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カゲロウの丘  作者: 个島
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余計なこと

 床を伝わる足音に気が付いて怜は目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていた。

 飛び起きて時計を見る。午後6時を過ぎていた。

 しまったと思って窓から外を眺めると,家の駐車場には父の車が止まっていた。

 窓から吹き抜けてくるそよ風が,強張る怜の頬を優しく撫でていく。

 足音が怜の部屋へとやってくる。

 壁の穴が,生気のない瞳でじっと怜を見つめていた。怜もまた,吸い込まれるようにそれを見つめる。

 狼狽えたり,言い訳を考えて取り繕ったりするつもりはなかった。今更逃げることはできない。

 壁の穴がどんどん遠ざかり,小さくなっていく。遠くで乱暴に扉が開かれる音がした。

「テメェ何やってんだ!メシはどうした!」遠くで音が聞こえる。

 今は壁の穴から目が離せなかった。

「何無視してんだこのクソガキが!」大きな手が胸倉をつかんだ。

 怜の視線は無理やり壁の穴から引き離された。そして,目の前に現れた顔にゆっくりと焦点が合っていく。

 怜にとっての恐怖のアイコンでもあった,父の怒りの表情が認識された。だけど,どういうことなのか情動が誘発されない。ただ,ああ,父親が怒っている。と感じたのみであった。

 大柄な身体から伸びた腕が怜を勢いよく突き放した。そのまま床に尻餅をつき,ベッドの側面に背部がもたれ掛かる。

 脱力して頭を垂れる怜の前髪を,大きな腕が掴みそのまま後ろへと引っ張り上げる。怜の顔は抵抗もなく天井を向いた。

 怜の眼球がドロリとその腕の持ち主に向けられた。その湿った視線を送った先で,空いている方の腕が振り上げられるのが見えた。遠くで何かが喚いている。

 次の瞬間には怜の顔は横を向いていた。激しい痛みが頬に走るのが分かった。よく分からないけれど,ただ痛かった。

「さっさと用意しろクソガキ!」

 胸倉をつかまれて立たされると,そのまま引きずられるように部屋の外へ連れ出された。


 憐みだ。

 そこにあるのは憐みであった。

 理不尽への怒りや憎しみではなく,悔しさでもない。この,相手に対するもの悲しい気持ちに似た何かはきっと憐みなのだろう。

 それに気が付いた時,ふと現実へ戻ってきた感覚がした。

 掌がしっかりと包丁を握っていた。

 父がテレビを見ながら缶ビールを煽っている。

 怜はただ仕事をこなした。

 仕事の在り方が分かった気がした。

 父が仕事を終えて帰ってきたときの心境も少し理解ができる気がした。

 共働きとはいえ,この一家は父の収入に支えられているのは紛れもない事実である。

 強いられるかのように毎日つまらない仕事に追われ,疲れて帰ってきたらタダ飯喰らいの息子は夕飯の準備さえしていない。

 そりゃあ頭にきて当然である。怒りにまかせて暴力も振るうだろう。

 今の怜には,テレビに向かう男の背中が急に小さく見えた。可哀想とさえ思える。

 理不尽の後ろにはやりどころのない情動が隠れていた。


 翌日,台所の流しの下からゴミ袋を数枚引っ張り出し,軍手を手にすると怜は家を出た。

 自転車で向かう先は一つであった。

 目的地に着くと,袖口で汗を拭い,上着を羽織るとゴミ袋を1枚携えて河原へと降りて行く。

 今まさに,怜は「余計なこと」をするつもりでいた。一大決心の上で余計なことをしようと決めたのだった。

 道具や人に頼れない以上,川の生物や水質の調査には期待できない。

 あれだけ一人前に講釈を垂れたにも関わらず,自分でできることを考えた結果,辿りついたのはアカデミックさの欠片もないただの「ゴミ拾い」だった。

 付け焼刃の知識なんて所詮そんなものなのだろう。むしろ自分の限界が知られた気がして恥ずかしかった。

 河原に降り立ったところで,自分の情けなさに笑いがこみあげてきた。だけれど,この程度が身の丈に合っているとも感じていた。

 『カゲロウの丘』付近から初めて,どんどん上流の方に向かってゴミを拾う。これを可能な限り繰り返すことにした。

 長袖長ズボンに長靴という恰好を選んだのは正解だった。暑さは堪えるものの,草が際限なく生い茂り,足元も覚束ない状況は軽装では危険すぎるほどだ。

 しかしこんなコンディションでは,ゴミがあったとしてもを拾うこと自体が難しいように思える。軍手は当たり前だとしても,出来れば火ばさみのようなものが欲しかった。しかし,無いものはしょうがない。

「初日だし,できるところから手を付けるか」独り言で自分を奮い立たせる。

 一目が気になったものの,ゴミ拾いは別に悪いことじゃないと自分に言い聞かせて作業を続けた。

 想像以上に拾うものは多かった。空き缶やペットボトルにはじまり,ビニール袋や弁当のゴミ,自転車や得体の知れない物体まで幅広いジャンルのゴミが存在した。中でも煙草の吸い殻は小さいながらも頻繁に見られた。

 ただ,軍手では扱いたくないと直感したものは無理に拾わないよう心掛けた。

 正午にならないうちにひとつめのゴミ袋が埋まった。つまり,約45リットル分のゴミが集まったということになる。

 ゴミ袋を提げて自転車のもとへ戻ろうとして気が付いた。集めたゴミはどうやって移動すればいいのだろうか。1袋ならギリギリ行けるだろうか。

「何やってんの?」と,聞き覚えのある声がした。

 顔を上げると,颯太が手を振っていた。

 怜は気まずそうに顔を背けて河岸を上がっていく。

「面白そうなことやってるなあ」颯太がからかい半分に声をかけた。

「面白くない」怜が答える。

「カンキョーホゼンってやつか。お宝は見つかった?」

「お宝?」怜が目を点にして返す。

「またまたー!とぼけちゃって!」颯太が意地悪そうに笑う。

「ゴミしかないよ。欲しいの?」ゴミを差し出す怜。

「ゼッタイ要らない!」颯太はそう言いながら後ずさりした。

 二人が顔を見合わせて笑った。

「いつもゴミ拾いしてるの?」颯太が続けた。

「いや,今日から始めようと思って」

「そうなんだ。素晴らしい活動だ」

 颯太がゴミ袋に目を落としてから訊ねた。

「ところで,それどうやって処分するつもり?」

 怜は核心を突かれた思いがした。

「今迷ってたところ」正直に答えた。

 颯太が声を上げて笑った。

「こんなに退屈しないヤツだとは知らなかったなあ」


 結局その日はそこでゴミ拾いを終えることにし,集めたごみは颯太の案でゴミ処理場へ持っていくことにした。1袋なら何とか運べたが,それ以上は厳しそうだった。

 本来ならそのようなサービスは有料での引き取りになるところを,颯太が掛け合った結果,特別にタダで引き取ってもらえることになった。

 颯太は健気な中学生が善意でやったことなんだし,面と向かって無下にできる大人はいないでしょうと説明したが,怜はそんなに簡単にいくものなのだろうかと不思議に思った。

「颯太くんって何者なの?」怜が長年の疑問を口にした。

 神出鬼没でありながらも,町内のあらゆる場所で出くわすあたりから,その行動範囲の広さと行動目的がずっと謎だった。それに,先ほどのやり取りがそのミステリアスな印象をより一層強めていた。

 しかし,特別に仲が良いというわけでもない上に,颯太が積極的に自己開示をするタイプでもなかったのでその謎を知るチャンスが無かったのである。

「何者って・・・ただの学生だよ」颯太が笑って答えた。

 怜は何となくその笑みをぎこちなく感じた。あまり身の上について訊かれたくないのだろうと察した。颯太が他者に深入りしようとしないのは,自分に対しても深く探られるのを嫌っているからなのかもしれない。

「ごめん,悪い意味で訊いたわけではないよ」

「いろんな人がいるんだなって,最近そう思う」怜が続けた。

「たしかに,いろんな人間がいるねー」颯太はどこ吹く風といった顔をして答えた。

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