第1節
「肌色のシュウマイ、想像してみてよ」
彼女の訪問は、いつも突然だった。
迷惑しているわけでもないが、俺は大抵どこかのだれか――、その時々に都合の良い家に身を寄せている。つまり居候の身なのだ。肩身が狭いなんてスカして言えば聞こえはいい。本音を言ってしまえば、面倒は起こしたくない。
彼女は、ベッドに横たわるでっぷりと太った男を一瞥した。汚らしい腹を出して鼾をかいている男は、知り合った当初からだらしがなかった。太った体は、相撲取りのような動ける体つきではない。垢と脂汗が染み付いたジャージを何ヶ月着ているつもりなのか、居候の身とは言えうんざりしてくる。
狭い部屋では酷く臭うが仕方ない。
俺は、彼女のためにゴミを掻き分けて座る場所を作った。狭い六畳一間のアパートでは、家主のベッドの他にPCが置かれた机と棚でいっぱいになる。つまり3、4人程度しか座ることができないスペースが俺の居場所であり、しかも床はペットボトルやカップ麺の容器、菓子の袋や変色したティッシュなどで溢れ返っている。
俺は寝入っている家主のベッドにもたれて座り、小さなテーブルを挟んで彼女を招いた。
ただ、ありがたいことに若い家主は興味の無い事には全く目を向けない。無感心なのか豪胆なのか分からないが、今のところ単に鈍いのだと結論している。
「ねぇ。肌色のシュウマイ、想像した?」
ベッドの脇に据えられた小さな冷蔵庫に手を突っ込んでいる俺に、彼女は再び同じ事を言った。
「なんだい、それは?」
俺は、缶ビールを二つ、冷蔵庫から取り出した。
一つを彼女に手渡し、もう一つのプルタグを引くと、飲み口を割る小気味よい音がたった。たまらない音だ。飛沫と一緒に、ほろ苦い匂いが溢れた。
「いいから想像してよ。肌色のシュウマイ、上にグリーンピースが乗ってる安物ね」
「分かったよ。それで?」
「それから、上のグリーンピースを取ってみて」
「そうだな。穴ぼこがあいたぞ」
「そう、そんな感じ」
「なんのことか分からないな」
「そう? 新しい自己表現に、チャレンジしてみたのよ」
そう言ってほほ笑むが、意味が分からない。
どうやら、来る前にも飲んでいたようだ。頬がうっすらと赤い。艶のある髪が乱れ、頬に掛かってもあまり気にしていなかった。まあ、どうせ無駄話なのだ。数年ぶりの再会でもあるし、今度は一体何をやらかしたのか、話しを聞くのも悪くない。彼女は、珍しく手土産を持参していた。
団扇2枚分ほどの、それは大きな赤蜂の巣だ。
活きが良いのだろう。たまにカリカリと音がする。六角形の小部屋に隠れる蜂の子だ。引っ張り出すには、小さな障子紙のような蓋をめくればいい。見た目以上に丈夫なので、下手をすると蜂の子まで潰してしまう。
俺は、蛆虫のような蜂の子を口に放り込んだ。
ねっとりとしたとろみが広がる。味噌を塗りつけて、さらに一匹噛みしめた。
「相変わらず味噌が好きなのね」
「まあな、うちの家系は、味噌好きなんだ。親父は、味噌だけで飲める」
「そうだったかなぁ。別にどうでもいいけど――」
「ひでぇ言い方するのな。どうせなら赤蜂じゃなく、地蜂なら良かったんだが」
「こんな街中じゃ捕れないわよ」
彼女は、窮屈そうな上着をベッドに投げた。寝ている家主の隣に落ちたが、それなりに気を使っているのだろう。乗り損ねた部分が、するりと垂れ下がった。ビル街を闊歩するOLが好みそうなスーツだ。床は、家主のゴミ……、菓子袋やコンビニ弁当の包みが転がっている。油の浮いた床が、汚らしくべっとりと光る。衣服が汚らしい床にさえ付かなければいい。そんなところだろう。ただベッド自体、清潔かどうか分からないが――。
「なんだ。てっきり親父さんの差し入れかと思ったんだがな」
「違うわ。しばらく父の顔も見てないから」
「そうか――。親父さん。センソ、欲しがってたぞ」
「知らないわよ。あんな情けない親父。いっつも、あっちが悪い、こっちが悪いって――、薬ばっかり。薬なんて、一番縁遠いはずなのにね。センソなんてどうせ時期外れでしょ?」
「ああ、盆があけちまったからな。五本指ばかりだろう」
「でしょ。大した事もできないクセに、『四六に限る』とか、『質が違う』なんてさ。偉そうに――。ガマの油ぐらい自分で採ればいいのよ。お爺様とは、大違い」
「確かに、お前の親父さんは、頼りないな」
「お爺様は、医者が震えあがるぐらいの豪傑なのに。信じらんないわよ」
彼女は、乱暴に巣をむしって、蜂の子を引き摺りだした。一匹の幼虫がつぶれ、汁が飛び散った。飲んで来たのは分かったが、手付きが覚束ない。すでに、結構な酒量なのだろう。彼女は、髪をかきあげて、一気にビールを飲んだ。白い首が際立つ。咽頭が、上へ下へと動いて、黄色い液体がなくなった。細く、なめらかな首筋だった。
「おい、無茶するなよ」
そう言いつつ、新しいビールを手渡した。
「堅い事言っちゃって――。らしくない――」
「ペースが速すぎると言ってるんだ。今度は、何をやらかしたんだ?」
俺は、彼女の手から蜂の巣を受け取り、割り裂いた。
すでに成虫になっていた奴が、驚いて這い出てきた。羽を広げ、今にも、ぶぅぅんと威圧感のある羽音を立てそうだ。小さなアパートの中で飛び回られたらたまらない。俺は、それを叩き潰した。盛大な音がしたが、ベッドから聞こえる鼾に変化はなかった。俺は、つぶれた死骸を拾い上げて、カビの生えた即席麺のカップへ落とした。
「私達って、これでもちょっとは有名人よね。その割に報われないと思われない?」
「確かにそうだがね。勘違いしちゃいけないのは、爺様の威光だってところだな。親の七光り、というよりただの血筋か……。そんなもんじゃ誰も認めちゃくれないさ」
「そんな事分かってるわよ。おじい様が凄い人だって事ぐらい。それでね。考えたの。このままじゃ、どんどん落ち目になっちゃうなぁって――。あなたには悪いけど、色々、手は打ってあるのよ」
彼女は、焦点が定まらない目付きで、挑発的な笑顔を向けた。
くっきりとした二重。まどろむような瞳が、妖しい。彼女に媚びはなかった。どうにも息苦しくなってくる。半開きの艶やかな唇が、色気を誘う。生唾を飲み込みそうになった俺は、ビールで誤魔化した。
どうせ、彼女は消えて居なくなるのだ。
落ち目どころではない。今となっては彼女を知る者などほとんどいない。確かに彼女の家系は、割合良く知られている方だろう。古臭い話なのだ。今となっては興味がない者が大半だろうから、知っている者の方が少ない。隆盛を誇った昔に憧れを抱いているのだ。憐れなものだな。
「そうかい。俺はのんびりしたもんさ。そこそこ話題にはなるがね。それで十分だ」
「何よそれ、覇気の無い。男ならもっと欲張りじゃなきゃ」
彼女はしなやかな指で、摘まみあげた幼虫を口に放り込んだ。
逃れようと身をよじる蜂の子。
それを舌の上で転がして弄んでいる。俺は、舌の上でもがいている乳白色の塊を想像した。次の瞬間には、命を失うであろう小さな虫が、彼女の舌に包まれている。
「それで今日は、愚痴を言いに来たのか? それとも、その『打った手』とやらがうまくいって自慢でもしに来たのか? もう明け方も近いぜ」
「冷めてるわねぇ。つまんないなぁ。もう……」
彼女は口の中のものを噛み潰し、膨れっ面でむくれた。
上目づかいで顔を近づけてくる彼女に、俺はたじろいだ。張りのある胸元が露わになり、胡坐をかいた俺の膝に触れそうになる。彼女の髪からむせるような香りが立ち登り、気持ちが揺れた。瞳の奥が見えそうなほど近い。彼女を見降ろしながら「これが俺の性分だ」などと無関心を装ったが、声がうわずってしまう。
「そぉお? もっと熱い男だと思ってたんだけどなぁ」
白い肌に切れ長の目が、全てお見通しだと光っていた。
ゆっくり、わざと低い声でいう言葉が、猫なで声のようにねっとりと響いた。囁くように「あなた、ヒール役でしょう。ヒール役らしく、ちゃんと本性出しなさいよね」と蠢く唇に、脳髄が痺れた。
もはや我慢できそうにない。
彼女を引き寄せて唇を重ねると、熱っぽい吐息が漏れた。以前も俺が押し倒したが、今は逆に弄ばれている。彼女の舌が激しく絡みついてきて、まるで赤蜂の幼虫になった気分だ。
唇を重ねたまま、手と足を絡ませ、彼女を組み敷いた。
嬉しそうに上気した頬が、白い肌を際立たせている。彼女は少しだけ身をよじった。露出度の高い衣服を剥ぎ取ると、白い手がベルトに伸びてくる。その手は熱かった。
俺は薄い下着を通して、柔らかく豊満な胸を楽しんだ。
触れた時、奇妙な違和感があったが、気にせず何度も絞るように感触を味わった。彼女の肌に手を這わせ、下へ下へとまさぐると、蒸し暑い夏の夜を耐え忍ぶような……、蒸れて熱い湿り気が広がっていた。
下着の隙間から指をもぐり込ませ、いじり回した。
柔らかな部分は、指を簡単に飲み込んでゆく。彼女はのけぞったが、つかんだ手を放そうとしない。薄く開いた唇から荒い息を漏らしている。
俺は、彼女の胸を隠す最後の一枚を、胸元まで引き上げていった。
白い乳房が弾むように現れ、可愛らしい乳首が踊って見える――、筈だった。それを期待して顔をうずめるつもりでいたのだ。だが、そこにあったのは全く別のものだった。ぎょっとした俺は、全ての動きを止めた。
なんだこれは――。
彼女を見ると横目で俺を見ていた。
ずっと見ていたのだろう。息は弾んだままだったが、視線を逸らすように顔をそむけた。「ねぇ。助けてよ――」彼女は、かぼそい声でそう言った。