自分探しドッペルゲンガー 上
男は、その家の主をハンマーで殴り殺した。頭蓋をかち割ったその一撃で、黒髪から赤色がにじみでた。仕留めた感覚が男の手に、腕に、頭に、残っている。
殺された家主は、弱視だったらしく、抵抗できないままあっけなく、男に殺害された。
男は、興奮で息が荒かった。
しかし、頭は冷めていた。
この人物を殺すことが、一番自然だと思ったからだ。
死んでしまえば、地位も、名誉も、力も、その人物がどれだけ愛されていたかも、重要でなくなる。それらは、決して死人の行く道を左右できない。
「たとえ、どんなに有名な作家先生でもな」
ハンマーを握る手をゆっくりと開いた。するりと凶器は落ちて、重たい音が血塗られたフローリングを揺らした。
「これで、俺は自由だ」
生みの親とも呼べる、自らのルーツを殺した。
男は、死人の顏が自分とそっくりすぎて、嫌気が指した。それを見るだけで、自分の最期を連想させる。胸糞悪い自らの原初。
この分身を抹殺したことで、男はこの世界で初めて自由になれた。この先の人生は可能性に満ちた明るいものだと信じられた。
「これからどうすっかな……。そうだな、せめてこいつの分まで幸せに生きるとするか」
彼は、殺した相手に心からそう言える、不遜な男だった。
Imitation
彼は、旅の途中で、洋食屋の店主の思い出話を聞いた。
若い頃は怒りや夢に溢れていたと、懐かしがっていた。内側にエネルギーを蓄えて、放出する機会を待っていたのだという。
目の前の老人はぼんやりと自らのしわしわな手の甲を見た。
「私も、あなたくらいの頃、世界中を旅をしたことがある。住んでいた町は田舎で、なにもなかったから、旅をすることが一番自然なことに思えた」
「で、どうだったの? その旅は」
老人に向かって、白髪の青年が尋ねた。
「あんまり得たものは少なかったあ」と老人は照れくさそうに笑い、続けた。
「きっと、自分探しのように思っていたのだろう。自分など世界中探しても、この身だけだというのに。結局残ったのは、家を空けていたことに対する、家族の呆れ顔だけだったよ。あなたはそんな愚かなことはしてはいかんよ」
――時間の無駄だよ。そう老人は彼を見やった。
「自分探し、ねえ。抽象的な疑問は答えなんか出ないってことかな」
「そうかもしれないね」
開いた窓のから入る風は、この会話くらい、とらえどころがなかった。
自己とはなにか。
どこまでが内側で、どこからが外側なのか。
何のために生き、何のために死ぬのか。
抽象的な問いに具体的な答えなど出るはずもない。
「ところで、あんた変わった腕時計持ってんな。目盛がおかしいな。一周が七時で終わっている」
「ああ、気にしないでくれ。趣味なんだ」
彼は慣れた質問とばかりに、残ったスープを流し込んだ。
そこで、思い出したように。
「あ、世界中を旅したんだよね。ニッポンに行ったことあるのか?」
「ああ、あるよ。勤勉な民族の住む、治安の良い国だった。自然が豊かだが、科学技術の進歩は遅れていたように思う」
もう四十年も前のことだがな、と老人は付け足した。
彼は時計を見て、席を立った。
「おっと、こんな時間だ。ありがとう。うまかったよ」
そう言って、オムレツと根菜のスープ、コーヒーの代金を机に置いて、荷物を担いだ。
「旅なんかやめて早く家に帰りな」
「まあ、そうだな。ニッポンで旅は終わる予定さ」
彼は旅人。白髪と緑の瞳。
店の戸をくぐろうとしたとき、老人に問われた。
「一体、なんの旅なんだい?」
彼の顏は店外の光でシルエットとなり、わかりにくかったが、口元だけは笑っているように見えた。
「自分探し」
彼は店を出た。
Origination
シンジュクの喧噪から少し離れた病院。
その病室の窓から見える景色は、もうどれだけの季節を移ろったか、彼に思い知らせるように、四度目の春色を迎えた。
ナツメの風貌は特徴的で、あんまり目立つものだから、病室から出るのすら億劫になっていた。彼にとって、窓の景色だけが外界との接点だった。
「こんな髪と目じゃあな」
白髪頭とグリーンの目。病のせいでなく、家族でただ一人生まれた、特殊な風貌だから、治しようがない。
もっとも――ナツメの患いもまた、治しようのないものではあった。少なくとも、時間が解決してくれる類の病気ではない。
「身体の調子はどう? 兄さん」
ナツメの弟、スグルが病室に入ってきた。手には紙袋。黒い髪に黒い瞳の、ニッポン人の普通の容貌だ。
「まあまあだ」
来客に、さすがの彼も小さな笑顔を作った。
「兄さんが言っていた本、借りてきたよ。これで全部だよね」と、スグルは紙袋から五冊のハードカヴァーの小説をテーブルに広げた。
「ああ、いつも悪いな」
ナツメは、別にテーブルの隅に避けてある積まれた本を指して「あれは返しておいてくれ」とスグルに頼んだ。
「なにか、気に入った本はあった?」
――そうだな、と少し思案。
「『かめったろす』の『ダブル』は良かったよ」
「ああ、あれね。兄さん昔からホラー好きだよね。どんな内容だったの?」
「……自分そっくりの人間がここじゃないどこかにいて、そいつが主人公を何度も殺しに来るんだ」
「そっくり……ね。ドッペルゲンガーみたいだ」
「そう、ドッペルゲンガー」と、彼は人差し指を弟に向けて、続けた。
「作中でもその言葉がよく出てきた。お前、ネタバレとか気にする?」
「ううん」と首を横に振る。
「『ダブル』のオチ。それは、自分とそっくりのドッペルゲンガーが殺しにくるんだけど、主人公こそが偽者、ドッペルゲンガーだったという真相だったんだ。つまり、殺しにきた奴が本物だったというわけ」
「ははは、それは面白いね。でもなんで主人公、偽者は狙われたの?」
「単に自分がもう一人いるっていうのは気持ちが悪いってのもあるが、理由は別にある」
「別?」
「ドッペルゲンガーと見つめ合うと、本物の方が死んでしまうらしい。だから、本物は自衛のために、見つめ合わないぎりぎりで主人公をなんども襲ったってわけ」
「なるほど」
「あんまりよくできた本だったから、夢に出てきそうだ、ドッペルゲンガーが」
ははは、とスグルは笑った。
「じゃあ、僕はもう帰るよ。欲しいものがあったら電話して」
弟は再び本を詰めた紙袋を持って病室を後にした。
◆
その日の夜、彼は夢を見た。
家族と共に過ごし、仕事をして、社会に参加する自分。病気がなければ手に入れられたすべてを、並べたような甘く、そして遥かな夢だった。
髪と瞳の色は気にならない。些末なことに思えた。自己肯定感にあふれていた。
「やっぱり兄さんは頼りになるなあ」
「夏芽がいて、助かるわ」
「いつもありがとう」
家族の言葉が原動力になっていた。
――そうか、人のために生きるというのはこんなにも尊いことだったのか。
どんな本にも書いてある、誰かのために生きろという投げやりなメッセージの意味が、彼には理解できた気がした。
しかし、夢の終わりが近づいていた。
万能感あふれる自分は、ゆっくりと俯瞰され、気が付けば彼は傍から見つめる傍観者になっていた。幸せな輪の中にいる彼は本当の彼ではなく、偽者だ。彼は偽物の幸福を指をくわえて見なくてならない。
「いやだ……」
俯瞰され、遠ざかり、手は届かず、偽者が、かすかに振り向き、悪意のある笑みで、こちらを見た。
「いやだ!」
叫ぶように目を覚ました。病室の時計の針は午前三時を示していた。
テーブルの隅には、スグルが忘れていった『ダブル』が残されていた。
Imitation
ニッポンの首都シンジュク。車と人と建物で、目が回りそうで仕方がなかった。広告に囲まれ、人々の話声とせわしない足音は幾重にもかさなり合う。これは何かの洪水だと思った。
「アールが言うには……目的の病院は西口だったな」
アールというのは彼の仕事の上司だった。
駅の中で三十分は迷った。出る改札を間違え、西口だけで複数あり、二階からは地上へ出れず、やっとの思いで駅から出ても、風俗街に行きついてしまうといった具合だった。
「なんで駅の近くにあんなの作ってんだよ……」
――子供だって電車使うんだぞ。
ともあれ。
駅から出てしまえば、彼の目的地は近かった。急ぐ必要はない。旅の終わりに浸るため、少し寄り道がしたかった。
彼は駅から少し西に歩いた、喧噪に穴が開いたように静かな喫茶店を見つけた。
◆
木の階段を六つ上り、童話の屋敷のような扉を引くと、出る客とすれ違った。
軽く会釈をして中に入った。
「いらっしゃませ!」「いらっしゃいませ!」と元気のいい声が重なった。
そっくりのウェイトレス二人がいた。一人はカウンターに、もう一人はテーブルの一つを拭いていた。癖毛の跳ねた位置まで見分けがつかないほど瓜二つだった。
「席までご案内しますね!」
一人が彼を誘導した。大きな窓に迫る開放的な席だった。
こちらがメニューになります、と彼の机に冊子を置くが、彼のまじまじとした視線にウェイトレスは戸惑った。
「あ、あの、私の顔に何かついてますか?」
「いや……そこの人とそっくりだったから、驚いて。双子?」
「そうですよ。ここは双子が営む喫茶店です」
「すごいね」と彼は相槌を打ったが、何がすごいか、彼には説明できない。ただ、本心だった。その欠片を口に出す。
「あのさ、世界にもう一人同じ顏がいるってのは、どんな気分なんだ?」
「いきなり不思議なこと聞きますね」とカウンターの方にいる一人が、カップを拭きながら応えた。
「私は好きですよ。ほら、たとえどんなに親しいお友達でも、共有できる趣味や感覚は限られているでしょう?」
「うん」
――たしかに、と心底納得した。彼には友達と言えるかもしれない男がいた。その不遜な顔を思い浮かべて相槌をした。
「私たちは、そんな壁を簡単に越えられるくらい、理解し合えているんです。それって素晴らしいことじゃない?」
「……そういう考えはすごい新鮮だ」
彼は何か気が付けたような気がした。使い捨ての命だと割り切っていた心に、かすかな光がさしたような気がしたのだ。
「ありがとう。もっと二人の話を聞かせてくれないか?」
「いいですよ」「いいですよ」
一人のウェイトレスが、ちらっと彼の手の下にあるメニューを見た。
「あ、とりあえず、コーヒーで」
Origination
心臓の筋肉が徐々に衰えていく病気と、医師から説明を受けた。難しい病名も聞かされたが、それを知らなくても自分は奇跡を待たなければ助からない身の上だと、早い段階で彼は理解できた。
運動すれば息が止まらず、鼓動を速めると張り裂けるような痛みを伴った。
病室での生活の、初めの一か月目。
ナツメは、その容姿が話題になるのが嫌で、個人部屋に移りたいと申し出た。
一年目。仕事仲間のお見舞いが頻繁にあった。彼らの前では彼は気丈に、前向きに振る舞うことができた。
二年目。お見舞いは減り、仕事仲間からはメールが来るようになった。その内容から、彼がいない職場が当たり前になっているのを感じた。
三年目。四年目。
家族以外と接点を持つことが減り、引きこもりがちになった。本の世界に逃げることがもっとも安易な刺激だったから、それに縋った。
気が付けば、四度目の春。花粉は飛んでいるだろうが、窓は閉め切られていたので、ナツメには関係なかった。
手元にある携帯端末が震えた。
「誰だ?」
手に取り、着信を見ると、一件の留守番電話があった。仕事仲間からだった。
『おう! 久しぶり! 退院おめでとう!』
と、始まった一方的な伝言。そのあとは、退院パーティがいつだとか、仕事に復帰するのはいつだとか、今の会社の人間関係がどうだとか、せっかちな内容がマシンガンのようにまくし立てられていた。
まったく理解が追い付かなかった。
「退院? なんのことだ?」
からかっているのかと思ったが、どうにも悪戯な雰囲気はない。
ナツメは、その仕事仲間へメールをした。
どういうことか。自分はまだ退院していないし、病気が治る目途も立っていない。悪い冗談ならやめてくれ、と。
すぐさま、返信が来た。電話だった。
『おう! 久しぶり!』
「……久しぶり」
『メール見たよ。冗談を言ってるのはお前じゃないのか?』
――なんて無神経な奴なんだ!
「さっきも言っただろう。まだ退院できないって」
『じゃあ、さっき俺がシンジュクの喫茶店で見たお前は偽物だっていうのかよ』
「……!」
『近い距離ですれ違ったけど、あんまり驚いて声を掛けられなかったんだよ。お前も俺を無視してすすーっと中に入っちまうし。薄情なやつだな』
「待ってくれ。話が全然見えてこない」
『あ? だから、俺はシンジュクで喫茶店に出ようとしたとき、その出入り口でお前とすれ違った。そこでは声を掛けられなかったから、電話を掛けた。違うか?』
「違うもなにも……」
――俺はそんなことは知らない。病室から出ていない。
『確かにお前だったんだよ。お前の髪と瞳の色を忘れるわけないだろう?』
――誰だ?
『おい、何とか言えよ』
――誰だ、そいつは!
彼はその気味の悪さに電話を切った。寒気を覚え、頭がキリキリ痛み出す。
携帯端末を握る手は、汗で濡れていた。
Imitation
「で、この子言ったんです、好きです! 付き合ってください! って」
双子の片方の姉が、妹をからかうように両手の指を絡ませて、演技臭く言った。
「ああ、それで?」と彼は笑い疲れた腹筋に構わず聞いた。
「そしたら、告白された彼ね。いいよ、僕もずっと好きだったんだ! って私の名前呼んだのよ!」
「お姉ちゃん! ひどいよ!」
「あっはははははは」
双子を含めたテーブルでは、談笑に花が咲いた。彼女らの学生時代の思い出話で、彼の笑いのツボは刺激されっぱなしだ。
「お姉ちゃんなんかね、体育祭の時、リレーを走るのが嫌だから、私と代わってくれってお願いしてきたの。私は、お姉ちゃんと代わったことがばれないように、おっそーく、走ってやったの!」
「それは最高だ!」
「あれは今でも許さないんだからね!」と姉。他の客がいないことをいいことに、三人は憚ることなく声を出した。
と、そこで、彼の携帯端末のバイブレーション。
話は中断され、姉は「どうぞ」と彼に促したが、彼はメッセージ主を見るなり、端末をポケットに仕舞った。
「いいの?」と妹が彼の顔を覗き込む。
「ああ、いいんだ」
会話が一区切りついたと、姉はカウンターへ戻って、本来の作業を再開した。食器を洗い始めた。
「ねえ、ずっと思ってたんだけど、聞いていいかな?」と妹は彼に聞いた。
「なに?」
「その腕時計。なんで七時までしかないの?」
「ああ、これね、七時じゃなくて、七年なんだ。七年立つと一周する」
「へえ! 変わってるわね。見せてくれる?」
「いいよ」と彼は腕時計を外して、妹に手渡した。まじまじと見ながら「ほえー」とか「はー」とか言う彼女。
「なあ、ところでさ」
「なに?」
妹に聞いた。遠くにいる姉には聞こえない。
「双子でよかったなって思ったことある?」
「あるよ」
と、彼女はまっすぐに彼を見つめた。
「自分と同じ人間がいるってことは、自分は替えの利く安い存在だって思ったことある?」
「考えることが難しいよお」
と言い、少し思案して。
「たとえばさ、才能や生まれ、与えられた環境、家族、境遇は自分の意思では決められないじゃない? それが、ほぼ同一の私とお姉ちゃん。だから、同じ人間に見える? あ、見えるっていうのは、見た目じゃなくてね、話した感じとか、内面のこと」
「そうは思わない」
彼には分っていた。この姉妹の関係が。
姉は、伸長で几帳面だが、しっかり者で面倒見がいい。妹は慌しくて我が強いが、快活で素直だ。姉は妹の弱さをわかっているし、妹は姉を守る気概がある。
「でしょ? 私たちは同じじゃない。私は生まれや境遇より、どう生きるかのほうが、大事だと思う。私とお姉ちゃんは違う人間だけど、だからこそ、お互いを理解できるっていうのはすごいことなの。それはとってもあったかいこと」
――ともかく、と彼女は微笑んで続けた。
「同じ人間なんか、誰一人だっていないよ」
その言葉は、打ちかけの釘を最後の一打で押し込めたような納得を彼にもたらした。
「そんな当たり前のこと、今更すぎるだろ」
ドアが開き、男がいた。突然のことに表に出さない緊張感を双子は覚えた。それでも客だ。妹は男に聞いた。
「一名様ですか?」
「いいや、違う。そこのと同じテーブルで」
と男は彼の緑の瞳に目線を合わせて、言った。
「よう、二十四番」
彼は目を合わせず、その不遜な男に応じた。
「……久しぶりだな、五十六番」