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ひめみこ  作者: 転々
第四章 比売神子の責務
32/202

保育園

 目覚めると、見慣れた自室の天井だ。

 カーテンの隙間から差し込む光は弱い。まだ夜明け前だろうか。


 私は上体を起こした。ひんやりした空気が素肌に触れる。


 素肌?


 見下ろすと、自分は全裸の少女の姿だ。数瞬、状況に混乱したが、冷えた空気がそれを鎮める。そしてこの半月余のことを思い出す。


 この部屋は、結婚してしばらくしか使っていなかった。渚の妊娠が判ってすぐ、階段の上り下りを避けるために寝室を一階に移したのだ。

 そして子どもが寝返りを出来るようになったとき、ベッドをこの部屋に戻し、一階の寝室はスノコの上に布団を敷いている。

 起き抜けにこの部屋の天井を見たため、気持ちが独身~新婚時代に戻ってしまったようだ。


 昨夜のことを思い出す。

 愛を交わした部屋で、それを思い出しながら独り励んでしまった。そのときの自分は、どっち側に感情移入していたんだろう?

 そもそもこの欲求は、脳に遺された『昌幸』の記憶によるのか、『昌』としての肉体によるものなのか……。あるいは、行為によって、『昌幸』が留まり続けようとするのか、『昌』への変化の受容を推し進めるのか……。


 (らち)もないことを考えていると、自分の身体の表面を穢らわしく感じる。


 とりあえずシャワーを浴びよう。




 私はベッドの周囲りに散らばったパジャマと下着を拾い集めた。パジャマはともかく下着は冷えていて、履くことを躊躇(ためら)われる。

 私は素肌に直接パジャマを羽織ると、念のため部屋の換気扇を回した。階下には人の気配はない。まだ誰も起きていないようだ。


 薄暗い階段を音を立てないように降り、シャワーを浴びた。

 身体を拭き、昨夜脱いだものを、既にカゴに入っていた衣類と合わせ、洗濯機を回す。


 新聞に目を通していると、子ども達と渚が起きてきた。


「お早う」

「お早う」

「おはよー」

「アヨー」


 いつも通り、退院してからの、いつも通りの朝だ。

 渚の表情もいつも通り。私の表情はどうだろうか? 互いに昨夜のことには触れない。




 出勤する渚を見送り、子ども達に身支度をさせると、母が保育園に連れて行く。


 私は独り、朝食の後片付けをしながら、昨夜のことを思い出した。

 再び、何とも煮え切らない気持ちになる。同時に手が自然と……。

 いけない。これじゃぁ憶えたての男子中学生じゃないか!


 私はその感情を追い払うように首を振った。




 暫くして母が帰ってきて、珍しく私を呼んだ。


「園の保母さんが、昌に会ってみたいって。どうせヒマなんだから行ってみたら?」


「……ん、どうしようかな?」


 正直、気乗りしない。が、他にすることもない。行けない理由が無い以上、選択の余地は無い。




 着替えてウィッグを頭に乗せる。そして帽子とサングラスも着ける。幸い、遠目には実際よりも長身に見える。これなら補導されることも無いだろう。


 園までは、自転車でも十五分かからない。午前十時台という時間からか、国道を降りると通行人は居ない。

 視線を気にすることなく自転車を走らせると、程なく園に着いた。


 玄関に近づくと、鶏を炊く匂いが漂ってくる。換気扇の向こうは調理室に違いない。

 玄関の鍵は防犯上の理由で閉まっている。インターフォンに手を伸ばしたところで、後ろから声をかけられた。


「お早う」


 慌てて振り向くと、年配の――五十代ぐらいの――保育士さんがいた。私も帽子とサングラスを取って挨拶する。


「あら、(あまね)君と(つぶら)ちゃんのお姉さんね」


「え? そうですけど、何で判ったんですか?」


「そっくりだもの。

 円ちゃんもお父さん似だけど、貴女はもっとね」


「あ、えーと、初めまして、小畑昌です。」


「初めまして、徳永と申します。未就園児保育主任をしております。

 じゃぁ、昌さん、こっちへ」


 私は招かれるままに、園の受付兼事務室に入った。




「はい、どうぞ」


 出てきたのは紙パック入りのりんごジュース。パッケージがキャラクターものなのがいかにも保育園らしい。私は一言お礼を言ってストローを挿した。


「もうすぐ、小野先生も来ますから、少し待ってて下さいね。

 でも、本当にお父さんそっくり。将来は美人になるわよ」


「はぁ……。ありがとうございます」


 昌幸だった頃とは全く違い、会う人会う人に「可愛い」「美人だ」と言われるが、どう返事するのが良いか判らない。これにもいずれ慣れていくのだろうか。




「貴女のお父さんはね、私が初めて受け持った園児だから印象に残ってるわ。それに、男にしとくのが勿体ないくらいきれいな顔立ちだったもの。オムツが取れるのが遅かったんだけど、替えようと脱がせて『あら、びっくり!』だったのよ。

 お父さんが女の子だったら、きっと貴女みたいな可愛い子だったかもね」


 えーっと、それはある意味正解です。




「すいません、お待たせしました。年少組の小野です。あなたが周君のお姉さんね」


 そう言いながら、小野先生は(いぶか)しげに私の顔を見た。


 ……いくら何でも私の正体が判ることはないはず。


「周君は『お姉ちゃんの頭、白い』って言ってたけど……」


「あ、これは、その、目立つのが嫌だったので」


 私はウィッグを取って、本来の髪を見せた。保母さん二人は目を丸くする。「まぁ!」「まるで、お姫様が絵本から抜け出してきたみたい」


 比喩が、いかにも保育士さんらしい。




 小野さんによると、周の心が不安定になっており、園では「お父さん、お姉ちゃんになった」とも言っているそうだ。


 三歳児に肉親の死は理解できず、お父さんと入れ替わりにやってきたお姉さん――しかもお父さんの面影を強く残す――を、お父さんが姿を変えた人だと思い込んでいる。


 周の方が正解なのだが、一般的には有り得ない話。保育士さんの言う解釈に落ち着くのが普通だ。


 その後、子ども達の家での様子、私の生活について話が続いた。




「昌さん。お父さんを喪ったことが辛いってことも判るし、弟や妹を貴女が大切に想う気持ちもよく分かります。


 でも、貴女は昌さんであって、周君や円ちゃんのお父さんじゃないの。お父さんになろうとするのは止めなさい。代わりになろうとしたって、女の子の貴女じゃ絶対に無理なことなの。

 昌さんが昌さんでいることが、二人のためだし、昌さん自身のためでもあるのよ」


「……でも、私は」


 言いかけた言葉をのみ込んだ。……言えるはずがない。多分、私は今、泣きそうな顔をしてる。


 ここでも『昌』という『昌幸』とは違う人間として生きることを求められる。私の事情を知る人も知らない人も、皆、私にこれまでの人格を捨て、『昌』という人格で生きることを求める……。


 この身体になって緩くなった涙腺は、簡単に決壊した。

 目の前のテーブルに滴が落ちる。


 徳永さんが震える私の背中を撫で、ハンカチを差し出した。私はそのハンカチで涙をぬぐい、テーブルを拭いた。


「ずっと、無理してたのね」


 二人とも、完全に勘違いしてる。

 もちろん、私や子ども達をいたわる気持ちに嘘はない。

 私の手を握る小野さんの手も、肩に乗せられた徳永さんの手も、いずれも暖かい。


 でも、その善意や暖かさが、私を余計に辛くするのだ。

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