見えないペルソナ
怜は帰宅後すぐに,近くのスーパーへと買い物に出かけた。
下校時に,理科部の顧問にばったり出くわした際,夏休み中に行う活動を考えておくようにと言われた。夏休み最初の活動日にそれぞれ発表させて決めるらしい。
「なんにも思いつかないなあ」などと,独り言を呟きながら自転車を漕いだ。
田んぼのあぜ道では,まだ青々とした稲田を風が足跡をつけながら吹き去っていく。そろそろその伸びを終え,穂が顔を出す頃だろうか。
一抹の不安はあるものの,怜は満ち足りていた。ペダルをこぐ足に自然と力が入る。少し漕ぐと,大通りが見えてきた。都会に比べれば何も無いに等しいが,生活に必要な大体のものはここで調達ができる。これでもこの寂しい町の中心地だ。
スーパーの店内には,まだそれほど人は居なかった。大人たちの帰宅時間と被ると店内は人で溢れかえり,レジには長蛇の列がなされることになる。怜はそれが嫌いだった。もっとも,大人たちの帰宅時間には家にいて,義務に取り組んでいなければならないのだが。
さっさと終えて帰宅しようと,いつもの経路でいつもの商品を買っていく。頭の中は夏休みの活動についてのことでいっぱいだった。スーパーにもヒントはたくさんある。レモンは電池になるし,ペットボトルはロケットになる。調理の時に肉を柔らかくするための一番いい方法を探すのもいいかもしれない。
生肉が腐る仕組みも知りたい。どんな菌が一番初めに繁殖するのか,最終的にどんな菌が一番強いのか。
「でも夏休みをかけてやる活動だしな・・・もっと新しいことじゃないとダメだよなあ・・・」そんなことを思いながら,ぼーっと遠くを見つめる。
その視界の端に,見覚えのある姿があるのに気が付いた。ニコニコと笑みを浮かべながら母親らしき人と会話しながら歩いている。睦だった。
すると,向こうもこちらに気付いたようで,ちょうど目が合った。怜はえもいわれぬ気まずさを感じると同時に,意識の底に沈んでいた罪悪感が突然にして浮かんでくるのを感じた。怜は睦から目を離せなかった。すぐに背けたくなったが,ここでそれをしてしまうと本当に彼女を見捨ててしまう気がして出来なかった。
一方の睦の目は大きく見開かれ,口は真一文字に閉ざされていた。そして,その表情がすぐに崩れたと思うと,後ずさりをしながら顔を背け,母親の影に隠れるかのように移動してしまった。もちろん,そのあとの様子は分からない。
ほんの一瞬の出来事だったと思う。でも,ひどく長く,強烈に目に焼き付いた。最後に睦が見せた,あの怯えたような表情をみて,自分が今までしてきたことの罪の重さを自覚したようだった。
自分が思っている罪意識以上に,実際の罪は重いのかもしれない。睦からすれば,いじめを行った連中も,手を差し伸べなかった僕も一緒なんだ。睦の怯えは,きっとクラスに向けられている怯えの表れなんだろう。
思えば,いままで僕がやったことなんて,無いに等しかった。机のゴキブリを片づけたのも,結局のところ,罪の意識から逃れたいが故の独善,自己満足の為だったのかもしれない。
ほんとうの自分の小ささが見えた気がした。いろいろ理由をつけて,立ち向かわなければいけないものから逃げていただけだった。
怜は,気が付けば家に帰っていた。あの後からはよく覚えていない。自分の嫌いなところが見えてきて,そのままその考えから離れることができなかった。
手を洗う。だが,洗っても洗っても,いつまでも自分が汚れているような気がした。ふと前をみると,もう一人の自分と目が合った。じっとこちらを見つめている。その重たそうな瞼の下からのぞく切れ長の目は,睨んでいるようにも見えた。
この目が嫌いだった。僕は睦にもこんな目を向けていたのだろうか。
悪いことは続く。
その翌日は夏休み前の大掃除だった。
もちろん,睦は学校に来なかった。
担任教師から「掃除の前に,机の中身は全部出して,荷物はロッカーにしまうこと」という指示が出された。
大掃除というイベントでいつもと違う日常が送れていることと,この後の終業式が終われば夏休みがやってくるというワクワクが重なり,生徒たちは少し浮足立っているようにも見えた。
「そういえば昨日の朝,妙にテンション高かったけど,何かいいことでもあった?」と,怜が暁人に訊ねた。
「よくわかったな!なんだと思う?」と暁人がニヤニヤして返す。
「しらない」怜は煙たそうに答えた。
「おい,考えろよ!」暁人が怜を小突いた。
「ウザいテンションだなぁ・・・そんなに喜ぶものってなんだろう」
「当てたら100万円やるよ!嘘だけど」
そんな会話をしていると,担任が落ち着かない生徒たちを窘める声が聞こえた。
「はい,さっさと次の行動をする!早く終わらせないと終業式に間に合わなくなるぞ!」
真面目に働いている生徒によって,着々と机が廊下に運ばれていた。ワックスがけがあるので,机と椅子は外に出さなければならないのだ。怜も暁人も持ち場に戻ろうとした。
そんなとき,
「先生!大山さんの机の中身はどうすればいいですか?」という声が上がった。
怜は雷に打たれたかのような思いがした。バカだった!大掃除のことを考えていなかったのだ。これでもし机の中にゴキブリの死骸が無いことがバレたなら,木村はあのとき教室にいた人間をまず第一に疑うに違いない。
そして,昨日の一件がある僕には,より一層深い疑いがかけられてしまう。いや,疑いで済むだけならまだいい。難癖をつけて脅し続けることが可能になる。そうすれば僕が新しいターゲットになるのも時間の問題だ。
木村たちは薄ら笑いをうかべてその様子を見ていた。竹内が傍観者の女子にけしかけて,さっきの発言をさせたようだった。
怜は,表情やぎこちなさを悟られないよう,自分の机を廊下に運ぶことでその場を逃れた。
「じゃあ,大山のもロッカーに入れといてくれ,よろしく」と,担任は答え,そのまま教室を後にした。
教室からは,睦の机の中身を取り出している者に対する冷やかしの声が聞こえてくる。まだゴキブリの件はバレていないようだった。
怜は教室に戻るのが嫌だった。木村たちがゴキブリの件をすっかり忘れてしまっていることを願った。
「おい,結局わかったのかよ」暁人が後ろから怜の両肩に手をかけつつ訊ねてきた。
「え?あ,ああ」
突然のことだったので,怜はうまく反応できなかった。最早そんなことなど頭の隅に追いやられていた。いっそのこと,この場で今抱えている不安を言ってしまいたかった。
「えーと・・・なんだろうな。そんなに嬉しいことなんて思いつかないな・・・」
「しょうがねえ,教えてやろう」
暁人が答えようとした。
「あーちょっとまって!わかった!」怜は必死に遮った。今はとにかく教室に戻りたくない。
「お!流石だねー」暁人が答えを促す。
「か,彼女ができた!とか」
思春期男子が気にするのは異性のことのはずだから,と怜は考えてそう答えた。
「いや!全然ちげーよ」暁人が少し恥ずかしそうに怜の肩を叩く。
「じゃあわかんない」
わりと考えた上での答えだったので,外れたのは少し残念だった。でもそのおかげで不安からは少し離れられたような気がする。
「あとで教えてやるよ」
そう言って暁人は教室に戻った。怜も後に続きしぶしぶ戻ることにした。
丁度そのとき,睦の机が運ばれてきたので,怜が道を開けると教室の中の木村と目が合った。まずいと思って目を逸らす。
暁人は教室の中で友達と会話している。今ばかりは一人になりたくなかった。だが,暁人のグループになじむ勇気もなかった。
生徒たちは各自,だらだらと掃除を始めた。担任がワックスとモップを持ってくるまでの間に,なんとか形だけでも終わらせようという魂胆なのだろう。
しばらくして,担任がワックスを持ってきた。
「モップ2つあるから誰か手伝ってくれ」と,担任が言う。
「お前らサボってたんじゃないのか?お前ら手伝え!」
担任が声をかけたのは木村たちだった。
「は?うざ」と,竹内が言った。
「嫌に決まってんだろ」木村も返す。
木村に小突かれた須崎がしぶしぶ前に出てモップがけをやることになった。
「ワックスかけたらそこは通れないんだからな?最後は出口に辿りつくように万遍なく塗れよ?」
「えー,ムズくね!?」須崎が困惑する。
「取り残されたらお前は終業式出られないで,乾くまでその場で教室に居ることになるから気をつけろよ」と,担任。
その発言に,その光景を見ていたクラスメイトが笑い声をあげる。部外者からすれば,この光景はただの微笑ましいクラスにしか見えないだろう。
担任は気付いているのだろうか。それとも気が付かないふりをしているのだろうか。
そして,みんなが笑えているのはどうしてだろう。




