命名
「これが……、あたし」
鏡の向こうには、少し大人っぽくなった美少女が艶然とほほえんでいた。メイク前の私はキレイ系ではなくカワイイ系だったのに、今の姿は明らかにキレイ系寄りになっている。
自分の内面にふわっとした感覚が湧き上がると、少女の表情は更に柔らかいものになった。
魅入られていたのは数秒だろうか。
脱衣所から出てベッドに座ると
「これなら外出もOKですね。どこから見ても完璧!」
沙耶香さんが嬉しそうに言う。
確かにこの姿を見られることへの抵抗感は、不思議と消えている。むしろ、明日の外出を心待ちにしている自分がいる。
化粧一つでこれだ。外見は人の心の在り様まで変えてしまうのだろうか。そう言えば、認知症が化粧で改善した『化粧セラピー』ってのを新聞で読んだことがある。
「そのメイクだったら、こっちのワンピの方が合うんじゃない?」
渚が私にワンピースを渡してくれた。私はそれを受け取ると、カーテンを閉めて手早く着替えた。
ボタンをすべて留め、カーテンを開ける。三人の前でクルリと回って、ニコっと微笑んだ。
あれ? こんなことをするなんて……。私、どうしちゃったんだろう?
「やっぱり、こっち! こっちの方が絶対、昌幸さんのイメージに合うよ」
渚は手を叩いて勧める。うん。じゃぁこっちにしよう!
「ところで、この外見だと『昌幸』ってのは変ね。明日はどう呼べばいいかしら?」
あ、忘れてた。名前の候補決めてない。
「名前を決めなきゃ! 沙耶香さん、とりあえずその前に、化粧の落とし方、教えて下さい」
もったいないと言いながらも、沙耶香さんは脱衣所についてきてくれた。
脱衣所でクレンジングを始める。ふぅ、世の女性はこんなめんどくさいことを毎日してるのか……。
と、沙耶香さんが耳元で囁いた。
「気付いてる?」
「?」
「鈍いわね。奥さんもお母さんも、貴女の前では努めて明るく振る舞ってるのよ。貴女は愛されてるってこと。
でも、気付かないふりでそれに乗っかるの。それが大人の女ってものよ」
「『大人の女』ですか……」
よく分からない。いや、少し分かるような気もするけど、素直に受け容れられない。まるで化粧を落とすとともに、女の子の魔法が解けていくみたいだ。でも、明るく振る舞うことは出来るはず。
私は努めて笑顔で病室に戻った。渚は命名辞典を開いている。
「子ども達が円と周だから、あなたは環境の環で『たまき』ってどう?」
「あ、それ良いね。小畑環か。響きも悪くな……、いや、やめとこう」
「どうして」
「小畑環って、早口で十回言ってみてよ」
「小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環、小畑環」
「渚って、滑舌良いね」
「声優目指してたし、劇団も経験してるから」
「それ、初耳だよ」
「今の若い子ならともかく、私の世代でそれって、むしろ隠しておきたい過去だもの」
「あー、でもそれで昨日のアドバイスか。
小畑環って早口で言うと、オマタタマキになるでしょ。で、シモネタ大好き世代の男子だったら、オマタ○マキンってなるのが予想できるもん。
名前でからかわれるのは嫌だよ」
「あなたもシモネタ好きでしょ」
「シモネタは嫌いじゃないけど、シモネタのネタにされるのは嫌だよ。同じ理由で、薫子とか更紗なんてのも絶対駄目」
「あなたって、本っ当にシモネタが好きね。でも、それ言いだしたら大抵の名前が駄目じゃない」
「うーんそうだなぁ」
一時間後、結局『昌幸』の昌をとることになり、最終候補は、昌子、昌美、昌代、昌。
渚が訓読みにこだわった結果『昌』に決まった。
夕食を食べそびれた私たちは、病院の軽食で夕食をとることにした。でも、患者である私は病院で出された食事でなくても良いのかなぁ? と思いながら、まだしも消化の良さそうな素うどんを選ぶ。本当は油揚も食べたかったんだけど。
母と渚の二人を見送ると、沙耶香さんも帰り支度を始めた。
「今日は遅くまでお疲れ様です」
「いいえ。予想より進歩が早くて、こちらも驚いています。もっと服装や言葉遣いを変えるのに時間がかかると思っていましたから」
「そうなんですか? 私としては選択の余地が無かっただけなんですけど」
「今回の件にあたって、相当に予習したんですよ」
「予習、ですか? 私の様なケースってちょっと例がないと思いますが」
「そうね。いわゆる性同一性障害だったら、全く逆のアプローチですし、ニューハーフだったら望んで適合手術を受ける訳だし……。心療内科や心理学、カウンセリングの本を見ても、直接の指針になるような情報は無かったわ」
性同一性障害やニューハーフは違うと思うけどな。予習の方向性がちょっとずれてる気がする。
「で、何を参考にされたんです?」
「インターネットで調べてたら、こういう事例をテーマにした小説がかなりたくさんあったのよ。それを参考にさせてもらったわ。
でもね、貴女の場合は恥じらうポイントが違うし、逆に服装や所作はすんなり受け入れるし、現実は小説とは違うわね」
あー、それであの小説か。
でも根本的なところで間違ってる気がする。小説なんて参考になるわけ無いじゃない。あれはあくまで読者を楽しませようと思って書いてるものだし。
「まぁ、異文化との接触はエンターテイメントの基本だから、この手の小説は昔からありますよ。
私も小学生のとき、幼なじみの男女の心が入れ替わる設定の本を読みました。それって確か、ドラマにもなってなかったかな?
でも、結局その手の小説は、自分だったらどう感じるかとか、どんなときに困るかとか、それがベースだから、書き手によって違ってくるし、直接の参考にはならないと思います」
「そうね、実際は、個々の実情に即して、柔軟に対応して行くしかないのよね」
「それって要するに、『行き当たりばったり』ってことじゃないですか……」
「人生なんてそんなもんです。女は度胸よ」
なんだか、第一印象と全く違う人だ。切れるのか天然なのか何も考えてないのか……。
「何はともあれ、いろいろありがとうございます。明日も宜しくお願いします」
「こちらこそ。じゃ、また明日ね、昌ちゃん」
なぜか分からないけど、『昌ちゃん』に私は赤面した。