次席比売神子の回想
突然の着信音で起こされた。
ったく、……一体何時だと思ってるのよ。
時刻は五時過ぎ。早朝も早朝。
昨日は少しばかり飲み過ぎたのか、やや頭が重い。
休暇中だってのに……。手探りで携帯をとる。
「もひもしぃ?」
「私です」
「ひ、比売神子様っ」
一瞬で背筋が伸びる。発信者を確認すべきだった。最初のがらがら声での「もしもし」は無かったことにしたい。海外なのでいつものスマホからフリップ式のに持ち替えたのがアダになった。
「休暇中に申し訳ありませんね。そちらは何時ですか?」
「朝の五時です。そちらは夜の九時過ぎですね。遅くにお疲れ様です」
「十六時間ですか、かけるのは明日にすべきでしたね」
「いえ、もう出ちゃいましたからお話し下さい。休暇中にわざわざかけてくるということは、緊急ですね。
もしかして『血の発現』を迎える人がいるのですか?」
「その通りです。ただし、今回は状況が違いますので、沙耶香さんには看護師としても協力をお願いします」
「発現の年齢が高いのですか?」
「三十代後半の男性です」
三十代は発現年齢としては最高齢と言っていい。体力次第では後遺症が残るかも……って、
「だ、男性?」
「そうです」
一気に目が覚めた。男性に『血の発現』が起こった記録はほとんど無い。
「急いで帰ります」
「お願いします。
飛行機はそちらの時間で、明日の朝一のものしか押さえられませんでした。空港近くの宿も押さえて貰いましたから、今日はそちらに移動して下さい。
細かな指示と対象者の資料はメールに添付しました。費用は後で精算しますから、宿と飛行機以外は一時立て替えておいて下さい」
相変わらず手回しが良い。
私は一路空港へ向かう。今日一日なら観光できなくもないけど、その気になれない。
『血の発現』自体は、それほど驚くことじゃない。多いときには年に数人がそれを迎えることもある。高齢での発現も今なら怖くない。
一番怖いのは変容に伴う発熱と脱水だから、輸液をはじめとした対処療法さえ十分なら、命に関わるようなことにはならない。それでも後遺症の心配は残るが、少なくともこの二十年はそういった事例は――一時的な記憶障害を除けば――起こっていない。
しかし男性となると話は別。まず臨床の記録がない。変容がどのように起こるかはもちろん、その期間さえ不明。
意識を失って既に六日、時差を入れれば実質七日。私が着く頃には十日は過ぎている。
通常なら変容がほぼ終わっている時期だけど……。
医療の方向からできることは限られている。とりあえずは、家族へのケアと、『彼女』が目覚めてからの対応が重要になりそうだ。それも、無事目覚められれば……の話。
「問題は、心理面でのケアなのよね」
妻子持ち、しかも子どもが二人と言うことは、その人格が男性であることは疑いない。
目覚めたときの自身の変化に精神がもつかしら? 死んでいないというだけで、生きているにはほど遠い状態になるかもしれない。
そして、それを乗り切ったとしても、別人として肉体の性にあわせた生き方をしなくてはならなくなる。
とりあえず、そういった資料をあたる必要がありそうだけど……。
「あるわけないわよね。
こういう場合、心の性に合わせるのが医療の立場なんだから」
タブレットで検索を繰り返すが、有益な資料は見つからない。
昼食後、私はある資料を見つけた。
その当事者を主人公とする小説がいくつも連載されている。大多数は未完だが、これが案外おもしろい。
これは、帰りの飛行機での暇つぶしができた。
それらをタブレットにダウンロードしつつ資料を探すが、それ以上のものは見つからない。知らないうちに夕食時間になっていた。
翌日、私は機上の人となり、タブレットで読み進める。
この寸止め感が中高生の心をくすぐるのだろうか。今後、神子達の指導に活かしていかないと……。
「でも、ビジネスクラスでワインを飲みながらネット小説とはね」
読み進めるうちに、いくつかの共通項を発見した。
主人公が社会へソフトランディングできたものの多くは、母親か姉が『娘』ないし『妹』を溺愛している。
その美貌を褒め、『女の子らしい』かわいい洋服を着せ、言葉遣いや仕草を修正してゆく。
これは一見して荒唐無稽な行動だが、よくよく考えてみると極めて理にかなっている。
溺愛することは「あなたを拒絶しない」「今のあなたを受け入れる」という言外のメッセージとなる。
これは、変容したことで自分の存在に対して疑問を感じている当事者にとって極めて重要なことだ。特に男性というのは潜在的にマザコンだという。母親や年長の女性からの承認は、極めて重要な意味を持つに違いない。
恐らく原作者の多くは男性だ。小説の大半で母親からの承認を経るのは、作者がその重要性を本能的に理解しているからだろう。
そして、かわいらしい服装をさせることで、否応なく自分の性を理解させる。本来なら小学校の低学年あたりから学び育ててゆく女性としてのアイデンティティを、短期間で理解させるために形から入る。そう考えれば、この共通する展開は極めて合理的で、非常に重要な意味を持っている。
私は意外なところから示唆に富む情報を仕入れることになった。帰国後は、先ずその部分について打ち合わせる必要があるだろう。
対象者の資料にも改めて目を通した。最初に送られてきたのとは違い、内容は詳細で、写真まで付いている。
通常、私は相手の資料を詳細に見ることはしない。『血の発現』を迎えた以上、これまでの人生は捨てなくてはならないし、先入観を持たないためにもその方が良いと考えるからだ。
しかし、今回は事情が事情だ。プロフィールは見ておかないと。
「へぇ、ちょいとイイ男じゃない。こっちが高校時代で、こっちが中学時代か……。男の子でこんだけ可愛いなら、会うのが楽しみだわ」
帰国当日は移動に費やし、明けて翌日、私はご家族に会うこととなった。
対象者の母親からの連絡が発見に繋がったそうだが、それにしても、男性に『血の発現』が起こったのをよく発見できたものだと感心する。
事情を聞くと、彼女の叔母だか従姉妹だかが、比売神子ではなかったものの、血の発現を経験していたらしい。
下痢や嘔吐、発熱が起こっているにも関わらず、その段階では白血球の値に変化が無いのは『血の発現』の特徴の一つだ。例外的な状況にもかかわらずそれを疑い、連絡をしてきたらしい。
本来なら関係者の連絡先も分からないはずだが、元候補者のつてを頼って接触してきたという。子を想う親の心のなせる業だ。それだけに会うことに心構えが必要だった。
当事者の母親と奥さんに会った。
二人ともやや憔悴していたが、母親は美しく老いることができた品の良い女性だ。奥さんも、華のある外見ではないが、楚々とした女性で、理知的な表情をしている。
血縁関係は無いはずだが、この二人が親子だと言っても信じてしまいそう。多分『小畑昌幸』さんがマザコン気味で、母に似たタイプの女性を選んだに違いない。
彼女達に、私自身も『血の発現』を経た神子の一人であること、『小畑昌幸』さんが世代も性別も違う人間になってしまうこと、その過程で命の危険があることを告げた。
二人は既にそのことを知っていたのか落ち着いて聞いていた。
その後、『小畑昌幸』さんが意識を取り戻した後のことを打ち合わせる。母と妻が『彼女』を受け容れることの重要性については、拍子ぬけするほどあっさりと納得してくれた。
「姿が変わっても、昌幸さんは昌幸さんです」
あどけない少女の寝顔を一瞥しての言葉が印象に残った。
でも、私は知っている。
彼女は抜け落ちた夫の歯を大切に仕舞っていた。
それは変容後の要素を含まない、およそ唯一の部分だった。