鏡
母が買って来たその鏡は確かに曾て技術ある者が丁寧に作り上げたものなのだろうが
今となっては銀の細工は真っ黒で、持ち手のに施された象牙の彫刻は平になってしまっている。
けれども肝心の鏡面はたったいま磨き上げたかのように錆も汚れもなくまだ使えたので
たった700円で知り合いの古道具屋から押し付けられたにしては、そんなに悪くない買い物だった。
と、その鏡を見せびらかす母の横で、千代ちゃんは至極冷静に言った。
「でもミッちゃんこれどうすんの。お化粧直しに使うつもり?」
千代ちゃんは美術館の学芸員だ。お母さんとは年の離れた兄弟で仲が良い。
お母さんより10も年下なので、私にとっては叔母さんというよりお姉さんという感じ。
私も小さい頃からよく遊んで貰ったりしてたから千代ちゃんとは大の仲良しだ。
(恋愛の話だってお母さんより千代ちゃんのほうが相談しやすいかも。)
「それでお化粧したらヨーロッパのお姫様みたいで素敵よねー」
音符のマークが語尾にくっつきそうなくらい弾んだ声で言うお母さん
の少女趣味は今に始まったことじゃないので、千代ちゃんは一瞥をくれただけ
また例の鏡に視線をうつすと、手に取ってしげしげ眺めている。
「ねえ、ゆり。ここんとこ良く見たいからルーペもってきて。」
そういって鏡の柄の部分を私に見せてきた。
確かに、なんかちょっと黒い筋みたいなのが何本か走っている。
「はーい。ルーペって引き出しだっけ」
「あ、ごめん お母さん昨日糸通しするとき使ったのよ。仕事部屋のお裁縫入れの中かも」
「もう、おかあさんったら 元あったとこに戻しといてよね。」
二階にはお母さんと私の寝室がある。
昔、お母さんは洋服のパタナーだったのだが、
いまでも裁縫が好きで部屋にはミシンやら裁縫道具やらマネキンやらが置かれている。
なのお母さんの寝室のことを我が家では通称“仕事部屋”と呼ぶのだ。
裁縫道具の中は案外綺麗に整頓されていて、
引き出しの中から簡単にルーペを見つけることができた。
「ルーペ、あったよー。」
意気揚々階段を下りて千代ちゃんにルーペを渡した時、
千代ちゃんが見た事も無いような深刻な表情をしていることに気がついた。
「千代ちゃん、どうかしたの?」
私の問いかけに、千代ちゃんの返答は無い。
そういえばお母さんはどこに行ったのだろう。姿が見当たらない
それにさっきまで千代ちゃんが見ていた例の鏡は?
千代ちゃんの手元にもキッチンの机の上にも無い。
「お母さんは?」
暫く間があって、千代ちゃんが重い口を開いた。
「それがね、実はあの鏡...」