帰宅
病院に戻ると、休む間も無く検診だった。食べ過ぎたお腹が苦しい。多分一キロ近く食べただろう、……てのは大げさか。
主治医には厳重に注意された。
同席した沙耶香さんは素知らぬ顔をしている。あ、私が見ると目を逸らした。悪いことをしたとは思っている様子だ。
沙耶香さんは所用があるとかで、今日の訓練は『路上教習』だけで終わった。正直、食べ過ぎでお腹が苦しかったので、午後の訓練が無いのは助かる。
その後、半日近くごろごろしていたが、胃もたれしていて夕食もあまり食べられない。
夕食後、母を伴って沙耶香さんがやってきた。
「退院は明後日の土曜日に決まりました。『小畠昌幸』さんの通夜と葬儀は翌週の月、火になります」
私が一通り行動を繕うこともできると見込まれたらしい。沙耶香さんによると「これ以上を望むならかなりの期間が必要」らしいから、頃合いなのだろう。
葬式は内輪だけで済ませてほしかったが、『私』の通夜が今の私にとって親戚や知人との初顔合わせになる。こういうことは一度にやってしまった方が良いらしい。
「ボロが出ませんか?」
「私が『看護師』として付いて行くから安心して。何かが起こる前にフォローします」
「看護師のフリなんて、まずくないですか?」
「こう見えても看護大学校を出てるし、資格も持ってるのよ。
私がここで貴女の指導に就いているのは、それもあるの。
詳しくは後で打ち合わせるけど、当日は合図したら体調不良を起こして下さい」
「仮病ですか?」
「体調不良です。難しければ私の方で起こさせますが」
「いえ、体調不良は起きるより起こす方が楽そうですから」
こういう時の沙耶香さんの目はちょっと怖い。「お薬の時間ですよ」とか言いながら巨大な注射器を持ってきそうだ。きっと銀縁の秘書風眼鏡も似合う。
「随分髪も伸びてきたし、お通夜には本来の姿で出られそうね」
「えっ?」となって触れてみると、確かにショートボブぐらいにはなっている。と言っても、全体的に同じ長さなので、後は不自然な形だし、前はぼさぼさで目にかかっている。
でも、いつまで今のペースで伸び続けるんだろう?
「沙耶香さん。切っても切っても伸び続けるなんてことは無い、ですよね。どれぐらいで収まりますか?」
「急激に伸びる期間は大体五日間ぐらいだけど、貴女の場合は分からないわ。歯が生え替わったのはずっと前だし。そこまで詳しく記録は残ってないのよ。
今しばらくは、二日に一回ぐらいは切りそろえる必要があるかもね」
とりあえず、伸びるのが止まらず、一生分使い切ることさえなければいいのだけど。
翌日は検診のみで、夕食後に沙耶香さんが連れてきた美容師さんに髪を切ってもらった。と言っても、髪をすいたり先をそろえる程度だ。それでも出来上がりを見るとやっぱりプロだ。
幸いその美容師さんは無口だったので助かった。逃げ場のないところで会話すると、今の私では絶対にボロが出る。多分、その辺を考えた人選だろう。沙耶香さんはこういうところが地味に的確だ。
一つだけ困ったのが、美容師さんが私にメイクをしたがったこと。どうせこの時間じゃあとは寝るだけなのに。
結局、翌朝にメイクをさせてあげるというところで落ち着いた。でも沙耶香さん、こんな遅くに引っ張った上、翌朝にもう一度仕事『させてあげる』ってどうなんだろ。
明けて翌日、朝食後にメイクをしてもらって退院となった。
待合室は大変な混みようだ。
真っ白な頭という純粋日本人には見えない姿が珍しいのか、待合室を通過するときに集中する視線が痛い。五歳ほどの女の子には指を差された。人を指差しちゃダメって躾けられてないのか?
帰路は高速を飛ばして一時間弱。昼前にようやく着いた。
車庫の中には一月前と変わらず私の車が鎮座している。幌には少し埃が積もっている。
「ただいま。あとで掃除してやるからな」
ボンネットに手を乗せ、小声で声をかけた。今度乗ってやれるのはいつだろうか。
車庫内の引き戸を開けると、子ども達の足音がやってきた。トトトトトッは三歳の息子、ペタ、ペタ、ペタは一歳の娘。
きっと、この一ヶ月というもの、勝手口の戸が音を立てるたび、こうやって走ってきたに違いない。
「お父しゃ、ん?」
周は怪訝そうな顔で私を見上げた。そりゃそうだ。見たことのない、しかも頭が真っ白な女の子が立っているのだ。
じっと見上げる周と目が合う。目が熱くなり、私の視界は歪んでゆく。
「あー、あー、あー」
円の「抱っこ」要求だ。人見知りの円が、初めて見た私に泣きもせず抱っこをせがんでいる。
精一杯高く抱き上げると、手足をばたつかせて喜ぶ。一ヶ月前よりも随分重いのは、入院中に私の筋力が落ちたからだろうか。でもその笑顔は一ヶ月前と同じだ。
と、周が私の右足に縋り付いてくる。
円を降ろし、膝立ちになって改めて二人を掻き抱く。
子ども達も抱き返してくる。
姿が変わってしまった私を、子ども達は家族と認めてくれている。
「ほら、二人とも、お姉ちゃんにお帰りなさいは?」
渚が子ども達に声をかけた。
「おーかーえーりーなーさいっ」
「かー、なー、しゃい」
渚も二人の子どもごと私を抱きしめた。周が苦しくなったのか抜け出す。
「おねぇちゃん、えんえんしてるー。お母ぁさんもー」
私は涙を拭いて周の頭をわしゃわしゃと撫でた。
二人の父親としてはいられないけど、家族としてなら側にいられる。
そもそも、死んでしまったら二度とこうして会えなかった。それを考えれば、今の私にはこれで十分だ。
十分ほど後、後ろから咳払いが聞こえた。
沙耶香さんが勝手口で荷物を持ったまま立っていた。
ごめんなさい! 忘れてました。




