始まりの日
その日はようやく仕事に一区切りが付いた。
検図を終えた図面は、明日にはあちこちの鉄工所にばらまかれているだろう。もちろん、製作段階でも図面の不備――公差が厳しいとか、印刷が不明瞭だとか――の対応は必要だが、設計者としての仕事は一区切り付いたと言える。
「休むのはさすがに無理だけど、しばらくはリフレッシュできそうだな」
一人作業の習い性か、思ったことが独り言になる。
「昌幸ぃ、久々に今晩、一杯行くか?」
独り言に応えるように後ろから声がかかる。振り返ると、谷口さん――上司の――が、右手でお猪口を持つ仕草をしている。こんなお誘いは珍しい。
「今日は止しときます。こんな日ぐらい早く帰ってやらないと」
帰宅すると元気な足音が近づいてきた。トトトトトッは三歳の息子、ペタ、ペタ、ペタは一歳の娘だ。
「お父しゃん、お帰りっ」
満面の笑みで跳びついてきた息子を抱きとめ、天井近くまで持ち上げてから床に降ろす。
「あー、あー、あー」
娘は両手を前に出してよちよち近づいてくる。『抱っこ』要求に『高い高い』で応えると、娘ははじける笑顔とともに手足をばたつかせる。
何でも無い毎日だ。
私はこの毎日が、明日も、一ヶ月後も、一年後も、ずっと続くと思っていた。
その日が来るまでは。
朝、起きると身体が怠い。頭痛と腹痛もある。汗で髪が張り付いた額に触れる。もしかしたら熱もあるかもしれない。無理がたたって、風邪をひいたらしい。
「大丈夫?」
妻の渚が優しく声をかけてくれる。私は「大丈夫だ」と応えると顔を洗って食卓についたが、食欲がわかない。まるでひどい二日酔だ。
「腹の具合が悪いから、ヨーグルトだけにしとくよ」
少し無理をして、ヨーグルトを胃に流し込む。妻はそんな私をチラと見た後、娘の口にスプーンを運ぶ。
「お母しゃん、食べさして」
「円ちゃんはまだ自分で食べられないから仕方ないの。周君はもうお兄ちゃんなんだから、自分で食べてね」
いつものやり取りだ。妹が生まれて一年強、周の赤ちゃん帰りは続いている。
今まで独占してきたお母さんが、自分一人だけのでなくなったのだから当然だ。末っ子以外の子どもは多かれ少なかれそういう段階を踏んでお兄ちゃん、お姉ちゃんになる。
私は微笑ましくそれを見ていたが、不意に気分が悪くなりトイレに走った。
結局、無理して入れたヨーグルトも残らず吐き出してしまった。
会社には行ったものの、吐き気と下痢は治まらず、その日は早退することにした。設計は一段落したし、図面の問い合わせについては上司にお願いしても問題ないだろう。
翌日も体調の悪さは続いていた。昨日から何も食べていないのに下痢だけは続く。食べたものは残らず吐いてしまうし、水すら飲むのが辛い。
これは本格的にヤバい。
受診した結果、急性腸炎の疑いで即日入院となった。今のままでは脱水症状を起こしかねないという判断だ。
その日から食事は点滴になった。
発熱から既に三日、身体の中が空っぽになったはずなのにその日も下痢は続いていた。腸炎の疑いって割には、炎症反応薄いんだけどな。
見舞いに来ていた渚を、母がそっと連れ出した。
私に言えない病気なのだろうか?
不安に駆られた私はベッドから身体を起こした。床に足を付けメガネに手を伸ばす――と同時に、私の視界は急速に狭まる。最後に見たのは、一メートルほど前の床に点滴スタンドが倒れるところだった。
床に倒れた割に、衝撃を感じなかったな……。一瞬そう考えた後、私の意識は闇に墜ちていった。
目を開くと、さっきまでとは別の病室のようだ。周囲には『いかにも』な機械が並んでいる。点滴以外にも、管がいくつも私に繋がれているようだ。
このメーカー、医療器も造ってたんだ……と、どうでもいいことに思いを巡らす。
機械のモニタの日付を見ると、二十日近く進んでいる。とにかく身体が怠い。視界にも違和感を覚える。
「二号室の患者様、意識が戻りました」
遠くで看護師らしき声が聞こえる。
程なく、医師と看護師がやってきた。
「今回、小畑さんを担当する高瀬と申します。よろしく。
さて、気分は、いかがですか?」
三十代も半ば過ぎの医師が尋ねてきた。柔らかい笑顔はいかにもリア充なイケメンで、半袖からは筋肉質な腕。なんだかんだ言っても医者は体力仕事だからな。いや、筋肉なら私も負けない。
「かッ、は……」
声が出ない。私は、管の繋がっていない右手で喉を指さし、声を出せないことを何とか表現する。動かした右腕が重い。身体に力が入らない。
無理に身体を起こそうとした私の動きを、看護師が制した。
「そのまま、横になっていて下さい」
私の胸元に当てられた掌はひんやりとしている。いや、私の方が熱っぽいのだろうか。そのひんやりとした感覚が、思考にかかった霞を払ってくれるような気がする。
「あなたは十九日間も、意識を失っていたのよ」
まだ二十歳そこそこと思しき若い看護師が、枕の位置を直しながら言う。
えーっと、看護師の方、近いです。襟元から谷間とレースの縁取りがついたベージュ色のモノが見えます。白衣って、こんな胸元開いてるもんでしたっけ? 健康だったらオジサン、別の理由で体温上がっちゃいそうです。
数瞬の間、不埒な考えに視線が泳いだが、鉄の意志でそれを医師に戻す。
医師の説明によると、ずいぶん長いこと意識を失っていたようだ。一時は昏睡状態にも陥り、命すら危ぶまれたらしい。
うん。まず心配をかけた家族に謝らなくちゃいけないな。
危機は脱したので、あとはゆっくり養生すれば健康を回復するだろうとのこと。「若いですから、回復は早いでしょう」と言うが、私は見た目こそ若く見えるが厄も近い。若い頃に比べると、疲れが残るようになってきた今日この頃。
しかし、三週間も寝ていたら病気じゃなくても寝疲れするだろう。
頭を掻くと、洗っていない頭皮は脂っぽい。でも額や頬はそれほどでもなく、顎や首回りには無精髭もない。誰かが顔や髪を拭き、髭もあたってくれていたようだ。これも十分感謝しなくてはならない。
「結局、私の症状は、何だったのでしょう?」
医師を手招きし、かすれ声にすらならない吐息で訊くと、医師は一瞬眉根を寄せた。「それは此方に説明して頂きましょう」と言うと、年配の看護師を残して部屋を辞した。
医師は「できるだけ手短に」という言葉をかけ、別の一団と入れ替わる。
この人達、いつの間に部屋に入ってたのだろう?
近づいてきたのは、白髪のお婆ちゃん、そして二十代前半ぐらいだろうか、長身の美人さん、黒いスーツの男性二人、そして私の母と妻の渚。さすがに子ども達は連れてきていない。
「私どもは血を受け継ぐ者です。そしてあなたの母上とは、おそらく遠縁にあたります」
血?
頭の中に『?』マークが浮かぶ。『ヒメミコの血』とお婆ちゃんは言うが……、ひめみこ? 姫巫女?
の割に、二人とも地味な服装だ。巫女って言うなら例の服を着てこなくちゃ。
美人さんは茶色から栗色に近い髪と青い目だ。って事は、あちらの血が混じってるのかな? まぁ美人なら黒髪でなくとも巫女装束が似合うに違いない。ご利益なさそうだけど。
いや、お婆ちゃんはいい。
姫というにも巫女というにも、薹が立ちすぎだ。半世紀前ならともかく……。
私が失礼なことを考えていると、その姫巫女のお婆ちゃんは、看護師と黒スーツ二人に外に出るよう促した。黒スーツは二言三言抵抗したが、この建物の安全は確保されているということで部屋の外に出て行った。スミスとKはお婆ちゃん達のボディーガードらしい。
ところで、私としては病状や原因を知りたいのであって、巫女さん達――宗教的な方々――のお世話になるつもりは無い。ボディーガード付きの宗教関係者って、ちょっと怖い。まさか、変な儀式や呪いを始めるなんて、あり得ないか。
「まず、あなたの身体に起こったことですが……、神子の血が発現したのです。
通常、成人してから起こることは希で、まして男性に起こることは例外的です。
男性に起こった場合致死率が高いと云われています。生き残れたのは僥倖と言えるかも知れません」
なんだか見た目の割に若いしゃべり方をするお婆ちゃんだ。でも、今日日の六十代はこんなもんかな? 親父の『ガールフレンド』達も元気だし。
『生き残っただけでも僥倖』か……、うん、感謝だ。子ども達の為にも生きなくちゃならないし。
で、姫とか巫女とか、私のようなオジサンとどう関係があるんだろう。
「『血の発現』の結果、あなたは神子としての肉体を得ました。おそらくは、格の高い神子となる資質があるでしょう。さし当たり、まずは女性として生きることに慣れて……」
え?
今、なんつった?
姫?
巫女?
女性として?
なんか、今、さらっと変なこと言わなかった?
どういう意味?
私は急に息苦しさを感じた。
胸を締め付けられるような痛みを覚える。
見上げた天井が近づいたり遠ざかったりして見える。
周囲の機械から警告音が鳴りだす。
医師と看護師が慌ただしく動き回るが、その音もだんだん遠くなり……
私は再び気を失った。