渚 変容 二
点滴さえすれば……。
昌幸さんの容態は未だ予断を許さない状況ですが、希望もあります。少なくとも女性での知見があることに望みをかけて転院しました。ただ、こちらの病院は家からも遠く、それに仕事に穴を開け続けるわけにもいかないので、度々は来られません。
今日も、午後のみの半休をもらって来ています。でもここに居られるのは、せいぜい二時間弱でしょうか。
出来ることと言えば、眠り続ける昌幸さんの顔を拭いてあげることだけです。
病室に入る前に、先生に会いました。髭や髪だけでなく歯も抜け始めたそうです。
これまでの臨床では、変容によって一二・三歳ぐらいの姿になるとのこと。顎の大きさが相応になるためには、大人の歯は邪魔になるのかも知れません。
私はそれをハンカチに包んで持ち帰りました。
帰宅し、その歯をプリンが入っていた瓶に入れました。
周を授かる前、二人で奈良へ行ったことを思い出します。そのときに買ったプリンの瓶。私が捨てようとしたときに、紅生姜や、まだ授かってもいない子どもの離乳食を入れるのに良いと、十個全部とっておいたものです。離乳食には大きさが足りず、結局使わずじまいでしたが。
昌幸さんの歯は大きいのか、隙間がたくさんできて、一瓶では入りきりません。
瓶の蓋をそっと閉めて見つめると、その瓶は歪み、霞んでいきました。
この瓶を洗っていたときは……。
翌日、昨日は拭けなかった昌幸さんの顔に温かいタオルをあてました。
その顔には既に髭は無く、頭髪もかなり抜け落ちています。歯が抜けたせいか、頬まわりもしぼんで見えます。
タオルで拭くと、消しゴム屑のように皮膚が崩れ落ちました。しかしその下から現れたのは、血色が良すぎるくらいにつややかな、まるで赤ちゃんのような肌。これが、別人になってしまうということなのでしょう。
でも、昌幸さんは生きている!
その後『比売神子様』とお義母さん、私の三人で話、と言うより今後の打ち合わせをすることとなりました。
『比売神子様』は「今このような話は酷かも知れませんが」と前置きして書類を出しました。転院前、慌ただしく署名した同意書です。
それには、昌幸さんが亡くなった場合の条項もありました。臨床の情報だけでなく、今後の研究のために亡骸の『検査』を認めることも含まれています。そして、いかなる結果になろうと、他言無用であることも。
まずは、この部分の変更・補足についてでした。
「無用になれば良いと考えています」そう言いながら提示された金額は、私たち夫婦の生涯賃金を超えるものです。正直なところ、今そんな話は聞きたくありませんが、今後の生活や子どもたちの将来のためには必要なものでもあります。
「『口止め料』込み、ですね」
「そう受け取っていただいても構いません」
お義母さんの言に『比売神子様』が応じました。
どうしてこんなときに、冷静でいられるんだろう。
その後は、昌幸さんが神子として生きる場合の話になりました。
「高齢で神子になった者ほど、『格』が高くなります。そして『格』が高い神子ほど、その娘も神子となる確率が高いようです。
過去、男児が神子となったとき、本人の『格』もさることながら、その娘も例外なく『格』の高い神子となりました」
『格』の高い神子は、子どもを持つことが強く求められるそうです。
もちろん、神子の血脈を残すためですが、知性や身体能力に優れ、若さを長期に渡って保てること自体、研究の対象だそうです。
私よりも二十歳ほども若くなるということは、昌幸さんが青年になる頃、私は四十……。
いえ、ずっと若いままの昌幸さんの側に立つのは、別の女性になるのでしょう。ほの暗い感情が湧き上がります。
「過去に、神子となった男性について、お訊きしても?」
「元服前の男児だったと記録にあります。血の発現で十日ほど生死をさまよい、骨と皮ばかりになったそうです。
しかし神子になって以後は、病気らしい病気もせず、四十を過ぎても、少女と見まごう美貌を保ったそうです」
「少女?」
「その男児が神子となったとき、その身は女児へ転じたとあります。
小畑昌幸さんがどうなるかは、未だ判りませんが……」
男児が女児に?
私は、それを呆然と聞いていました。現実感が無いというか、そこに感情は、悲しみや憤りも現れません。ただ、呆然とお茶が半分になった湯飲みを見つめていました。
お義母さんと『比売神子様』は話を続けます。
その女児に転じた神子は、他の比売神子たちと同様、歴史には残っていないものの、幾人かの男性の側室として生きたそうです。若さと美しさを長期に渡って保ち、幾人もの男性の寵をうけ、子宝にも恵まれ……。
結局、何人もの男性の相手をし、孫が出来てからも子どもを産まさせられ、ずっと籠の鳥のような人生だったということじゃない!
涙が溢れてくる。
現代の日本ならそこまでのことは無いにしても、別の人間になって、子どもを産むことを求められ、研究対象として囲われる身……。
こんなこと、昌幸さんには知らせたくない。私が知ってしまったことも絶対に言えない。
せめて私だけは昌幸さんに、一人の人間として寄り添おう。でないと……。
翌日、病室に向かう私を三浦さんが止めました。
「面会謝絶です」
「聞いていませんでしたが」
押し問答の末、今日だけ、顔を拭くことを許して貰えました。本当は、今日にもICUなのだそうです。容態を診るだけでなく、秘密の保持も兼ねて。
「これ以上……見るのは、奥様には辛いことですよ」
つまり、そういうことなのです。でも私は、私だけは。
数日後、『比売神子様』の代わりに竹内さんという女性と会いました。一見、女優と見まごう美貌の大柄な女性ですが、この病院の看護師であると同時に、次席比売神子でもあります。
今後は彼女が、私との窓口と昌幸さんのサポートにあたります。
彼女自身も成人してから血の発現を経て、人生を十年近くやり直したとか。ということは、実年齢は私と同じぐらいでしょうか。確かに、外見のわりに落ち着いた話し方でした。
『年代』が近いせいか、文化的には近いものを感じますが、やはり肉体年齢相応の経験しかしていないのでしょう、社会人女性としては相応な印象です。もっとも、そのおかげで『比売神子様』よりは話しやすいのですが。
話してみて、彼女は今回のことも、かなり理詰めで見ているようでした。
今後、昌幸さんが『死んでいない』だけで『生きている』にはほど遠い状況にならないためにも、私たちは二人三脚で臨む必要があることと、それにまつわる『資料』をお借りしました。
ガラス越しに昌幸さんを見ます。既に少女の姿ですが、昌幸さんは昌幸さんです。
未だ発熱は続き、意識も戻っていませんが、最大の危機は脱しました。きっと、もうしばらくで目を覚ますに違いありません。
私は、タブレットの『資料』に意識を戻しました。




