渚 変容 一
第一話の渚視点です。
少し、重たいかも知れません。
昨日、昌幸さんが入院しました。
一昨日の朝から調子が悪く、その日は会社を早退。日が替わっても良くなる気配が無く、受診したらそのまま入院することになりました。
発熱、嘔吐、下痢……、腸炎も疑われる症状ですが、血液検査では炎症の反応も薄く、先生も首をかしげています。
原因は判りませんが、嚥下障害もあるということで、補液のための点滴をしつつ様子を見ることになりました。
一旦、私たちは帰宅し、入院が長期になっても良いよう準備をします。お義母さんも忙しくあちこち連絡をしているようです。
「渚ちゃんは、昌幸についててあげて。
私も周ちゃんと円ちゃんに夕食をあげたら、一つ寄り道をして病院に行くから」
早く良くなってくれないと。
育休が終わったけど、まだまだフルに働けないし。経理のソフトも少し替わったから、決算までに憶えなきゃいけないし……。
病室で目を閉じた昌幸さんの顔を見ると。顎や首回りに無精髭が目立ちます。髪はそうでもないのに、髭やもみあげに白髪も。
いつの間に、白髪が増えたんだろう? 明日は剃ってあげないと。
翌日、病院に向かう道すがら、子どもたちのことを思い出します。周はかなり不安そう。それにつられてか、円もどこか不安そうです。
先月、昌幸さんが出張したときにはこんなじゃなかった。きっと私の不安が伝染っているに違いない。
「しっかりしなきゃ」
病院でまどろんでいる昌幸さんの顔や首筋を蒸しタオルで拭き、髭をあたりました。
人生、初シェーバ。昌幸さんは頬を膨らませたり、口の中から唇の脇を舌で持ち上げたりしてくれます。案外細かい。
でも、私が触れた背中は、熱かった。
そして、これが最初で最後の髭剃りになるとは、そのときは思ってもいませんでした。
お義母さんが病室のドアの脇から手招きします。何か話があるようです。
病室から出て数メートル、背後で何かが倒れる音がしました。慌てて戻ると、昌幸さんが床に倒れています。
私が慌ててナースコールをすると、お母さんもナースステーションに走りました。
うつ伏せに倒れた昌幸さんの身体は重く、そして熱かった。
その後のことは良く憶えていません。
看護師が何人かで、昌幸さんをストレッチャーに乗せ、どこかへ運んで行くのを見送ったことは憶えているけど、私自身は何をしていたのか……。何も出来ず、椅子に座って、あるいはオロオロしていただけだったかも知れません。
頭を打った様子も無く、左肘内側の挫傷以外は特に怪我も無いと聞いて少し安心したのは夕刻も過ぎてからでした。
翌朝、改めて病院に向かう準備をしていると、園から戻ってきたお義母さんに呼ばれました。昨日の騒動で話しそびれていたことです。
医師が首をかしげていた症状ですが、お義母さんには心当たりがあるようです。今日はその専門の方にお会いするとか。
おそらくは転院することになること、今日は病院へ向かえないか、あるいは遅い時間になるかも知れないとのこと。
病室の昌幸さんは、昨日から眠り続けたままです。容態は発熱を除けば安定していますが……。そして先生によると、今になって炎症反応が強く現れているそうです。
「昌幸さん……」
顎まわりの髭が微妙に伸びています。長さは一ミリに届くでしょうか?
眠っているので、今日は顔を拭くだけにしよう。レンジで温めたタオルを振って、少し冷ましました。
頬を人撫で。
タオルに黒いものが二本、髭です。頭髪より太いそれは、毛根も含めて長さが一センチ足らず。髭が皮膚の下にも五ミリ以上あることを初めて知り、改めて変なことに感心して……。
「……えっ?」
改めて頬から顎にかけてを拭きます。
タオルにはびっしりと、黒や白の短い毛が、それも毛根ごと付いています。そして拭き取った部分には、抜け切らなかった髭が見えます。
恐る恐る触れると、それは何の抵抗もなく抜けてしまいました。気づけば、枕にも抜けた頭髪がたくさん……。
指先が、頬が、冷えていくのを感じました。足にも力が入らない。床に膝をつけていたのは何秒? それとも何分?
我に返った私は急いでナースステーションに向かい、先生も呼んでもらいました。
検査の間、ナースステーション近くの談話室で待ちます。独りでいるとロクでも無い想像ばかりが浮かびます。先生からも看護師からも何も無いまま、時間ばかりが過ぎていきます。
「渚ちゃん」
「お義母さん」
来られないかもという話でしたが、時刻を見ると三時過ぎ。そのときになって、お昼を食べそびれていたことに気づきました。
「お義母さん、昌幸さんが!」
「聞いてるわ。それについて、別の先生にも来てもらってる。
もうしばらく待って」
程なく、幾人かが歩いてきました。
白衣を着ているということは、先頭は医師と看護師でしょうか。昌幸さんと同年代の男性と、更に少し上の女性。でも、その後ろの方は……。
白髪の品の良い女性、そして関係者でしょうか、黒いスーツの男性二人がエレベータホールに見えます。
お義母さんに連れられて、その三人と共に小部屋に入りました。
「初めまして、小畑さん。私は医師の高瀬と申します。こちらは看護師の三浦です」
それで、こちらの女性は何者でしょうか?
聞かされた話は、荒唐無稽としか言えません。他言無用を念押しされましたが、こんなこと誰も信じないでしょう。
「神子の血が現れていることは、ほぼ疑いがありません」
頭が混乱します。
発現すると、女性の場合は一二・三歳まで若返る。
男性では希で、記録は二例のみ。臨床記録も無いそう。
無論、昌幸さんがどうなるかも不明。
成人後の発現は、死亡率が高かった。
「先々代の比売神子様は、三〇歳を過ぎてから神子の血が発現した
そうです。当時の先端医療である『点滴』のおかげで、命が繋がったそうです」
「おそらくは、身体が成長していて若返りによる変容が大きいほど、肉体への負担も大きいのでしょう。
現実的に言って、人間は水分補給無しには十日と生きられませんから、変容期間が長いほど、致死率も高かったものと推測します。自力で摂れなくとも、点滴で補給さえすれば、少なくとも脱水や栄養不足による死は避けられるでしょう。
実際、点滴が使われるようになってからは、変容で亡くなったという例はありませんから」
『比売神子様』の言を、高瀬先生が引き継ぎました。
点滴さえ使えば、命は大丈夫……。
私は少し安堵しました。
転院や臨床記録を残すことなどにかかる同意書に署名しました。
通常、こういうことはしないそうです。変容によって若返ればこれまで通りの生活は出来ません。別の人間として生きざるを得ず、家族にも知らされず、公には亡くなったこととされるそうです。
今回は、例外的な状況であること、そしてお義母さんが渡りをつけたことから、この対応となったそうです。
私は転院の準備を始めました。
別人になってもいい。生きてさえくれれば。




