れじじい」
「ダンテ……」
縋るような声に何か返すのは諦めて、俺はじじいに背を向けた。烏を呼び、五分待って帰らなければ食っていい、と告げると、さすがに命を惜しんだか、怯えたように帰って行った。
――疲れた。
フェルを起こさないと、とぼんやり考えながら家の中に入って、
「うおっ!?」
声を出さずにぼろぼろと大粒の涙を流すクロエに驚いて変な声が出た。そういえばいたんだった。忘れてた。
「え、何どうした? クロエ?」
声をかけると、ひくっ、と一度喉を鳴らして、クロエはわんわん泣きだした。
「ダンデぇええ……ぐす、だんて……」
嗚咽が強烈過ぎて何を言ってるのかさっぱりわからん。
とりあえず落ち着かせようと椅子に座らせ、家で一番大きいタオルを渡す。クロエが涙を拭いたり鼻をかんだりしている隙に、ミルクを温めこれでもかと蜜をたっぷり入れてやる。
「飲めよ、甘いぞ」
カップの方はなかなか受け取らない。握りしめたタオルに顔を伏せ、おいおい泣いている。
「クロエ、そんなに泣いたら枯れちゃうから。おじさん心配だから。良い子だからホットミルク飲んでくれよ、な?」
「ダンデばおじざんじゃないもん」
「いや、おじさんだよ。何でそこだけ返事すんのお前」
濁音まみれの返事にびっくりして、うっかり素で返してしまった。わーん、とクロエがまた声をあげて泣き出した。
「あーはいはい、おじさんが……ダンテが悪かった。ごめんな、クロエ。なあ、何で泣いてるのかくらい教えてくれよ」
背中をさすり、大丈夫大丈夫、と声をかける。
「言いつけ守って喋らず騒がず物音立てずにいてくれたな。ありがとな、クロエ。おじさ……ダンテ助かったぞ」
自分を名前で呼ぶ恥ずかしさなど、泣いている女を慰めるためなら平気だ。俺は羞恥心に負けるような男じゃない。
「泣いてるのに声出すの我慢したんだよな、ダン……俺が頼んだから。偉かったなあ、クロエ」
極まった羞恥心で一人称を思い出した。
「ダンデェ……」
「どうした、クロエ」
「ボッドミルグ飲む」
「おう、飲め飲め。甘くて美味いぞ」
クロエは受け取ったホットミルクを一息で飲み干し、泣き腫らして真っ赤になった目で俺を見上げた。
「……ダンテは勇者だったの?」
「いいや、俺は勇者なんてやったことない」
「でも、さっきおじいさんが言ってたじゃない」
「言ってるだけさ」
「じ、じゃあ聖剣は?」
「あるよ、聖剣。でも俺は、勇者だったことなんて一度もない」
わかんない、と寂しそうに目を伏せたクロエの頭を撫でる。
「ややこしい話なんだよ」
「わかりたい」
「気持ちだけもらっとくよ」
「私もう大人よ」
「うん、だからじじいとの話こっそり聞かせてやったろ」
子どもだったら力ずくでも追い出した。伝わったのだろう、クロエは拗ねたように眉根を寄せた。
「暗くなる前に帰れ。夜の森は危ねえから」
「ここはダンテの森でしょ。だったら危ないことなんてないわ」
信頼してくれちゃってまあ……。
どう言ったものかと悩む気持ちを笑んで誤魔化すと、それすら気づいてクロエはますます拗ねてしまった。ぷい、とそっぽを向いてしまう。
「でも今日は、帰る」
気を遣ってくれたのか、あるいは拗ねるなど子どもっぽいと思ったのか。クロエはすぐに立ち上がった。
「気をつけてな」
せっかくの気遣いだと努めて明るい声を出すが、振り返ったクロエはなぜかムッとしていた。
「また来るから! 今度はさくらんぼ持ってくるから!」
「おじさん、卵がいいなあ」
「フェル様への貢物だからダメ! それに卵なんて、可愛くないでしょ!」
何にもわかってない! と最後はなにやらぷんすか怒って、クロエは騒がしく帰って行った。帰る時はちゃんと扉を開けて出て行くのに、どうして入る時は壊すのだろう。
「さあて、と」
今度こそフェル坊を起こすか、と空になったカップをちゃちゃっと洗って、領地に踏み込む。布をめくると、フェルは苺の入っていたカゴを被って寝息を立てていた。
「フェル、起きろ」
肩に触れると、ふがっ、と鼻を鳴らしてとろとろ瞼が持ち上がった。
「おはようさん、フェル。終わったぞ」
「苺の匂い……ダンテ、おやつ」
「おやつならカゴいっぱい食ったろ。匂いまで余さず愉しんどいて、強欲が過ぎるぞお前」
俺はこんなにも空腹を覚えているというのに。
「おやつ終わった?」
「少なくともお前のおやつは終わりだよ」
「じゃあ夕ご飯」
「それはまだ早ぇよ」
食い意地の張った奴だ。
「今日はこれから散歩に行くぞ。食ってすぐ寝たから、ちょっと運動しろ」
「剣は?」
「散歩しながらな」
魔王のことを、話さなければ。魔王の話を、伝えなくては。焦るばかりで口からは違うことばかりが滑り出て行く。
我ながら根性なしだとがっかりするが、ないものはない。
「ほら行くぞ、フェル。寝惚けてっと、まぁた林檎の樹に食われるぞ」
俺の森に住む木々は、半分が魔樹だ。好きな時に動き回る根の足があり、獲物を捕らえる枝の腕があり、幹には顔もあれば話もできる。大半が年寄りだが、幼いフェルをからかって遊ぶくらいの力はある。
前に頭からぱっくりいかれたのがよほど恐ろしかったのか、フェルはたちまち飛び起き木製の剣を引っ掴んだ。
「その意気だ」
領地を出て、訓練用の木の枝を手に取る。それを見てフェルがムッとした。
「ダンテ、また剣じゃない」
「林檎の樹に勝てるようになったらな」
訓練といってもまだまだ児戯、枝で十分だ。
「負けても知らない」
「おーおー、その意気だ。頑張れー」
おちょくりながら家を出て、軽く準備運動する。フェルは気合十分で、いつもより丁寧に体を解している。始めたばかりの頃は面倒くさがっていたが、もうすっかり習慣として身についているようで微笑ましい。
「そろそろ行くぞ~」
背を向けた瞬間、死角から飛び込んできた影に破顔する。横薙ぎ一閃、迷わず顔面を狙うところも高評価だ。避けざまにフェルの体を放り投げる。しかしこの程度フェルは慣れっこだ。すぐさま体勢を立て直し向かってくる。
「元気だな~フェル坊」
不意打ち、フェイント、カウンター。腕を上げたことににやける俺に腹を立てたのか、フェルの剣が重さを増す。それにもにやけつつ、打ち込まれる一撃をじゃんじゃん捌いてずんずん森を突き進んでいく。
しばらくすると、フェルの動きが悪くなる。疲れたのだろう。
フェルの足を払うように枝を振り、まんまとジャンプした体を回収して肩に担ぐ。
「ほい、今日の訓練おしまい。お疲れさん」
「負けた……」
「おう、次また頑張れ」
空を見上げる。ほんのり赤らんだ空が広がっていた。
「……なあフェル、俺もう腹減り過ぎておかしくなりそうなんだわ。林檎の樹から林檎もらって帰ろうぜ」
途端、フェルが怯えたように肩を揺らした。
可哀想な気もするが、魔樹たちには用がある。散歩は方便だ。
「フェルは食べられないように俺が抱えといてやるから」
「ま、まも……まも」
「守る守る。悪さしたら斬ってやるから」
「じゃあ、いいよ」
フェルの剣を受け取って、ちょっと本気だと示す。安堵して体から力を抜いたフェルに、微苦笑する。
「林檎は多めにもらって、アップルパ……」
――地鳴りのような音が迫ってくる。
何かが、走っている。俺たちに向かって、何かが全力で駆け寄ってきている。
「フェル、離れるか俺の背中にしがみつけ」
フェルが俺の背中側に這ったのと、木々の合間から音の原因が飛び出してきたのはほとんど同時だった。
「ダァアアンンンテェエエエエッッ!!」
樹だ。たわわに林檎を実らせた立派な樹が、全力疾走していた。思わず、げっ、と呻く。樹の後方で、烏が追い立てるように枝をつついているのが見えた。慌てて散らし、向かってくる樹を受け止めるべく両腕を広げ、フェルを包むように結界を張ってやる。
「よお、林檎。元気そうだな」
「それどころじゃな――っっっっ!!」
一切減速せず駆け寄った大樹を受け止める。ささくれ立った樹皮が頬を擦った。
背中にしがみつくフェルが驚嘆からか飛び上がるほど体をびくつかせ、俺の背に思い切り爪を立てた。
「ダンテ……ダンテ!? 烏が儂を啄むんじゃなぜだ林檎をやっても止まらん。助けろダンテ」
「もう助けたよ。烏はいなくなったから、離れてくれ」
根の足を限界まで曲げて俺の体に絡ませ、枝を限界までしならせ俺の顔に葉や林檎を擦りつける。枝の腕は俺の体を締めつけ、硬い樹皮が肌を削るように擦りつけられる。重いし煩わしいしなにより普通に痛い。
「本当か? 本当にもうおらんか?」
「いねえよ!」
じゃあ、と恐る恐る体を離すも、二本の枝が食い込むほど強く俺の肩を掴んでいる。だから痛ぇんだって。
「こ、怖かったぞ、ダンテ。儂を泣かすな」
「泣かねえだろ樹なんだから」
「樹液は出るぞ」
「……泣くなよ、ベタベタするから」
引き剥がそうにも限界までしならせた体はこれ以上の力を加えると折ってしまいそうで、俺はやむなくこのまま会話を継続する。
「烏には俺から言っとくから」
「約束じゃぞ」
「へーへー」
それより、と本題に入る。
「玉を出せ、玉。全部ちゃんと保管してんだろうな、お前。失くしてたら焼くぞ」
肌を焼くような緊張が走った。
玉の中には、森に住む連中の根源を削り取って閉じ込めている。玉がなければ住人たちは本来の力を十全に行使できない。森を管理するにあたって、フェルの生活圏に暴力を呼び込まないための制約。幼いフェルと遊び回れるだけの力があればいいから、と過剰分は全て削った。うっかりフェルが怪我をしないように、うっかり怪我をさせないように。
他にもいくつか、あちこちから削り取ったあれこれを閉じ込めてある。
「玉が必要とは、何があったのじゃ」
「警備体制の見直しだ」
声に出すとフェルにバレる。まだ魔王の話をする覚悟は決まってない。
背中側にいるのをいいことに、こっそり空に文字を書く。
『魔王再来、調査中。討伐依頼有り、拒絶中』
林檎が纏う空気に殺意を孕ませた。肌で感じたのか、フェルの爪が深く背に刺さる。
「厄介な客が増えるかもしれねえから、一応な」
侵攻を開始しているという魔王軍の目的は、ここだと考えて行動するべきだろう。ぞっとしない話だ。
ここで生活するために制限を設けあらゆる縛りを課して弱体化させている住人たち、幼いフェル、森を管理するために力のほとんどの注ぎ込む俺。戦力として心許なさ過ぎる。住人たちの制限を取っ払い、森への縛りを緩和させることで少しでも戦力を強化したい。
魔王軍がここまで侵攻してきた場合に、全員が無事に生き残るために。
「ふむ……まあこの森もここに住む儂らもお前さんのものじゃ。好きにせえ」
幹の中心にある顔の大きな口が裂け、がぱり、と開く。真っ暗な穴となったそこへ林檎が枝を突っ込み、中から袋を取り出した。差し出された袋を受け取って……受け取って、
「離せよ」
「頼みがあるのじゃが」
「何だよ」
「フェル様に儂のことを、その……」
もじもじ、と樹がぎこちなく体をくねらせる。さっきまで殺気を纏っていた魔樹とは思えない。台無しだ。
「そこはかとなく良い感じに言っといてやるよ」
「頼んだぞ」
袋を受け取って、ついでに良い出来だという林檎をいくつかもらう。
「フェル坊~林檎の樹が林檎くれたぞ~」
背に向かって声をかける。しばらく待っていると、こっそり窺うように顔半分だけのぞかせた。結界を解いてやる。
「フェル、林檎がこないだ食べてごめんねってさ。お前と遊びたかっただけなんだと」
「ほ、ほんと……?」
林檎が体全体で何度も頷く。その拍子に落ちた林檎もこっそり回収する。
「お詫びに林檎たくさんもらったぞ。許してやれよ」
「た、食べない?」
さっきより激しく林檎が頷く。その様子をじっと眺めて、フェルが不安げに俺を見る。大丈夫、という意味を込めて俺も頷いてやれば、フェルもおずおずと頷いた。
「じ、じゃあ許す」
林檎が眩しいほどの笑みを浮かべ小声で俺に耳打ちする。
「感謝するぞ、ダンテ」
「ああ、魔樹の管理は任せたぞ。何かあれば烏に言え。もう啄まねえから」
「安心せぇ。森の木々は儂が責任持って預かる」
ではな、と俺には簡潔に、フェルには枝が千切れんばかりに大きく振って、林檎はご機嫌で帰って行った。……しかし、じじ臭い言葉遣いのままだったな。
フェルの前でおじいちゃん言葉は恥ずかしいとか言って、たまに桃の樹や蜜柑の樹と一緒に子ども向け会話講習会とか開催しているらしいが、あの様子ではまったく実を結んでいないらしい。林檎はこんなに美味そうに実ってるのに。
「ま、いいか」
空腹を紛らわせようと林檎を一つ手に取って、しかし口に運ぶ途中で背から降りたフェルに睨まれた。
「何だよ」
「お行儀悪い」
「腹減ったんだよ。これだけ」
「駄目」
何で? お前のお上品基準どこにあるの? おじさんに教えて?
重ねた言葉の分だけフェルの機嫌は下降し、家に帰りつく頃には、ご機嫌取りにアップルパイを焼くことが決定事項になっていた。
◇
夕飯後、やっと満たされた腹をさすりながらそわそわする。
先延ばしにすればするほど、しんどい思いをするんだ。魔王の話をする。後のことは、後で考える。後で考える、後で考える後で考える。くつろぐフェルの顔を見られたのは、頭の中で百回は唱えた頃だった。
「フェル、大事な話だ」
腹が膨れてうとうとしていたフェルが顔を上げる。珍しく険しい顔をしているであろう俺を見てわずかに瞠目したフェルだったが、すぐさま背筋を伸ばし俺と視線を交わした。じっと俺の言葉を待つフェルに、俺の方が言いよどんだ。瞬きのフリをして目を閉じ、その時間で覚悟を決める。
「魔王が現れた」
フェルの双眸がわかりやすく揺れた。何か言いたげに口を開くが声は出ず、はくはくと呼吸ばかりが乱れる。
奪われた記憶も、喪った痛みも、まだ癒えていない。思い出させるには早過ぎた。
「フェル、ゆっくりでいい」
笑おうと思って、失敗した。泣き笑いのような顔になった俺を見て、フェルが小さく声をあげた。
「ま、魔王……魔王って……でも、」
「フェル、それについては俺が調べるから。……大丈夫」
気休めだ。たとえそうでも、フェルの気持ちがわずかでも休まるなら、何度だって言ってやる。
「だ、ダンテは……ダンテは……」
「フェルといる。どこにも行かない」
ダンテはどうする。ダンテはどう思う。
フェルが何を言おうとしたのか、俺にはわからない。けれど不安そうに瞳を濡らしたフェルに、最後まで問わせることは憚られた。
フェルは俺のことを知っている。俺が何をしたのか、俺がどうしてここにいるのか。全部知っている。
「ダンテ、どこにも……行かない?」
「行かない。フェルといる」
潤んだフェルの宝石のような瞳が溶けて、頬を伝った。
「見ないで」
「見てない。あー……魔眼は今ちょっと、調子が悪いんだ」
ぼろぼろと流れる涙は瞬きのたびにますますあふれ、それでもフェルは声をあげなかった。静かに、静かに泣いている。
こんな泣き方を覚えたのは俺のせいで。だから俺は、泣き止んでほしいと願うことも背を撫でて慰めてやることもできない。どうして泣いているのか。そんなことを聞く資格も、俺にはない。だから代わりに嘘を吐く。
「なあ、フェル。魔王が現れたなんて知っておっさんブルってんだ。今日は一人じゃ寝れないかも。トイレも、一人じゃちょっと無理かも」
だからフェルに手を伸ばす。俺が慰めてほしくて、俺が助けてほしいから。
「ダンテ、大人なのにダサい」
「おっさんはね、みんなダサいの」
同じように伸ばされた手に安堵して、小さな体を抱きしめる。フェルの手が俺の背を撫でるから、俺もお返しに撫でてやる。ズルくて卑怯で情けない、俺の偽善。
「ダンテ、フェルがいないとダメダメ」
「うん。トイレついてきてね。漏らしたらカッコ悪いから」
「漏らさなくてもダンテはカッコ悪い」
「それ、内緒にしといてほしかったなあ」
くだらない話をしながら、へらへら笑う。フェルが呆れて、うっかり涙を忘れるかもしれない、と。そんなちっぽけな罠を張る。
「ダンテ。フェルはダンテが嫌いだけど、大嫌いじゃない」
「そっかぁ……そりゃあ、嬉しいねえ」
大嫌いだ、とそう言って、いっそ殺してくれたら、と。そんな甘ったれたことを考えて、俺は自分にも嘘を吐く。――俺はフェルを、愛していない。