本当の顔
一頻り泣くと、幾分すっきりした。泣くことには笑うほどじゃないにしても、心を軽くする効果があるようだ。
事務室を出ると、ちょうど年少の園児達が出入りのパン屋さんに挨拶をしているところだ。
「いつも、おいしい、パンを、ありがとう、ございます!」
声を揃えてお礼を言う姿が愛らしい。
「あ! お姉ちゃん!」
周が私の姿を見つけ、走ってくる。
いつものように、ピョンと飛びついてくるので、受け止めて高い高いをする。
パン屋のおじさんは、少し好奇の混じった視線を向けていたが、私がそちらに目をやると、パンを運び込む仕事に戻る。
見慣れない私に、他の園児達もわらわらと集まってきた。私が中腰になって「こんにちは」と挨拶すると、園児達も口々に挨拶を返してきた。
「お姉ちゃん、お姫様みたーい」
多分、そんな絵本があるんだろうな、と思いながら、園児達の頭を撫でていると、こちらの気持ちまで温かくなってくる。
と、周がヤキモチを妬いたのか間に割って入る。
「お姉ちゃんは、周のお姉ちゃんだぞ!」
「なんでー! エリのお姉ちゃんになってー」
そんなやりとりも微笑ましい。この可愛い子は、意味が分かるようになっても、周にそう言ってくれるかなぁ? 自然と頬が緩むが、円に対して男の子がそう言ったら、素直に喜べないかも。
「ダメー。お姉ちゃんと一緒にお風呂に入るの周だもーん」
それも、あと何年かなぁ? などと考えていると、周がヒートアップしてくる。いつの間にか話が変な方向に進んでいる。変な方向というのは……
「お姉ちゃんは、おちんちんが無いからお姉ちゃんだぞ!」
それは、もう、いいから……。二の句が継げないで居ると、年配の徳永さんも苦笑いだ。
「お姉ちゃんはおヒゲも無いよ。でも大きくなったら生えてくるって」
顔がカァっと熱くなる。そのネタはここではやらないで! 受領書をもらいに来たパン屋さんも聞いてるし。
小野先生が周の前に座った。早く止めて下さい。
「女の子にはお髭、生えないのよ」
受付の方では、パン屋さんが封筒を不自然にガサガサ言わせて、中の書類をあさっている。
やだなぁ、よりによってあの人だけは意味を理解してるよ……。絶対、いろんなことやエロんなことを想像してる! 受領なんて明日でも大勢に影響は無いんだから、さっさと出てってくれないかなぁ。
想いも虚しく、周が決めの一言を発した。
「おちんちんのおヒゲだよ!」
私は既に顔を赤くして俯いている。チラッと見ると、小野先生もようやく意味を理解したのか、顔を赤くしている。パン屋さんのガサガサはいよいよ音が大きくなる。
「周君もみんなも、一緒にホールに行きましょうね! お遊戯の続きをしましゅよ」
あ、噛んだ。若い保育士さんは動揺を隠せない。
「ありがとうございまーす」
パン屋さんは、いかにも『僕は聞いてません』アピールを大声でしてるけど、あの書類の扱いで分かる。テレビで気まずい場面が出たときの、新聞のめくり方や茶碗の洗い方と同じだし。
徳永さんがやってきて小声で囁いた。
「ごめんなさい。昌さんに恥ずかしい思いをさせちゃったわ」
「いえ、うちの周が下品なだけです。もう……」
「でも昌さん、とっても良い顔をしていたわよ」
私は「えっ?」となって、徳永さんを見る。この人も私が恥ずかしがっている様子を見るのが好きなのか? 沙耶香さんと同じ趣味なのか?
「子どもたちに囲まれているときの昌さん、まるで天使か観音様のような顔をしてたわよ。それが昌さんの本当の顔。それが昌さんの本当の姿なの。
周君や円ちゃんには、昌さんの本当の心で接してあげてね。あと、無理に受けいれてもらおうとかしないで。昌さんの家族は、特にお義母さんは受けいれてくれてる。あの人は出来た人よ。
それと、何か困ったこととか、相談したいことがあったら、気軽に遊びに来て」
「ありがとうございます。でも良いんですか? 私なんかが勝手に来ちゃっても」
「歓迎するわ。それに子どもたちも喜んでたでしょ。人見知りして、他の保育士さんだと落ち着かない子も、昌さんには抱っこされてたし」
「それじゃ、お言葉に甘えて、近々また来ます。
では、今日はこれで」
私はウィッグを着け、園を出た。
私の『本当の姿』か……。
そうなのだろうか? 徳永さんの言葉を思い出す。そして最後に言われた「白い髪の方が昌さんらしいわ」を思い出す。
でも、今しばらくはウィッグ無しで外出するのは怖い。それが出来れば一皮剥けたと言えるのだろうか? いや、一皮剥けるというのは、昌幸から昌に変わって行くということなのかも知れない。
結局、この数日は、ほぼひきこもり生活を続けた。
外出したのは、近所のショッピングセンターぐらい。一応、中学校の放課後時間を狙ったけど、私服で行くには早かったらしく、特に家電売り場では注目されていたような気がする。
もっとも後になって考えると、中学生ぐらいで茶髪となれば目立つのも仕方がない。この辺じゃ、中高生が髪に加工するのは校則で禁じられているだろうから当然だ。せめて黒髪なら良かったのに。
私は周囲の視線に耐えきれず、その日は何も買わずに出てしまった。しばらくはネット通販に頼ろう。これなら高額でも目立たずに買える。いかにも私の買い物じゃないという態でマニアックな買い物も可能だし。
あれ? 携帯電話のランプが点滅している。いつの間に着信してたんだろ? 考えごとに夢中になっていて気付かなかった。履歴を見ると沙耶香さんだ。
コールバックしたところ、今度の週末は合宿に途中から合流するそうだ。本来は一緒に泊まるところを、最終日だけの合流にするとのこと。
行き先はなんと京都。本来は参加させるつもりじゃなかったけど、京都ならと言うことで参加になった。どうやら、沙耶香さんには何か考えがあるらしい。金曜日の夜に迎えに来てもらい、二泊三日の予定だ。