一計
浴場、使いたくないな。
裸を見られること自体にも抵抗はあるけど、それ以上に自分のこの姿――女性用の下着を脱ぎ着するところ――を他人に見られるのがキツい。
一ヶ月前までの『私』を知っている人はいないし、仮に『私』を知っていても、今の私と結びつくはずがない。理屈では分かってるけど、抵抗感が半端無い。
今日はたまたま他のお客、じゃなくて患者さんがいなかったけど、明日もそうとは限らないし……。
私は一計を案じて、渚に電話をかけた。
「あのさ、赤ちゃんの命名辞典持ってきてくれないかな。自分の名前、決めなきゃいけないし」
「明日になるけど、いい? 急ぐんだったら、お義母さんに持って行ってもらうけど。お義母さん、小一時間ほどしたら出るって」
「じゃぁ、母さんに持たせといて。ついでに、最近の子どもの写真とかも持たせてよ。この間水遊びしたとき撮ったのとか。ずいぶん会ってないからさ」
実はこっちが本命。
沙耶香さんは男性としての私を知らないから、あんなに大胆なことが出来るに違いない。以前の姿を、加圧トレでバルクアップした上腕二頭筋や、絞るに絞って浮き出た外腹斜筋。この合成写真のような姿を見せれば、お風呂には二の足を踏むはずだ。
「あなた?」
なんか妻の声が怖い。
「女になったからって、早速、自分のセミヌードをオカズにする気かしら?」
「え? 無い無い! そんなこと考えてない!
ずっと子ども達の顔を見てないから、せめて写真だけでも……
って、『オカズ』?」
「冗談よ。あなたがそんな変態だなんて思ってないわ。で、本当は何に使うつもりなの?」
結局、私は事情を話した。浴場で若い女性と一緒ってのは、とにかく抵抗がある。
「ふーん。それで、洗ってもらった感想は?」
「……く、くすぐったいし、恥ずかしいだけだよ」
「気持ちよかった?」
「い、いや、全然」
「ほんとに?」
「……ちょっと、気持ちよかったかも」
「ちょっとかしら?」
「……いや、かなり」
「だったら、良いじゃない。早く退院するためには必要なことなんでしょ?
大丈夫、今回のはカウントに入れないから」
「カウントって、何のカウントだよ」
「何かしらね? あなたのあの事とか、私、知ってるのよ」
あの事ってなんだ? 身に覚えがない。いや、結婚前だったらいろいろあるけど、渚と一緒になってからは、カウントされるような事はしてない、はず。
「カウントされるような事って、身に覚えが無いんだけど」
「そうね。ちょっとした冗談。どう? 気分転換になった?」
「い、いや、全然」
女って恐ろしい。本当に後ろめたい事なんて無いのに、何でこんなに悪い汗をかくんだろう。後でシャワー浴びなきゃ。
「女らしい動作については、ぱっとアドバイスはできないけど、男性として客観的に女性を見てきてるんだから、自分が女形か女優になったつもりで演じてみたらどうかしら? あと、言葉遣いやイントネーションも、女優さんや声優さんを真似てみるとか。
でも、無理しない程度にがんばって、早く帰ってきてね。昨日も言ったけど、姿が変わっても、あなたはあなただから」
「うん。ありがとう」
それにしても、渚が『オカズ』なんて言葉を使う人だなんて思いもしなかった。いや、きっと私を元気づけるために、わざとあんな事言ったに違いない。ああは言ったけど、きっとアルバムも持たせてくれるはず。
シャワーを再度浴び、火照った身体を冷ますために下着のまま横になった。脚の方を見ると見慣れない――ささやかな――膨らみ。その向こうの下着は、骨格で三点が持ち上げられている。
こういうアングルや、パンツのゴムと腹の間の微妙な隙間、以前だったらエロく感じたんだろうけど、自分の躯だからか今ひとつ。……それもそうか。
私はある程度湯冷めするのを待って寝間着に替えた。
電話から二時間後、母が持ってきてくれたのは、命名辞典と子ども達だけの写真だった。
でも、この写真は癒される。
翌朝、食後の歯磨きと洗顔を終えると、沙耶香さんが来た。また訓練再開だ。
沙耶香さんは私の頭を嗅ぐと、
「そのシャンプーは捨てなさい。
以前の貴方だったら『毛穴からスッキリ』かもしれないけど、女性には強すぎるわ。こんなの使ったら髪がパサパサになるし、シャンプーが合わなかったら、下手すると『毛穴ごとゴッソリ』よ。
あと洗顔するとき、ちゃんと泡立てた? 前みたいにゴシゴシ洗ったんじゃなくて?」
「も、もちろんです。泡立てました」
沙耶香さんは私をじっと見る。あの目は疑ってる目だ。ここで目を逸らしたらやってないのがバレる。
数秒後、沙耶香さんは視線をバッグに降ろした。私が肩の力を抜くと「今日からこれを使いなさい」と、ボトルやチューブ入りの何かを取り出した。何種類もある。
「使い方は後で教えます」
「あの、これ全部使うんですか?」
「そうですよ。浴場できっちり説明します」
今日もやっぱり一緒なんだ……。
昨日の復習は順調に進み、今日は次のステップ。そうだ、渚のアドバイスを参考に、女優のように声優のように……。
微笑を浮かべ、声は頭のてっぺんで響かせる。
手をお尻の後ろで組んで、少し屈んで相手の目を覗き込むようにお願いする。沙耶香さんが頬を赤らめてどぎまぎしている! よし、これは巧くいったぞ! 恥ずかしいのを我慢した甲斐があった。
「貴女、その仕草と話し方は何ですか?」
「え? 結構、女の子してると思いますけど……、いけなかったですか?」
小首を傾げる私を見て、沙耶香さんはため息をついた。
「狙いは分かりますが、今の貴女の姿ならともかく、十年経って同じことしてたらイタい女ですよ。それに、基本の所作とその仕草に落差がありすぎて不自然です。何より、言動の一つ一つに照れが見え隠れするから、見てるこっちが赤面してしまいます」
……沈没。
「やっぱりそうですか。
実は『私』って一人称もこの姿で使うのが照れくさくて……。以前は平気だったのに、変ですね」
「『私』が嫌でも『僕』とか『俺』はやめときなさい」
結局、演じているだけで自分の内面から現れたものじゃないからダメなんだ。
よし、内面からの役作り、内面からの役作り……。私には無理っぽい。いろんな人格を演じ分ける俳優や女優は凄いな。
「考え方を変えて下さい。いろんな人格のパッチワークを演ずるのでなく、良いと思う人の姿を真似ることで、それがだんだん染み込んでいくかもしれません」
なるほどね。自分が良いと思う女性像、理想の女性……。いかん、男目線になってきた。
その日も夕刻近くまで訓練は続けられたが、昨日ほど突っ込みは入らなくなってきた。私も進歩している。
「たった二日でここまで来れば上出来です」
「やったぁ! 免許皆伝ですか?」
「いいえ、せいぜい仮免ですね。というわけで、次回は路上教習としましょう。
明日は私とデート。あと、ちょっとしたプレゼントもあるわよ」
沙耶香さんは、いつの間にか病室に持ち込まれていた箱から、何やら取り出した。