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ひめみこ  作者: 転々
第二十章 新生活に向けて
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秘書室長の直帰

「加賀見君、午後の打ち合わせが、先方の都合で二時半からになったんだが、問題ないかな?」


「はい、常務」


 加賀見(かがみ)敦子(あつこ) 四十一歳。バツイチ子持ち。

 秘書課の最古参で、一昨年より高橋常務の秘書と秘書室長を兼務しています。


 常務は現社長の息子で、跡取りと目されています。私の役目は秘書と言うより、未来の社長に悪い虫が付かないようにする『虫除け』と『お目付役』です。




 常務は――間に幾人か挟んでから――いずれは社長と目されていますが、初めてお会いしたときには、とても社長の器には見えませんでした。

 単純な事務処理能力、問題解決能力に限れば、現社長よりも良いものを持っているようですが、人の上に立つ覇気のようなものが欠けています。人を従わせる、当世風に言えばオーラのようなものが足りません。


 でも、この一年ほどでしょうか、周囲の見る目が変わってきたように思います。今も別の部下に指示を出していますが、言葉の重みが変わってきました。そして何より、目に見えて残業や休出が減りました。

 これは、秘書課の人間としても非常に助かります。娘も十四歳で手がかからなくなってきたとは言え、シングルマザーはなかなか時間が無いのです。


 立場が人をつくるということもあるのでしょう。最近の常務は覇気に溢れています。

 この春から生産技術課に異動しましたが、高校では理系だったからか、自分の得意分野を活かせると考えているのでしょうか。

 やはり、仕事に夢中になれる男には、独特の色気のようなものがあります。目が肥えている秘書課の女子社員の視線も変わってきているようです。

 今後は『虫除け』の仕事も増えるのかも知れません。


 閑話休題。今日も、工作機械メーカーを訪問します。




「加賀見君。今日は直帰にしましょう。帰り支度もしておいて下さい」


「はい。常務は社にお戻りになりますか?」


「私も直帰だ。打ち合わせの後、少し個人的(プライヴェートな)な用事がある」


 いつもは公共交通機関を使うことが多いのですが、今日は珍しく自分で運転するようです。打ち合わせは街中の営業所ですから、その後の用事に足が必要と言うことでしょうか。




 打ち合わせは予想外に早く終わりました。常務が資料をアルミケースに入れ、車のトランクに仕舞います。


 私は、地下鉄の駅近くで降ろしてもらいました。


「それじゃぁ、また来週。お疲れ様」


「お疲れ様です」


 一人でということは、本当にプライベートな用事のようです。表情からも、それを心待ちにする雰囲気が伝わってきます。

 常務にも遅い春が訪れたのでしょうか。




 私は車を降りると、気持ちを仕事モードから個人モードに切り替える。確かに今から社に戻っても十六時を回る。定時まで実質三十分程度では、大した仕事も出来ない。わざわざ時間と交通費をかけて、社に戻るのは効率が悪い。 

 さて、ショッピングの前に、コーヒーでも一杯。


 私は地下鉄でターミナルまで行き、半地下の喫茶店に入った。夕刻には早いが意外と混んでいる。


 店内を見渡すと、衝立の向こう側のテーブル席が空いている。

 と、思ったら、観光客だろうか? プラチナブロンドの小柄な女性が座っている。この場に不釣り合いな存在感で、自然と人払いが出来ているようだ。

 私には関係ないけど。


『相席、宜しいですか』


『どうぞ』


 英語で言葉を交わしたときに、目が合う。


「日本語でかまいませんよ。どうぞ」


 彼女は言い直した。


 天使か女神か……、美貌の少女だ。

 顔立ちは日本人だけど、髪の分け目を見ても根元から白い。肌も抜けるように白い。目も青いということはハーフなのかも知れない。


 娘より一つ二つ上だろうか。留学生? モデル?


「日本語がお上手ですね。どちらのお国から?」


「日本人ですよ。ちょっとそうは見えないかも知れませんけど。

 目や髪の色は、病気と治療の副作用なんです」


 少し悪いことを聞いてしまった。

 でも、見れば見るほど美しい。芸能人でもこれほどの美貌は……、あれ? 薬指にリング。


 台座はプラチナだろうか、中央にはブルーダイヤ。おそらく彼女の髪と眼の色に合わせたのだろうけど、これは高い。安く見積もっても百二、三十。いえ、実際は百五十万を下らないだろう。

 彼女の見た目はせいぜい十五、六。そんな少女には似つかわしくないリングだ。




 私はいつものオリジナルブレンドを注文した。

 彼女が飲んでいるのは、ほうじ茶だ。それもまた、似つかわしくない。


 世間話を装って、彼女と会話する。最近のニュース、書籍、芸能関連……。

 芸能関連には疎いようだが、ニュースや社会問題についてはかなり詳しい。そして、ちょっとした言葉の端々に教養を感じさせられる。それも、テレビなどからの耳学問ではなく、きちんと勉強して得た知識であり、考え方だ。

 ウィットに富み、ときには古典からの引用もあり。一歩間違うと親父ギャグになるような語呂合わせもある。

 ここまで頭の回転が速く、私と大人の会話を出来る相手は、少なくとも秘書課には居ない。今すぐにでも名刺を渡して、社の人事課に話を通したくなる。




「少し……、立ち入ったことをお伺いしますけど、その指輪、もしかして婚約されているのですか?」


 そう聞いた瞬間、輝くような笑顔と共に「はい」という返事。

 これほどの少女にこんな表情をさせる相手とは……。


「申し訳ありません。どう見ても、中学生か高校生ぐらいにしか、見えないのですけれども……もう少し上なのでしょうか?」


「十九です。いろいろ事情はありますけど」


 そして、愛おしそうに指輪に触れる。


「今日は、結婚写真の前撮り打ち合わせなんです」


 お相手はどんな方だろう? 私は少し興味が出てきた。これほどの女性の心を射止めるのだ、なかなかの人物に違いない。

 夫と分かれて十二年、たまにはそんな男性を鑑賞してもバチは当たらないだろう。




 それからしばらく話していると、彼女の顔が再び輝く笑顔になる。視線の先を追うと……、って、ぇえっ! 常務!


「や、(あきら)さん。待たせて済まない。

 っ! か、加賀見君、なんでここに?」


 これは、楽しいことになってきました。




「全くの偶然です。常務、こちらにおかけになって下さい」


 意を察したのか、昌さんが一席ずれて、私の向かい側を空けました。麦わら帽子とバッグを膝に乗せる姿が愛らしい。


「常務、ご婚約おめでとうございます。

 できればこういうお話は、早めにお伺いしたかったのですが」


「ちょっと込み入った事情があって、そちらを優先しているうちに言いそびれていただけで、別に隠すとか、そんなつもりは……」


「別に責めているわけではありません。

 むしろ、これほどの女性の心をよく射止められたと感心しております。加賀見は部下として心より祝福したいと思います」


 ふふっ。こんな表情の常務は久しぶりです。


「ところで常務、法に触れるようなことは、ございませんね」


「無い。……はずです」


「ありませんよ」


 横から、助け船が入りました。


「慶一さんとは、初めてお会いしたのは随分前ですが、一緒にお食事をしたりというのは二年ぐらい前からでしょうか。

 私が十九になるまでは指一本、ぐらいはともかく、手を握る以上のことはありませんでした。

 十九になってからは、指二十本どころではありませんけど……」


 それを聞いた瞬間、常務はお冷やを吹きそうになります。真っ赤になった顔には汗もうきあがってきました。逆に、隣の昌さんは涼しい顔です。




 別れ際、常務から、この件については披露宴の日程が決まるまでは黙っていて欲しいとお願いされました。併せて、披露宴の日程調整も。

 もちろんですとも。それもまた、秘書の勤めですから。




 ショッピングの時間が無くなってしまったので、夕食の買い物のみで帰宅の途につく。その道すがら、先の少女が思い出されます。


 あれほどの女性、常務にとっては、この上ない良縁、望んでもなかなか得られない縁だと思います。

 いずれ尻に敷かれる未来しか想像できませんが、外ではどうあれ、家ではその方が良いのです。


 でも、それにしても、あの常務が、ねぇ……。

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