カゲロウの丘
茫々とした草原がなびいている。木々がざわめいている。虫たちの声が遠くに聞こえる。
時折,大きな風が,二人の間をサンショウの香りを含ませながら通り抜ける。そのたびにまとわりつく暑さが絡め取らていく。
あれから,二人の間には言葉が交わされていなかった。
この状況の奇妙さに,怜は夢でも見ているのではないかと思い始めた。
でも,隣には確かに睦が座っている。俯き気味に少し先の草むらに目を落とし,固まったように動かない。気まぐれに吹く風が,その細い髪を揺らして逃げていく。
細く白い腕をまっすぐ伸ばし,その薄い肩には少し力が入っているように見える。そして,薄い水色のシャツの上には,まだ乾ききっていない涙の跡が点々と滲んでいた。
怜は自分以上に脆くて頼りなさそうな存在を見ている気がした。こんなにも弱弱しい人間が今までずっと虐げられてきたこと,そして,多くの不安と恐怖をこの小柄で華奢な身体で耐えてきたことを思うと,自然と得体の知れない哀しさが込み上げてきた。
同情からなのか,老婆心に似たものなのか,それとも,無意識的に見下していることから生じる憐れみなのかは分からない。ただ,哀しかった。
何のために今ここでこうしていて,次に自分は何をすべきなのか。そんなことはもうどうでもよい。自分が許されているつもりはなかったが,このまま同じ空間にいても良いのなら,睦の涙が渇くまでは一緒にいようと,そう思った。
無理にこの場を取り繕うのをやめたことで,怜はずいぶんと気が楽になった。
ただ,睦の気持ちは少し知りたかった。
睦は硬く口を噤んだままだった。
正午が近づくにつれて,怜たちの居るベンチにも陽が差してくるようになった。
そろそろ頃合いかなと思い,怜は再び睦の様子を窺う。
睦は以前よりも遠くを見つめていた。公園の境界を示す植込みのさらに向こうに視線を据えている。
「向こうに小さい川があるの知ってる?」睦が沈黙を破った。
「うん」怜が答えた。
「その川の向こうが少し高くなってるでしょ」
「そうなんだ。気にしたことなかった」
少し間が空いた。怜は返事の仕方を間違えたかなと省みる。
「昔そこはカゲロウの丘って呼ばれてたんだって」睦が少し寂しそうに呟いた。
「カゲロウ?」怜が返した。
カゲロウと言っても,陽炎なのか,蜉蝣なのかで印象が変わってくる。
「うん。虫の方のカゲロウ」睦が答える。
「昔は今くらいの季節にカゲロウが沢山羽化して飛んでいくのが見られたんだって」睦が続けた。
睦が見ているのは,その幻なのだろうか。きっと彼女の頭の中にはそのイメージがあるのだろう。すこし嬉しそうな横顔が遠くを見ていた。
「今は見ることができないの?」無粋な質問だとわかりつつ,怜が訊ねた。
「うん。できない」睦が答えた。
「どうして?」
「環境が変わったからじゃないかな。カゲロウのほとんどは綺麗な水でしか生きられないから」
「そうなんだ・・・」怜は睦の言葉がひっかかっていた。
「見てみたかったな・・・」
睦はそう呟いたが,虫の声や風の音に消されてしまうほど小さい声だった。
怜にその声が届いていたのかどうかはわからない。聞いてほしい気持ちが無いと言えば嘘になるが,言ったところでどうにもならないことくらいは分かっていた。
「カゲロウの丘か・・・」怜が独り言のようにつぶやく。
「きっと,綺麗だろうね」怜が続けた。
「そうだね」睦が答えた。
涙はもう乾いていた。




