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先生

作者: 安納 はる

「また会おうね」


渋谷駅でホームドアが開いたとき彼がそう言ったから、私は反射的に頷いた。その途端に彼は、大勢の乗客のうちの1人になった。ついさっき、その瞬間まで、先生だったのに。


容赦なくホームに流れる人の波。そこに、さっきまで目の前にあった緑色のマフラーが見えた。その結び目はもうこっちを向いていない。車内は一気に空き、私は目の前の座席に腰を沈め、目を閉じた。





インクを薄めたような独特の匂いのする誰もいない授業後の教室で、一週間分の質問をする。それが私の習慣だった。数十分前まで遠くでチョークを持って私たち全員に語りかけていた先生が、ボールペンを持って目の前にきてくれる。先生と私だけの会話の時間。タバコと香水の混じった先生の匂い。遠くからじゃわかりようのない、大きく丸い爪。


先生にまた来週と言って教室を出る。もう塾の建物には数人しかいなくて、私は階段を駆け下り真夏の夜に飛び出す。


あああ、好きになる好きになる。真面目に生きてきた私にとって、突き上げる気持ちは衝撃的で、甘美で、罪悪だった。冷房を蓄積した身体を包む、もわんと立ち込める真夏。


駅まで歩きながら2人きりの数分間を丁寧に反芻した。質問の合間のちょっとした世間話とか、メディア業界に行きたい私のための進路のアドバイスとか。そしてその時の先生の笑顔、目尻、発音を聞かせて見せる時の、尖った舌。そういうのを一欠片も忘れないように、何年経っても思い出せるように、何回でも何回でも反芻した。




恋をした。


だから私は週一回のその習慣を、春が来るまで、時間が許すまで、しっかり楽しんでやろうと決めた。こんなに素敵な人にはもうこの先も出会わないって、心の底から思った。

授業後の時間だけが、憂鬱な受験生生活の楽しみだった。もっと色々聞かせて。先生が学生時代に留学をした国々、英単語を覚える時の裏技、先生が先生になった秘密の理由。

その薄い唇から出る言葉の一つひとつが、私には宝物だった。夢かもしれないなんてファンタジーなことを本気で思ったし、だから宝物が消える前に、焼印みたいに脳に何度も何度も押し込んだ。


半年も経てば、先生のおかげで私の英語力は十分になった。もう質問をするべき事はほとんどなくなった。それでも最後まで教室に残りつづけた。何でもない話をするための時間。先生についての情報。

先生は、朝ごはんはパンでもご飯でも絶対に味噌汁を飲む、好きなタバコの銘柄は「セブンスター」ってやつでニコチンが切れると「本当に情けないんだけどイライラしちゃう」、乗ってる車はトヨタの何ちゃらで、相模原市に住んでいる。高校時代は野球部だったんだけど二年生の秋に東京に転校になってからは帰宅部で、初恋はお母さんにそっくりな声をした幼稚園の先生で、塾の先生になると決めたのは「先生が君くらいだったとき」で。

で、そんな長年の夢が叶って今があるんだから、「夢は諦めなければ叶っていくんだ」ってこと。「だからメディア業界、諦めちゃダメだよ」と笑った先生の、その日のグレーのスーツ姿は、あまりに素敵だった。


そんな先生を前にした私には、憧れのメディア業界なんて何でもなかった。そんなものより。





「先生。私…」


この頃はもう、英語のテキストは出してすらいなかった。


「先生…?」


先生は、突っ立ってただ見上げるだけの私を見て口角をあげ、腰に手を回した。



初めての感触がした。







表参道駅のホームが遠ざかり、私は数年越しの先生の顔をまじまじと見る。


数年ぶりに会えたのに天野先生は、「元気?」「何の仕事してるの?」なんて普通の事ばっかり聞いてきて、私は「元気です」「まだ就活中ですよ」なんて普通の返事をした。4駅は、ひどく長かった。あんまり仲良くないサークルの先輩と2人きりになってしまった帰り道みたいに、長かった。


「じゃあ、先生渋谷で降りるから」


次は渋谷、というアナウンスを聞くや否や天野先生はそう言った。

その顔には、なんだか安堵の色が浮かんでいたし、私もおんなじようにホッとしていた。そんな自分に、びっくりした。




第一志望校の合格を告げに、塾へ行ったのが、最後の日だった。

私の合格を聞いた先生は、今までで一番嬉しそうに笑った。私はそれを見て、「会えるの最後なのに何で笑ってられるの」とちょっとムッとし、その後自分で自分に笑えてきた。何のための塾よ、これでいいのよ。切り開いた未来の景色を見て、私は少し大人だった。


「先生、寂しい」



2人きりの教室。

「泣くなよ、おめでとうでしょ」先生の目が光っていた。


最後の教室は、インクの匂いはしなかった。パンケーキみたいな甘い匂いがした。

必死でうなずく私の頭を撫でたおっきな手。また会えるから。先生は、そう言った。

思わず抱きついたら、あの日と同じ手が腰に触れた。

Yシャツの下から、先生の肌の匂いがした。



それで、塾を出た。


連絡先くらい聞けばよかった。次に会ったら、絶対にご飯の約束する。

過ぎていく時間が憎くて、駅前のロータリーのベンチでわんわんと泣いた春。ごわっとした使い古したブレザーの繊維で、まぶたがジンジンした。






車両が三軒茶屋のホームにつくと、籠った空気が入り込んでくる。がらんとした車両の中で、私は閉じていた目をあけた。


無意識にスマホを見る。そこには、先生が乗ってくる前まで見ていた、テレビ局の新卒募集要項が煌々と光っている。


「夢は諦めなければ叶っていくんだ」


ー先生の笑顔や2人きりの思い出は今となってはもうどうでも良くて、縋りたいような言葉だけが、今さっき聞いた懐かしい声で体中に響いていた。












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