ボルト・アゲイン
朝日が降り注ぐ林道に怜の姿があった。ペダルの上に立ち,全身を使って自転車を漕ぎながら坂道を力いっぱい登ってゆく。
暁人のことはなるべく考えたくなかった。あんな方法でよかったのかどうかはわからないけど,暁人の為にはその方がよかったと思うようにした。
暁人は傷ついただろうか。きっと傷ついただろう。いや,友達の多い暁人のことだ。僕一人居なくなったところで大して気にしないかもしれない。
明るい友達と一緒にいる方が,暁人にとってもいいことに違いない。どのみち,いずれは暁人にばかり頼るのをやめなければいけなかったのだ。そうでないと自分が成長できない。
いじめについても同じだった。今できることは何もない。不安はあるけれど,夏休みに入り教室から離れられていることもあり,まだ些細なものだった。
林道はそのピークを向かえつつあった。緩やかなカーブを描きふもとまでに至る下り坂が姿を現した。
坂を下るとその先に小さな公園と図書館がある。怜の目的地は図書館だった。
坂道をブレーキをかけずに一気に下っていく。この町の子どもなら,大人から危険だから絶対にスピードを出すなと再三にわたって言われている道だ。
しかし,この全身で風を切る快感に身を委ねずにはいられなかった。スピードが上がるにつれてハンドルを握る指に力が入り,不安に似たドキドキが増していく。
そして,途中で怖いくらいにスピードが出たときブレーキをかけるべきか,上手く下りきるかで葛藤が始まる。それを乗り越え,最後までブレーキをかけずに下りきれた時に妙な達成感が生まれるのであった。
そんなスリルと快感を味わっていると,目的の図書館が見えてきた。町の図書館の分館にあたるような場所で,規模や蔵書の数,そしてアクセスのしやすさなら,圧倒的に本館の方が良かった。
それでも,怜はこの分館の小ぢんまりとした雰囲気が昔から好きだった。なにより,ここで本を借りた後にすぐ隣にある小さな公園で読書をするのがとにかく心地よかった。
駐輪場に自転車を置いた時には,怜は汗だくだった。ポケットからハンカチを取り出して汗を拭う。開館時間ちょっと過ぎたくらいの時刻なのに,すでに自転車が1台止まっていた。
館内に入ると,まだ空調が十分に効いていないようで,生ぬるい空気が肌にまとわりついてきた。
キンと冷えた空気に迎え入れてもらえることを期待していただけあって,怜はがっかりしてうなだれた。
とぼとぼと目的の本がある2階へあがっていく。
「何から探せばいいのか・・・」周りに聞こえないくらいの音量で呟く。
部活動の夏休みにやりたい活動のテーマを探しに来たのであった。
とりあえず,それらしい本を片っ端から手にして,読書スペースに持っていく。蔵書が少ないと,限られた中から選ぶしかないので気が楽だった。
席について手にした本をざっくりと読んでいく。興味のある内容さえ拾えればよかったので,精読するつもりはなかった。
とはいえ,暑さで集中が続かない。涼しくなったらやればいいやという,上手い逃げの言い訳を思いつき,本を返却台に戻した。
マンガコーナーのある一階へ降りていく。
一階へ降りてすぐに,空気がキンと凍りついた。
怜の視線の先には肩からトートバッグを提げた,見覚えのあるショートヘアーの女の子が立っていた。睦だった。
睦も目を丸くして固まっていた。
スーパーの時よりもずっと近い。鉢合わせに近い状態だった。
言葉に詰まった。泳いだ視線が睦の抱える本に留まった。
それに気づいた睦はさっと本を隠すと,逃げるように出口の方へと歩いて行った。
怜は暫く呆然としていたが,いつの間にか睦を追っていることに気が付いた。そして,無意識のうちに自転車に乗ろうとする睦に声をかけていた。
「まって!」
睦の小柄な体が跳ね上がった。
怜は動揺していた。声をかけたところで,何を話せばいいのかもわからなかった。それに,なぜ今自分がこんなことをしているのかもわからなかった。
「あ・・・えっと・・・」もちろん次に続く言葉は無かった。
睦は振り向かずに自転車のスタンドを上げた。
怜の足は勝手に飛び出し,睦に近づく。
「ごめんなさい!」何の脈絡もなく,そう切り出していた。
怜の罪悪感から現れた言葉だったのかもしれない。
「ずっと見て見ぬふりしてて,助けようとしなくてごめんなさい」さらに続けた。
睦が振り返った。
目を細め,口は真一文字に結ばれていた。言葉は無かった。
怜は,睦の気持ちが分からなかった。彼女が何を今感じているのか。その表情からは何を読み取るのが正解なのか。怒りなのか,哀しみなのか,恐れなのか。
何もわからない以上,何を続けたらいいのかわからなかった。会話は一方的に行うことはできない。
二人の間を上空を,アゲハがしばらくひらひらと舞って飛び去って行った。
「今更謝ったところで遅いけど・・・本当はなんとかしたくて。でも怖くて。自分のことしか考えられてなかった・・・」
怜は会話をすることを諦めた。ただ一方的に言葉をぶつけつづけた。
「大山さんがひどいことされてるのも,苦しんでいるのもわかってて,自分以上に怖い思い沢山してたと思うのに・・・」息継ぎをする。吸い込む空気が震えている。
「許してもらいたいわけじゃない。ただとにかく謝らなきゃって思ってて・・・昨日会った時だって,本当は怖がらせるつもりなんてなくて,その・・・」
睦は動かなかった。逃げようともしなかった。
かと思うと,両手で顔を覆ってその場でうずくまった。
スタンドを上げられていた自転車は,支えを失って傾いていくのがわかった。
「えぇっ!?」と,怜が思わず叫ぶ。
必死に駆け寄り,自転車を両手で掴んだ。すぐにスタンドを下げて自転車を立て直すと,少しその場から離れた。
頭を抱えたくなった。記憶する限りでは,生まれて初めて女の子を泣かせてしまった。たじろぐ以外に何もできなかった。どうやって声をかければいいのだろう。
「ごめんね,ごめんね」微妙な距離を保ったまま,後ろから声をかけた。
「泣かないで・・・」自分が泣きそうだった。
「あぁー・・・もう・・・どうしよう・・・」稚拙な言葉しか出てこないのが情けなかった。
いままでちょっと背伸びをして大人になっていた自分が恥ずかしかった。思えば,分け隔てなく女子と会話していたのはせいぜい小学校中学年までくらいだったのではないだろうか。
「大丈夫?嫌だったよね。ホントごめん」ただ一方的に声をかける。
こんなとき,フィクションの世界では,男の人がそっと女の人の肩に手を回したりするけれど,あれはフィクションだから許される。出来たとしても恋人同士だろうし,この状況でやったら追い打ちをかけるだけだ。
「一方的過ぎたね。本当に自分勝手でごめんなさい」
もはや睦の耳に自分の言葉が届いているのかもわからなかった。
何をしたらいいのかわからないまま,怜は睦の前に回り込み,しゃがんでいた。
「大丈夫?」と声をかける。
睦は両腕で膝を抱え頭を埋めていた,そして,怜の言葉に静かに頷いた。
わずかな反応が返ってきたことに怜は安堵した。わずかな心強さのようなものさえ感じた。
「た,立てるかな。どこか座れた方がいいかな」独り言にも聞こえる曖昧な言葉だった。
その問いかけにも睦はゆっくりと頷いた。怜は余計に混乱した。いよいよ睦の気持ちが分からなくなった。
自分が睦を引き留めている言い方だと思った。帰れるかと聞くべきだったのかもしれない。ただ,このままさようならというのも妙な気がして,あのような言い回しになってしまった。
「図書館に戻る?」
正しくないのは承知の上だったが,一番近くて座れるところが図書館だった。
睦の反応はなかった。やっぱり嫌だよね。心の中で怜はそう返した。
「じゃあ公園は?ちょっと距離あるけど・・・」怜が続けた。
すぐ近くとはいえ少し距離があるので,泣いている女の子を歩かせるのは気が引けた。しかし,睦はゆっくり頷いた。
「歩ける?」怜が訊ねる。
睦は頷くが,立ち上がろうとしなかった。
怜は途方に暮れた。本人は立てるし歩けるというけれど,その気配がないのだった。
しばらくすると,利用者がポツリポツリと現れはじめた。みんな怜たちを妙な目で見て去っていく。
怜はいてもたってもいられなくなり,つい気が付くと,睦の手を取っていた。
「行こう」そう言いつつも,心臓が飛び出る思いだった。
いますぐに手を離したかった。緊張で手がじわじわと汗ばんでくるのがわかって居た堪れなくなった。無理やり手を取っただけでも十分不快な行為かもしれないのに,その上手汗なんて。自分が相手だったらと考えると身震いする。
睦は俯いたままゆっくりと立ち上がった。怜もそれに合わせてゆっくり立ち上がる。彼女はまだ泣いているようだった。空いた手で目を塞いでいる。
怜は手をそっと,徐々に離そうと試みた。しかし,手は離れなかった。本心は離したくなくて思い切りに欠けていたのかもしれない。
「ごめんね」と呟いた。
助けられなくてごめんね。泣かせてごめんね。手なんか取ったりしてごめんね。こんな状態で歩かせようとしてごめんね。色々なごめんねが含まれていた。
怜は睦の自転車に鍵をかけ,その鍵をトートバッグに滑り込ませると,トートバッグを空いた手に持って歩き出した。
睦はただ黙ってついてきた。ときどき,小さくしゃくりあげる息遣いが聞こえてきて,怜はそのたびに苦しくなった。
歩いて3分もかからない距離が,遥か彼方に感じた。
歩き始めたらもう手を離しても良いんじゃないかとも思ったが,手を離したら,そこでまた睦はうずくまってしまう気もした。ただ,彼女が不快に思っていないかだけが心配だった。
本当は本人は正気じゃないのかもしれない。上の空で僕が無理やり手を取って歩かせているのではないのだろうか。本当は今すぐ帰りたいのに,僕がその選択肢を与えていなかったせいでこうなってしまっているのかもしれない。それとも,恐怖のあまり無条件で従ってしまっているのかもしれない。
そんな不安や心配が怜の頭の中をぐるぐると回っていた。
怜は日陰のあるベンチのうち,一番近いところを選び,睦を座らせた。
「自転車の鍵はバッグの中に入ってるから」そう言って,トートバッグを手渡そうとした。
だが,睦は受け取ろうとしなかった。怜はただ困惑するだけだった。
しだいに手を取っているへの恥ずかしさが溢れてきた。どちらが手を離すまいとしているのか最早わからなかった。
手を取ったときは,睦を座らせたらすぐに荷物を渡して別れようと思っていたが,今の状態の彼女を一人置いて去るのは流石に気が引けた。
怜は手を取ったまましばらく困惑して立ち尽くしていたが,恐る恐る睦の隣に腰掛けた。なるべく離れて座るようにしたせいで,つないだ方の手が二人とも伸びきっている変な状態になってしまった。その状態もさらに怜を困惑させた。
「手,急につないでごめんね。もう大丈夫かな?」怜がおどおどと口にした。
睦の手に反応はなかった。ただ力なく怜の手の上に置かれただけだった。やっぱり,離そうとしなかったのは怜の方だったに違いない。
急に申し訳ないという思いでいっぱいになった。考えてみれば,睦が加害者のてを取りたがるはずはないのであった。自分への気持ち悪さがこみ上げてきて,怜は苦虫を噛み潰したような顔になった。
そして,そっと手を離すと,バッグを睦の隣に置いた。
睦はまだ泣いているようで,ぽろぽろと涙がこぼれ,シャツに染みを作っていた。
「これ・・・」怜はよく考えずに,ハンカチを差し出した。
「ありがとう」睦が初めて言葉を発した。
怜は久しぶりに聞いた睦の声に,どこか懐かしい気持ちを覚えて嬉しくなった。が,何かを思いだしてハッとした。
「ダメ!」怜はとっさに渡したハンカチをひったくった。
睦は腫れぼったくなった目を驚いたように見開いた。
「これ,汗ふいたやつだった!汚いよ!」
必死の形相をした怜の顔が見えた。
睦が噴き出した。
怜にはその意味がよく分からなかったが,多分悪い意味はないのだろうと思って,すこし顔を綻ばせた。
太陽は高く昇り,容赦なく陽射しを降り注いでる。
この日も相変わらずアブラゼミが喧しいほどに鳴いている。これから8月を迎えるにつれてさらに賑やかになることだろう。




