蜘蛛の巣
二人はろくに手入れもされていないであろう公園の景色を眺めていた。
くるぶしくらいの高さのものから,膝丈ほどのものまで,さまざまな高さの草が青々と生い茂っていた。
小さな虫たちがせわしなく飛び回っている。どこかからふと身に覚えのある香りがほのかに漂ってきていた。
怜はこの少し刺激のある独特な香りがなんだか思い出せそうだったけれど,今はそんなことに気を留めている場合ではなかった。
どうすればこの沈黙をうまく破ることができるだろうかと,怜は必死に言葉を選んでいた。傷付けないための言葉を選ぶのは難しかった。
むしろ,もう余計なことは口にせず,何も言わずにただ黙ってここにいるだけなのが正解なのではとも思えた。
睦の様子をを横目でそっと窺う。あれから何も言わずにただ遠くを見ている。
ジリジリと照りつける太陽と虫たちの声が,空気をうんざりするほど熱くする。
喉が渇いた。そうだ,と怜はこの場を離れるいい口実を思いついた。
「喉が渇いたから,飲み物買ってくる。大山さん,お茶でもいいかな?」
女の子に選択を与えるときは,なるべく選択肢を絞ったうえで,最後はイエスかノーで答えられるように訊ねた方が相手を困らせずに済むと,何かの小説に書いてあったのを思い出した。
そして,あくまでも,「自分はこうするのだけれど,一緒にどうですか?」というスタンスで訊ねるのが良いそうだ。「一緒に何々しよう」という言い回しや,「何々してあげる」という言い方は,強引だったり,恩着せがましくなるのでよくないとも書いてあった。
怜にはどうしても,女心は難しいという偏屈な印象があって,それは崩しがたかった。
睦の返事は無い。
怜はまたしても渦巻く真っ暗な海へと突き落とされる感覚がした。やっぱり異性は難しい。同性でさえ,相手の気持ちは分からないのだから当然のことだろう。
なにより,僕は加害者であり,恐怖の対象だったのだから。いや,まだそう思われているのかもしれない。
怜はぼーっと昔のことを思い返していた。あれこれ考えるのに疲れたようだった。とにかく,普段から気を遣うことが苦手な怜には荷が重過ぎる様だった。
ここよりももっと田舎に住む祖父母の家を思い浮かべる。まだ怜が幼いころによく遊びに行ったけれど,しばらく顔を出していないのを思い出した。今年の夏休みには一人で行ってみようかななどと考えていた。
そんなところへ,大きなアゲハチョウがひらひらと近づいてきた。
二人とも目でそれを追う。
「そうだ,サンショウだ」怜は急に思い出されたその名を口にした。
祖父の家の庭に,大きなサンショウの木があった。この独特な香りはサンショウの香りだ。
祖父の家が思い出されたのも,この香りに誘発されたからなのかもしれない。
アゲハはサンショウの木に向かって飛んで行くようだった。
「ミカンじゃないんだ」怜が呟く。
「サンショウもミカン科なんだよ」睦がアゲハを遠くに見つめたまま答えた。
「そうなんだ。知らなかった」
そういえば,祖父の庭にもよくアゲハが舞っていたかもしれない。
「田んぼのあぜ道でもよく見るかけね」怜が続けた。
「それはキアゲハかもね」睦が返した。
「あー!名前は知ってる!けど,見分けがつかないな・・・」会話をつづけようとかいう意図ではなく,純粋な感想だった。
「さっきのはナミアゲハで,羽は白っぽくて,縞々が目立つけど,キアゲハは・・・」そう言いかけて睦が思い出したかのように口をつぐんだ。
「教えてよ!」怜は自然とそう返していた。
純粋な知的好奇心から,もっとたくさん知りたいと思った。
「キアゲハはナミアゲハよりもっと黄色くて縞々はそんなにはっきりしてないかな・・・」控えめに睦が続きを口にした。
「さすが!むっちゃん昔から虫に詳しかったよね」そういうと,怜はしまったと思って目を逸らした。
睦も気まずそうに視線を伏せた。
暁人と同じように,怜は睦とも幼稚園から今にかけてずっと一緒だった。その幼稚園での睦の呼び名が「むっちゃん」だった。
だが,小学校に入り,周りがその呼び方をしなくなるにつれて怜も暁人も昔のように呼ぶことはなくなっていった。なにより,特段仲が良かったというわけでも無かったのに馴れ馴れしい呼び方をするのは気恥ずかしかった。
もっとも,学年が上がるにつれて接する機会は少なくなり,名前を呼ぶこと自体が殆どなかったのだが。
「そ,そうだ,じゃあ何でキアゲハはあぜ道にいるの?」怜が間を埋めようとして訊ねた。
睦は黙っていた。
怜も黙った。
睦は昔から虫が好きだった。そのことについて,女の子らしくないという大人たちの声を嫌というほど聞いた。小さいころはまだよかった。男女の隔たりは今ほど強固で厳格なものではなかった。それは行動の面でもそうだし,外見でもそうだった。
しかし,成長するにつれて,自分が生物的にも社会的にも女であることを自覚せざるを得なくなっていった。虫が好きだなんて女らしくないという考えが浮かんでくると同時に,好きなものを素直に好きと表現できない悔しさが込み上げる。
昔から決してお転婆な性格ではなく,むしろ大人しかった睦は,周りの目からは紛うことなく女の子に見えたし,もちろん扱いも物静かな女の子としてのものだった。
そんな彼女の中に葛藤が生じていたことは誰も気が付かなかったし,本人も打ち明けなかった。内向的な睦には,友達はもちろん,親にさえ自分が好きなものを表現するさえためらわれた。
自分が女であることという変えることのできない現実,女らしくあれという社会の要望の理不尽さにどう対処していいのかが分からなかった。
周りの女の子が自分を,社会をどう捉えて生きているのかすごく不思議で気になった。
その矢先に,いじめという困難が降りかかった。
皮肉にも,そのきっかけとなったのが虫が好きであるが故に生じた出来事であった。
中学1年生のとき,教室に1匹の蜘蛛が迷い込んだ。その蜘蛛は大型で肢が細長く,巣を張らない反面非常に素早い動きをする蜘蛛だった。
「うわああぁっ!!」
その生物を発見した男子生徒が上ずった大声を上げ,椅子の上に飛び乗って避難をした。
「く,クモだ!!クモがいる!!」
周りの生徒は蜘蛛ごときで騒ぐその生徒に呆れた様子だったか,その視線の先にいる生物を見た瞬間に同じような反応を示した。
女子からは悲鳴,男子からは慄き声が上がっていた。
「殺せ!殺せ!」と興奮気味の声が上がった。
何人かは叩き潰すための道具を手にし,直接踏みつけようと近づく者もいた。
慌てふためき興奮する生徒たちによる影や床の振動から危険を察知したのか,その蜘蛛はちょうど睦の座る席まで一直線に走り抜けてきた。
ただ睦にとってその蜘蛛は,何の変哲もないアシダカグモでしかなかった。
彼女は無害で,益虫ですらあるその蜘蛛を素早く手に取ると,窓の外へと逃がしたのだった。
普段教室の片隅で目立つことのない女子生徒が,不気味な蜘蛛をいとも簡単に扱う光景は,殺気と熱気に満ちた教室に一瞬で静寂をもたらした。
睦は振り返ってぎこちなく笑うとそのまま席に着いた。
もし,この場に悪意に満ちた人間が居なければ,歓声が上がることもあったのかもしれない。だが,このクラスはそうではなかった。
「うっわ!気持ちわりぃ!!」と,第一声が上がった。
木村龍哉の声だった。
禍々しい災いの産声と呼ぶに相応しかった。




