陽炎の丘
怜はそれから毎朝図書館に通い詰めた。睦に会いたかったのもあるが,夏休みの部活動についての下調べもあった。
睦との会話の中で引っかかっていたことが大きなヒントになり,やりたいことも決まっていた。
あとは入念な計画を練ることと,上手くプレゼンテーションをして支持を得る必要がある。
「図書館に来る日はいつも今日と同じ時間に来るから」
あの日,怜はそう言い残して睦と別れた。
あれから3日経つが,睦の姿は無かった。
怜が理科室の黒板に広げた模造紙には,こう書かれていた。
『カゲロウの丘の復活』
他の生徒が口頭で済ませる中,ここまで大げさな発表をするのは怜だけであり,かなり浮いていた。
顔馴染の中で行われる発表だったために寛容な空気ではあったものの,怜はその温度差を痛いほど実感していた。
だが,怜の熱は冷めなかった。
怜の発表は,この町にかつてカゲロウの丘と呼ばれる場所があったこと,それまでにどのような環境の変化があったのかということから始まった。
そして,カゲロウが水質の指標生物として指定されていることを説明した上で,その水質を取り戻す働きかけをし,カゲロウが再び棲めるようにすることがこの活動の目的であると述べた。
生徒だけでなく,顧問の山上もその気迫ある説明に関心し,黙って聞き入っていた。
山上には,怜の目の奥で静かな炎が揺れているようにさえ思えた。この発表の内容からも,数多くの下調べをしてきたことが察せられたし,怜がこの企画に並々ならぬ想いを抱いていることもはっきりと認識できた。
ただし,理想に燃える若いエネルギーには時として現実が見えていないことがある。残酷ではあるが,それを伝えるのも大人の役割だと山上は自分に言い聞かせた。
「熱意も伝わってきたし,大変すばらしい案だと思う」山上が称賛した。
「ありがとうございます」怜が照れくさそうに視線を落として会釈する。
「その『カゲロウの丘』と呼ばれていたころから今にかけての町の変遷もすごく分かりやすいし,指標生物についてもよく調べてある」顧問の山上が落ち着いた声で話す。
「だけど実際のところ,具体的にどんなことをするつもりなのかが見えてこないな」山上が続けた。
その落ち着きながらもはっきりとした物言いに,怜は自分の考えが否定されたように感じた。
「まずは,現在の川の状態を調査します。指標生物の調査は勿論ですし,pHやCODなども調べればその水質がある程度把握できると思うので,その原因となっているものを改善すればいいと思います」
怜が憮然とした表情で,捲し立てる様に説明した。
「じゃあその調査をし,今の生物相や水質が把握できたとしよう。だけど,それをもたらす環境って山ほど考えられるわけだよね。周りに工場や住宅が出来ましたって言えば簡単だけれども,今となっては排水はきちんと処理されていて,直接川に流れるなんてことはほとんどない」
山上も怜の勢いに乗せられる形で言い返した。
「仮に,工場や住宅が原因だったとしてどう対処すると考えているんだろう。家や工場を更地にして元通りに戻す?」
周りの生徒は呆気にとられた様子で山上の発言を聞いていた。
「そういう目に見えてわかりやすい周辺の立地なんかよりも,もっと上流での土地開発や護岸工事の影響が出ていることも考えられるかもしれない。その場合はどう対応する?カゲロウに戻ってきてほしいから開発を中止しろと呼びかけるのかい?」
怜は自分が猛烈に批判されているような気になった。自分なりに色々と考えていたつもりであった分,尚更辛く感じた。考えなしの浅はかなアイデアに過ぎないと言われているようで悔しかった。
「カゲロウの食性や習性を調べて住みやすい環境に近づけることもできると思います。石を敷いたりして,エサの藻類が繁殖しやすくしたり,幼虫が隠れやすいようにしたり・・・」
怜はそれでも食い下がった。睦に『カゲロウの丘』を見せたら喜ぶかもしれない。動機はそれで充分だった。
「藻類の住みやすい環境っていうのも,さっきと同じことだ。簡単なことじゃない。それに,石を敷くというけれど,どこから石を持ってくるのかな。その辺の石を放り込むわけにもいかないし,上流から持ってくるにしても強引だよね。」
山上も熱くなっていた。
「そして何より,自分がカゲロウを戻したいからという理由で,今ある生態系を壊してしまうのはただのエゴに他ならないんじゃないだろうか」
怜は雷に打たれたような感覚だった。『ただのエゴ』だという的を射た指摘に返す言葉が無かった。
悔しさと情けなさ,そして怒りに震え,喉元がカッと熱くなる。唇を噛みしめて俯いた。光沢を放つ理科室の床に,ポツリポツリと水滴が零れ落ちるのが見えた。
山上は我に返って青くなった。たかだかまだ中学生の夏休みの活動案に対して真っ向からぶつかってしまった。
「ただ,その川の水質を調査してその影響を考えるというのは非常に有意義だと思います。」と,慌ててフォローした。
怜の耳には届いていただろうか。怜はただ黙って聴衆に背を向けた。
乱暴に模造紙を引き剥がすと,ぐしゃぐしゃに丸めて小脇にはさみ理科室を飛び出した。
部員たちがお互いに顔を見合わせた。戸惑いからぎこちない笑いを浮かべる者もいた。
「環境を変えるというのは簡単じゃありませんから。皆さんも留意してくださいね」と山上が残った生徒たちに声をかける。
「じゃあ,次の人発表お願いします」山上が進行を促した。
「余計なこと考えるなよ」という言葉が怜の頭の中をリフレインしていた。
怜が暁人に言い放った言葉だった。
あのとき,暁人もこんな気持ちだったんだろうか。僕は暁人に謝るべきだった。
自分では正しいことを言っていると思っても,相手を知らず知らずに傷つけている。
そして,正しいからと言って,相手を傷つけていい理由にもならない。浅はかなのは誰よりも僕の方だったのかもしれない。
いつからか,自分は周りよりも考えることが得意だとか,思慮に富んでいる人間だとかいう自惚れがあったのだろう。
とにかく悔しさと恥ずかしさが溢れてきた。顧問への怒りも無いわけではなかったが,少し考えれば相手が正しいことくらいは分かった。
怜は誰もいない家に飛び込むように帰宅すると,一直線に自分の部屋に向かい,丸めた模造紙をゴミ箱に力いっぱい叩きつけた。
勢いのついた模造紙を受けきれずにゴミ箱が倒れるが,怜は気にも留めずにベッドに飛び込んで枕に顔を埋めて泣いた。
ここ最近での出来事を経験する中で,なんだか自分が変われる気がしたけれど全て錯覚だった。結局自分は情けなく不甲斐ないということが現実として突きつけられただけだ。
通い詰めて調べたことも,期待を胸に過ごしたことも全部無駄だった。結局ただのエゴなのだ。
「ただの勘違いだ!全部無駄なんだ!!」怜は顔を埋めたまま泣き叫んだ。
なんにせよ,睦が見たいと望んだわけじゃない。頼まれてもいない。
冷静になれば,熱が冷めてしまえば,自己満足でしかないのだとわかった。所詮,ゴキブリの件と根っこは変わらない。ただそれらしい理由をつけて規模をデカくした挙句,他人まで巻き込もうとしていただけだ。
怜はただ叫んだ。言葉にならない叫びを疲れるまで続けた。
どの位時間が過ぎたのかはわからない。叫んだせいなのか,みっともなく泣き続けたせいなのかわからないが,頭が痛い。
仰向けになって天井を見つめていると,だんだんと眠くなってきた。
「余計なことを考えるな」なんとなく呟いた。
暁人に会って謝りたい。でもどんな顔をして会えばいいのかわからない。友達に戻れるのかもわからなかった。
そもそも,僕が友達だと一方的に思っていただけなのかもしれない。暁人にはほかにも仲のいい人が沢山いるし,向こうは友達だなんて思っていないかもしれない。
自分が特別だなんて自惚れると,今みたいに後悔することになると自分に言い聞かせた。
「余計なことを考えるな」もう一度呟く。
睦にも会いたかった。だけれど,どんな顔をして会えばいいのかわからない。
余計なおせっかいを焼こうとしたら釘を刺されてショックを受けているなんて,情けなくて仕方がなかった。
「余計なことか・・・」
生きる場所を追われたカゲロウとクラスを追われた睦が重なって見えた。
何とかしたいと訴える暁人に釘を刺す自分と,何とかしたいと訴える自分に釘を刺す顧問。
反復する人間関係を感じながら,怜の意識が薄れていく。
遠のく意識の中で怜は,たくさんのカゲロウが舞う丘の上に立ち,振り向きながら寂しく笑う睦の姿を見た。




