48.美濃彩華〜過去③驟雨〜
「ねえ、羽瀬川って私のことどう思ってんの?」
文化祭が終わり、木枯らしが吹き始めた季節。
バスケ部の外練で校庭を三十周走った直後、俺は美濃にそう訊かれた。
「……今疲れてんだけど……」
校舎と校庭を繋ぐ坂道は、三十周を走り終えた部員が辿り着くゴール。
仰向けになって息を整えていると、急速に汗が引いていくのを感じる。
肌寒くなる前に汗を拭いてしまいたいところだが、生憎タオルは体育館前に置いてある鞄の中だ。
今は取りに行くことはおろか、動くことすらしたくない。
鈍った頭で美濃の質問の意味を考えていると、上からタオルが降ってきた。
「わっぷ」
「お疲れ。タオル貸してあげる」
「……さんきゅ。これ、美濃の?」
ラズベリーの香りが鼻腔をくすぐる。ふわりとした肌触りは、正直とてもありがたかったのだが。
美濃の姿を横目に見る。美濃は制服の上から重ねたコート姿で、高校二年生にしては大人びて見えた。
「そうよ。汗ほっといたら、風邪引いちゃうでしょ」
美濃は微笑した後、風に靡く髪を面倒そうに抑える。
……最近美濃の周りに、男子はあまり寄らなくなった。
男友達から告白されては振ることを繰り返す美濃を見て、美濃の性格に難ありとの噂が流れ始めたというのが要因の一つ。
だが噂自体は美濃の耳に届けば不快になる類のものには違いないものの、信じる生徒は少ない。
噂と同様に、高校二年の冬は受験勉強に本腰を入れ始める生徒も多く、色恋沙汰に関しての興味が薄れる時期だからというのが要因として大きかった。
近くにいると好きになってしまうかもしれない。
でも振られるのは分かり切っているから、なるべく避ける。幸い部活最後の大会、そして受験が控えているので、丁度良い──
美濃から離れた生徒の一人からその言い分を聞いた時は、怒りの中に、僅かな共感があった。
──僅かでも共感してしまう自分に嫌気が差す。
男子が美濃から離れるのは、皆自分の保身のためだ。
振られたくない。
傷付きたくない。
それならば、最初から近寄らない方がいい。
その計算の中に、美濃の気持ちは考慮されていない。
男子生徒にその考えを言ったのは、夏頃に振られた榊下らしい。
良くも悪くも影響力のある榊下の一言は、裏で多くの男子の共感を呼び、美濃を密かに敵視する生徒さえ出てきた。
何故皆んな、榊下の意見に共感したのだろう。
確かめた訳ではないが、理由は大方そう結論付けた方が分かりやすくて楽だからだろう。
耳の痛いことからは、なるべく逃げたいのが人間だ。
皆、楽な道が好きなのだ。
──そしてそれは、俺も含めて。
榊下のように、離れる理由を全て美濃本人に押し付けるのは、人の気持ちを無視する浅ましい考えだとは思う。
だが、俺は榊下にその場で反論をしなかった。
反論をすれば、今度は俺も何かしらの理由を付けられ陰口を叩かれることになるかもしれない。
もしかしたら、学校生活に支障をきたすことになるかもしれない。
そんな考えが無意識の内に口へ蓋をして、俺はその場で頷いてしまっていたのだ。
「羽瀬川、さっきの質問なんだけど。答えまだ?」
タオルで汗を拭きながら、考える。
俺もこのまま時が過ぎれば、いずれ美濃のことを好きになるかもしれない。
そういった気持ちを今のところ出てきていないのは、報われないことが分かりきっているからだ。
普通は綺麗な女子と仲良くなれば、八割型好きになってしまうのが男子というもの。
今後もし、好きになってしまったら。
それでも俺は、隣にいたいと思う。
告白なんてしなくていい。
ただ隣にいるだけで、多分幸せなはずだから。
「……友達だよ。言わせんな、恥ずかしい」
少なくとも、今はまだ。
言葉の裏に、そんな想いを滲ませる。
答えると同時に、校庭から戻ってくる部員がちらほらと流れ込んできた。
美濃は顔見知りの部員に「お疲れ」と声を掛けていく。
それに応える男子は皆満載でもない様子で、結局男子なんてそんなものだと再認識する。
「行こうぜ」
美濃にタオルを返して、俺は重い足を体育館へと進める。
今日の練習は校庭を三十周走り終えれば、各自終わっていいことになっている。
美濃はタオルを鞄に入れて、付いてきた。
「友達って、ほんとに?」
「そこで嘘ついてなんになんだよ」
「私ともっと仲良くなれる」
「……ばかかお前」
美濃が何を確かめようとしているかは分かる。
自分に気があるのか、それが知りたいのだ。
気がないと分かれば安心して今まで通り接することができるし、ありそうだと思えば自分から距離を取る。
美濃は以前から、今のように人との距離感を測ろうとする言動をしていたのだろうか。
答えは恐らく否。
仲の良かった者が自分の元を去っていくことに対し、何も感じない人間がいるはずがない。
傷付きたくないから、自分から距離を取る。
皮肉にも美濃は、自分の元を去っていく人間と同じことをしている。
「美濃って、なんで告白するやつ全員振るんだよ」
そもそも、彼氏がいれば告白される回数はガクンと落ちるはずだ。
そうなれば、自分の元を去っていく男友達も減る。
単純な対策だ。なぜ彼氏を作らないのか。
そんな考えから訊くと、美濃は眉を顰めた。
「どういう意味?」
「試しに付き合ってみるくらい、普通にありだったと思うけどな。そんだけ告られりゃ、一回くらい付き合ってもいいって男いたんじゃねえの」
何せ、受ける告白の総数が違うのだ。
あれだけ数がいれば、一人くらい良い人がいるかもしれないと思うのが一般的な思考ではないのだろうか。
だが美濃は、今度こそあからさまに顔をしかめた。
「なんで好きじゃない人と付き合わなきゃいけないの?」
そう言われてしまえば、もう返す言葉がない。
多分恋愛観に関しては、既に美濃の中で答えは決まっている。
となると、俺が何を言ったところで響くはずもない。
ただそこで押し黙るのは何となく悔しくて、俺は無理やり喉元から言葉を押し上げる。
「……まあ、それはそうかもしれないけど。付き合ってから始まる恋だってあるんじゃって思っただけ」
「私は最初から好きな人って確信できる人とだけ付き合いたいの」
「仲良くしてたやつらは、好きじゃなかったのか?」
「友達の好きと、恋愛の好きは違うでしょ」
羽瀬川ならそのあたり分かってるでしょ。
そう言いたげな表情だ。
「さっきから何が言いたいの?」
要領の得ない会話に、ついに美濃は立ち止まった。
瞳には疑念の色が渦巻き始めている。
こういう時の美濃には、恐らく嘘は通じない。
そのことが分かるくらいには、美濃と過ごしてきた時間は濃い。
俺は観念して、素直に口を開く。
「……嫌なんだよ」
「何が?」
「自分と仲の良い人が、他人からグダグダ言われているこの状況」
言うと、美濃は目をしばたたかせた後、微笑した。
「ごめん。あんたには苦しい思いさせてる」
「美濃が謝ることじゃねえだろ。それがまた、腹立つんだよ。イライラする。この状況にも、何より自分に」
一番苦しいのは美濃のはずなのに。
それは以前から分かっているはずなのに、俺は自分の感情の拠り所を探すことに精一杯で、結局俺も自分のことを優先してしまう。
「俺、ほんとに美濃を良い友達だと思ってる。なのに、俺はいつも自分を優先してる。この前だって──」
──榊下に、反論できなかった。
言いかけたところで、やめた。
既に榊下の陰口が美濃自身の耳に入ってしまっていたとしても、その事実を改めて俺から聞かされるのは、更に負担を強いることになる。
俺が負担をかけてどうするんだ。
自分の至らなさにまた腹が立ち、唇を強く噛む。
僅かに、鉄の味がした。
「……バカね」
美濃は息を吐くと、俺の口元へ手を伸ばした。
スラリとした美濃の指に、赤い血が付着する。
美濃は躊躇うことなく、その血をハンカチで拭いた。
「ほんとに、あんたは気にする必要ないのよ」
「でも、友達だろ」
「うん。そう言ってくれるのは嬉しい」
ありがとうと微笑まれる。
今までで最も柔和な表情だった。
諭すように、あやすように、美濃はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でもね、羽瀬川は自分を一番に優先していいの。それはとても自然なことで、多くの人が無意識の内にしてることなの。あんただけがいちいち気に病んでたら、不平等だと思わない?」
それに、と美濃は髪をかきあげた。
今度はハンカチを俺の口に直接当てて、苦笑いしている。
「私自身も、自分を優先してるから。今まで、ずっとそうだった。だからこうなったのかもしれないけど、それは自業自得ってだけで、やっぱり羽瀬川には関係ない話だよ」
美濃の目が、一瞬だけ遠い場所を見るように虚ろになった。
焦点の合わない場所を見ているのが伝わってくる。
過去か、未来か。
澄んだ瞳は、今何を映しているのだろう。
「……自業自得なんだよね、ほんと」
美濃はポツリと呟いて、ハンカチを小さく畳む。
「……それでも、変わる気にはなれない。これが、私だから」
その言葉を聞いて、俺は胸を打たれた。
世渡りの上手い人ほど、自分の在り方を簡単に変える。
良く言えば順応性の高さ、悪く言えば芯の無さ。
それは大人になるに連れて必要になってくる能力で、学校はその能力を培う場と解釈をすることもできる。
だが、世の中には少なからず存在しているのだ。
自分を曲げず、世の中にも溶け込み、社会的地位を築いていく人間が。
少なくとも俺は自身がそうなることができないと知っている。諦めてしまっている。
だからこそ、自分とは違う何かを持っていると感じる美濃彩華には、芯を持ち続けて欲しいと願ってしまう。
個性を隠すというのは、とても悲しいことだと思うから。
「……美濃はそのままでいろよ。俺は、今のお前が良い。絶対に」
身勝手な言葉だということは百も承知だ。
そのままでいた結果、美濃が何かしらの失敗をしたとしても俺は何の責任も取ることができない。
それに俺が思い付くような言葉など、美濃は他の男子からも数多く貰っているに違いない。
であれば、俺の言葉だけが特別美濃に響く道理もない。
それでも言わずにはいられなかった。
ただの自己満足。
そのことを理解して吐いた言の葉に、美濃は一瞬惚けて、ハッとした後肩を殴った。
「生意気言ってんじゃないわよ、ばか」
「いってえな」
ジンジンと痛む肩をさすって、俺は笑う。
この痛みが美濃が自分に気を許している証だと思うと、悪い気はしなかった。
美濃と目が合う。美濃は何かを言おうと口を開いて、言葉に詰まったようにつばを飲み込む。
そして勢いよく、俺の肩に頭を預けてきた。
「おい」
数秒にも満たない時間だったが、俺の肩は一瞬で熱くなる。
どうしていいか分からずに無言を貫いていると、美濃は静かな声で言った。
「……ありがと」
美濃は表情を見せないまま俺から離れて、振り向くことなく去って行った。
俺の発言は、間違っていなかった。
これで美濃に少しでも元気が出るのなら、間違っているはずがない。
「おい、羽瀬川。部活終わったなら、早く帰れよ」
振り返ると、バスケ部の仲間が汗を拭きながら立っていた。
「おう。お疲れ」
そう返事をして、荷物がある場所へと駆ける。
背中を見えない圧で押される錯覚に襲われる。
俺の発言は間違っていない。
そのはずなのに、無性に嫌な予感が湧き出ててくる。
「……くそっ」
胸騒ぎを誤魔化すように、俺は舌打ちした。
いつのまにか太陽は雲に隠れて、その光を閉ざしている。
驟雨を予感させる空気が、不安な気持ちに拍車をかけた。




