お嫁入り
薄明かりの中、横で眠っている周、円を見る。
明日の今頃は、慶一さんの家か。
この数日、お母さんと話した内容を反芻する。
大丈夫! 私は幸せになる! それにこれが今生の別れになるわけでもない。車で一時間とかからないのだ。
翌朝、周を学校に送り出し、円を園に送る。
そして、今日ばかりは休みを取ったお母さんと、リクエストされていた煮物や常備菜を作り、タッパに納める。
「それじゃ、お母さん、行ってきます」
「行って『来たら』ダメでしょ」
「うん。行くね。時々は料理を持ってくるけど」
「期待してる。
子ども達からのリクエストは、逐一メールするから」
私は『私』の車で慶一さんの家へ向かう。
なんだか、慌ただしくもサラッとした別れだ。別に毎日だって戻ってこれるけど。あ、『私』の車、どうしよう? 廃車にするのは惜しいし、かといって置いといても意味が無いし。あと二月もしないうちに、新車が届く。それまでに考えておかないと。
考えているうちに、慶一さんの家の前。車庫には一台分のスペースが確保されている。きっと、そこが私用のスペースになるのだろう
並んでいるのは高級車。レクサスの大きいのはお義父さんが遊びに行く用。メルセデスのハッチバック車はお義母さんの買い物車。
先日は車庫にあった、レクサスのお高いセダンと慶一さんのクラウンは、今は会社なのだろう。あれ? お義姉さんのボルボがある。お義姉さんは会社をお休みしているのかな?
一旦、客用のエリアに車を停めて門をくぐる。
呼び鈴を押す段で、かなり緊張する。思えば、荷物を運んだときも常に慶一さんと一緒で、私一人は初めてだ。
女は度胸! 私は呼び鈴を押した。
返事はインターホンではなく足音で、すぐに玄関の戸が開いた。お義姉さんだ。
「おー、昌ちゃん、時間ぴったり」
「こんにちは。あの、車で来たのですけど、停める場所はあそこでいいですか?」
「昌ちゃん用の場所は、車庫に作ってあるよ。お父さんのバイクとおもちゃを全部どけたから。
どうせ、十年以上乗ってないし、今更乗っても事故のもとだし」
「ありがとうございます」
「へー、こんな車、意外ぁーい」
「これ、亡くなった父の形見なんです。捨てるのも惜しいし、しばらくだけでも乗ってあげれば、お父さんも喜ぶよって、母が」
予め準備しておいた言い訳を伝える。
「よかったら、あとで運転させて。スポーツカーとかオープンカーなんて、乗ったこと無いから」
「いいですよ」
車庫に納めると、ミスマッチだ。高級車が並ぶ中に、平たい国産スポーツカー。
「今日は玄関からだけど、これからは車庫の奥の勝手口からね。
これは勝手口のカギとシャッターのリモコン。シャッターは大抵開いてるけど」
「ありがとうございます」
「そんな、緊張しない! 言葉遣いも、もっと砕けた感じにしてよ。まさか、慶一ともそんなしゃべり方?」
「いえ、でも、年上ですし」
「もう姉妹なんだから、そういうつもりでね。今すぐは難しいかもだけど」
「はい」
ここは「うん、おねえちゃん!」が正解なのだろうか?
ところでお義姉さん、今日は仕事、いいのかな? 疑問をぶつけてみると「明日の披露宴の準備や、何より主賓との打ち合わせが要るでしょ」とのこと。秘書課の加賀見さんからの指示らしい。
同じ総務の女子職員も、一人がホテルで打ち合わせているとか。そんな一大イベントなのか?
お義姉さんによると、式のときの席次やテーブル割りには案外気を使うらしい。
「男って、こういうの気にする割に、だらしがないから」
そう言いながら、腹式呼吸で笑う。
やはり、総務課の女子職員というより、体育教師な感じだ。案外、沙耶香さんと気が合うに違いない。
玄関に戻ると、お義母さんが姿を見せた。上がり框の奥は、普段は素通しのガラス窓を挟んで中庭が見渡せるが、今日は金屏風を立ててある。
私は畳に正座――本当は苦手だけど――して、頭を下げる。
「不束者ですが、宜しくお願いします」
お義母さんも、完璧に作法に則った所作で、頭を下げる。
会食のときも思ったけど、いいとこのお嬢さんだったんだろうなと、場違いなことを考えてしまう。
でも、慶一さんはともかく、お義姉さんは随分印象が違う。目鼻立ちは似ているけど、体つきや身体の動かし方が、お義母さんとはまるで違うのだ。別にガサツってわけではないけど。
そのお義姉さんの「暑いから、客間に行くよー」という声で、私たちは場所を移した。
客間に入り、明日の打ち合わせ。と言っても、メイクも着付けもこの家でするので、少し早起きする以外はどうということもない。
「昌ちゃん。料理とかは出来るよね」
「普通の家庭料理程度ですけど、一通りは……」
「それじゃぁ、あとで一緒に買い物行きましょ。主に行く店は三件ぐらいだけど、一通り教えとくから」
今日、お義姉さんが打ち合わせと称して家に居るのは、お義母さんとの緩衝役なんだろうな。
今夜は仕出し屋の料理になるが、明日からは普段通りだ。
試しに明日の夕飯の副菜から、ということになり、お義姉さんが『私』の車を運転して、数軒の店を巡ることになった。
ハンドルを握った手を見ると、拳だこがある。訊いてみたら、小学生から空手をしているとのこと。小学生の頃、型の部門で全国大会にも出たとか。
高校以後は実践的な方に変えたが、そちらではあまりぱっとしなかったそうだ。確かに、体育会系ではあるけど、沙耶香さんのような強者の風格みたいなものは感じない。
と言っても、光紀さんや高桑さんみたいに、全然強そうに見えないのにシャレにならない強さの人もいるけど……。
やはり店ごとに特徴があって、お魚がいい店、野菜がいい店、お惣菜とタイムセールがいい店等々。私が台所を任されたら、野菜とお魚が重要だから、少なくとも二軒ハシゴだ。
この地域は客層が良いのか、ちょっと高いけど品が良い。とくに、ショッピングセンター内の乾物屋さんは良いものを置いているし、例の扱いが少ないだしの素も薬局で買える。今までは遠くの店でまとめ買いだったことを考えると、とても助かる。
私が作るのは、基本的に和食だ。和食は、出汁と食材の下処理さえちゃんとしておけば、まず失敗しないから、この材料は重要。
ショッピングセンターでは、乾物屋で昆布、干し椎茸、八宝出汁を買う。薬局ではだしの素だ。本当は、醤油や味噌も買いたいけど、この辺はそれぞれの家の味というものがある。
「昌ちゃんって、普段から干物で出汁をとるの?」
「はい。その方が美味しいし、身体にも良いし。でも、これも使いますけど」
家に着くと、今度は勝手口から入る。
「おじゃまします」
「『ただいま』、だよ」
「た、ただいま」
「お帰り、昌ちゃん」
お義姉さんは、私にすごく気を使ってくれている。