入浴後
脱衣所で紙袋の中をチェック。
タオル、シャンプー、石けん、最低限必要なものは揃っている。垢擦りやスポンジの類は無いが、タオルで代用できるだろう。
目を閉じて深呼吸を二回。意を決して、鏡を一瞥する。向こう側の少女も凛々しい視線をこちらに向ける。
うゎ、その顔も可愛い。
そう思った瞬間、鏡の中の少女も表情を変える。頬は薄紅に染まり、少し困ったような視線をこちらに向ける……。
燃え上がるような欲情とは違う別の暖かいモノ、強いて言えば保護欲と表現できようか。それが私の胸を満たす。
これが萌えってやつか? いやいやいや、娘に似ているからだ。円があと十年もすればこの姿になるだろう。うん。親として娘を想う気持ちがそうさせるに違いない。
悪い虫が付かないか、今から心配だ。
今一度目を閉じ、首を左右に振って深呼吸。
浴室のシャワーを予め適温に調整してから、鏡を背にして検査着を脱ぎ始める。
躊躇すると途中で作業が止まってしまいそうなので、目を閉じたまま息を止めて一気にすべて脱ぐ。……息まで止める必要はなかったな。
浴室の戸を開けると、中は既に湯気に満たされていた。
当然、鏡も曇っている。
湿った熱い空気の中、頭からシャワーを浴びた。
いつも通り頭を洗うが、三週間分の皮脂汚れのためかシャンプーの泡立ちが悪い気がする。一度すすいだ後、再び頭を洗う。今度はいつもの泡立ちだ。再度すすぐと、トニック成分が入っているためか、頭皮にひんやりとした感覚がある。
今度は身体を洗う。タオルにボディソープを付け、左の上腕から洗う。作業が滞らないよう無心で擦る。
さすがに下だけはソープを付けるのが憚られるので、全身の泡を流してから流水で洗う。直接シャワーを当てるのもちょっと怖いので、ヘソ周辺に当てた流水で洗う。洗っている中指の腹に違和感があったが、すすぎが甘かったのだろう。余計なことは考えない。
シャワーを止めて脱衣所に出た。
換気扇が回っているため、ドアの隙間から病室の空調の効いた空気が流れ込む。踝周辺にひんやりとした空気が心地よい。
手早く身体を拭き、渚が準備してくれた新しい下着を着ける。上は胸に裏当ての着いたタンクトップ風。こればかりは、きちんとサイズを見ないと準備できないらしい。
胸の先端に違和感がある。洗い方が雑だったのかヒリヒリする。気になりだしたら全身にヒリヒリ感。こすりすぎたか?
しまった。下着は用意したけど検査着の替えを持ってこなかった。何か羽織るものを探して首を巡らすが見あたらない。
と、美しい少女と目が合う。いつの間にか鏡の曇りが消えかかっている。微妙に縞模様になっているところを見ると、鏡の内側に温水の配管を通して曇りをとっているのだろうか。
女、なんだよな……。
臍の辺りを見下ろす。この内側に今まで無かった器官があるということか……。の、わりにはぺったんこだけど、本当に入っているのかな? その先には見慣れたものはなく、なだらかな丘があるのみ。どことなく某エコカーのノーズを思わせる。
溜息をついて、鏡の向こうの自分を見る。
湯上がりの上気した肌が……、いかんいかん、どんどんナルシストになっていく。自分の姿を見て現実逃避って、いくら何でもマズい。
とりあえず、検査着を着ないと。
脱衣所のドアをそっと開け、病室に誰もいないことを確認する。パン一じゃ無いけど、こんな姿は他人に見せられない。
備え付けのクローゼットには、……無い。ベッドの下とかにも、無い。
しくじった、検査着の替えが無い。
せめてバスローブか浴衣でもと思うが、残念ここは病室だ。ホテル並みの設備があってもホテルではない。
ナースコールで着替えをお願いするか? いや、そんなルームサービスみたいなことに看護師の手を煩わすのは心苦しい。
そうだ、母に電話して、パジャマ代わりの服を持って来てもらえば!
私は携帯電話をバッグから取り出しコールした。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波が……』
プチッ。
ナースコールは心苦しい。ここはさっきのをもう一度着て、ナースステーションに着替えをお願いに行こう。
ため息を一つして脱衣所に戻ろうとドアに手をかけた瞬間、前触れもなく病室のドアが開いた。
母と目が合う。
私が固まっていたのは、時間にして二、三秒だろうか。首筋から頬、耳、額へと熱い感覚が上がってくる。
次の瞬間、私は身を翻してベッドにもぐり込み、布団にくるまった。
見られたっ! 女物の下着を着けた姿を見られた!
顔は羞恥に赤く染まっているに違いない。自分でもどうやってベッドに飛び乗ったか分からない。
「何で、ノックしないでドア開けるかな!」
「ごめんなさい。まさかそんな格好だと思ってなかったから」
『そんな格好』という言葉が、私の羞恥心に追い打ちをかける。
「とりあえず、検査着の替えを。あと、携帯は電源入れといてよ」
着替えをベッドに置いてもらい、カーテンを閉めてもらうと、私は布団から這い出した。
淡いベージュの検査着に袖を通し、ボタンを留める。
身繕いを終えてカーテンを開けたが、……気まずい。
「ちょっと飲み物買ってくる。近くに自販機ある?」
ペットボトルを三本持って病室に戻ったが、今来ているのは母さん一人らしい。良かった。あんな姿、渚には見せられない。
「渚は?」
「仕事」
「そか。夫がこんな姿なんて、ちょっと受け入れられないよな」
私はうな垂れた。
「変わっていくあなたの身体を拭いてくれてたのは渚ちゃんよ」
私はハッとして母の顔を見た。
「あんた、いいお嫁さんもらったね」
母によると、渚は私の身体の変容について聞き、その過程で死に至る可能性があることも聞いて、それでも最期まで妻であろうとしてくれたそうだ。
私の姿が変わっても、意識を取り戻したことを喜んでくれた。
そして困惑しながらも、何より子ども達のことを先ず心配したことを喜んでいたそうだ。
言葉にされるとちょっと照れる。
「ま、父親の務めだからね。今はこんな姿だけど……。
『父親』、か」
私は自嘲気味に鼻を鳴らした。病室に暫し沈黙が落ちる。
「話というのは、今後のこと。昌幸はどうしたい?」
「どうって、別の人間として生きてく以外に選択肢は無いんだろ」
「子ども達とは?」
「そりゃ……、一緒に暮らしたいし、成長には関わりたいよ。
でも、それは無理なんだろ」
「……、
二人の姉として、生きる覚悟、ある?」
それで傍にいられるなら……、私は一も二も無く頷いた。