セロハンテープ大作戦と回収済みのシン
◇Real◇2019/05/11 17:51◇
未だ頑なに落ちようとしない太陽を恨みつつ、ようやく辿り着いたところは、いつしか細かく区画分けされた東京都の一画だった。海が近いらしく、ゆで卵にかけたくなるようなほのかな潮の香りと静かな波の音がしてくる。
人でごった返す駅からたった二十分ほど歩いたところだっていうのに、ここは人通りがほぼなく、雰囲気はまさに深夜のそれだ。スーパーはおろかコンビニの一軒すら周囲に見当たらない。無機質な雑居ビルの軍団だ。
やがて俺と麗菜と栗原は、神童伝狼から聞いた住所へと辿り着いた。携帯で住所を検索しつつナビゲーションに忠実に従ってきたわけで、情報が正しい数値であるならば、間違いなくこの付近にあるはずだ。
「ここ、か?」
少し練り歩いてから、俺達は見るからに怪しげな一棟のビルを発見した。出入り口からちょっと中を覗くと、入り口のすぐ前に階段とエレベーターがあり、壁には『天頂』と情報通りのビルの名前が彫ってあった。
「でもこのビルの三階、三〇二号室って『インド式整体』ってテナントが入ってることになってるけど……」
なにかと不安をあおる、工事中と張り紙の張られているエレベーターの脇にある看板を、麗菜が眺めて訝しむ。……確かに、三〇二号室はインド式整体と表記されていて、他のテナントは英会話教室や不動産屋やら少々怪しいが、一応ここはそれなりに機能しているらしい。
「閑静にもほどがあるな。もしかして映画撮影用のセットだったりしてな」
そんな冗談もひゅるりと流れてくる潮風に流される。
「ん……」
ちょっと下がってビル全体を眺めたとき、ビルとビルの間に細いわずかな隙間を見つけた。人間ひとりくらいは入れそうで、その間を伝うパイプが登ってくれよと誘っているかのようだ。
「俺、ちょっと見てくる」
そう口にして俺の足は勝手に駆け出していた。
『――え?』
ビルとビルの間をパイプを駆使して登っていく。三階分の高さなぞ大したことはない。俺の体ならやってくれるはず。運動神経は比較的いいほうだった――――中学校までは。
眼下でこちらを見上げる麗菜と栗原を文字通り尻目に、俺は苦もなく三階の窓部に辿り着いた。そして落ちないようにパイプに足を絡めてそろりと中を覗き見る。と――――
「――っ!?」
ずるり、と危うく落下してどこか別の世界に逝くところだった。驚愕に思わずパイプに絡ませていた足が緩んでしまったのだ。
下から聞こえてくる大声に決死のジェスチャーでダ、マ、レ! そして再び確かめるために盗撮犯よろしくもう一度こっそりと中を覗く。
「マジ…………かよ」
窓の外から見えた三〇二号室には、インド式整体のイの字も欠片すら見当たらなかった。代わりにそこにあったのは、壁際で稼動する何台ものパソコンと、それと面向かう数人の人間達。
そして例によってだ――
――――部屋の中央には、ミラワーのプレイ環境がいくつか揃っていた。
床に並ぶフロア、天井からぶら下がる液晶。立派な大人がミラーズパッドを身に着けキャラクターを操作している光景が、半紙に染込む墨汁のように、じっとりと目に入り込んでくる。
ダメもとで瞼を長く閉じて、開く。変わらない。だがそこで途切れていた俺の脳内回線の工事が完工した。
「"そういうこと"か、神童伝狼……!」
ぎり、と奥歯を噛み締めた。べつに怒っているわけではない、ただ――ただワクワクしてるっていうか。なんていうか、怒気怒気が止まらねぇ。
全部が今、繋がった。かの元凶がここにいるのだ。
どこで入手したのかわからないが、神童伝狼の情報は正しかった。……いや、まだ判らないか。問題は部屋の中の大人達がミラワー内で"なに"をしているかだ。遊んでるなら別に問題はない――わけでもないかもしれないけど?
「うし」
とりあえず下に降りて今見たものを報告しようと身を翻す。
――ガッ。
「やっべ……!」
高ぶる動悸のせいか、ぶれた俺の肘が窓枠の金属を見事に捉えた。あぁいい感じの大きな音が……。
逃げるようにして慌ててパイプを下っていく途中、二階付近でやはりお約束か、見事にパイプをつかみ損ねて俺は落下した。
人間ピンボールが始まり、両脇の壁に交互に体を打ち付けつつ、最後に無様な格好で地面に激突。放置されたままの深い雑草のおかげで不幸中の幸いの九死に一生である。
「くっ……ふっ……」
「うわっ! シンさん!」
ここで格好よく着地できたらどれほど素晴らしかったことか。一瞬の脳内妄想も痛みによって吹っ飛ばされる。
「ちょ、ちょっと! アンタ大丈夫――」
「い、いいから早くこい! 二人とも!」
俺は駆け寄ってくる麗菜と栗原の腕をひっつかみ、とっさの判断で隣のビルの入り口付近の死角になるところまで走った。
「ちょっと、なに!?」
「バカ、黙ってろ……!」
声を押し殺して精一杯の強さで二人を抑える。そこでちょうど足音と人の声が聞こえてきた。
「おい、いきなりどうしたんだ?」
「いや、外で音が……。おまえ気が付かなかったか? 警察かもしれねぇ……!」
がさがさとビルの間を調べるような音。もし見つかっていればインド式整体で体を木っ端にされていただろう。
「んぁー? 風だろ? ここらはビル風が凄いんだからよ、空き缶でも飛んだんだろ。それより急げ、例の"ランクエクストラ"の入札が始まるぞ!」
「ああ、今夜は飲めそうだっ!」
子供のようにたいそう嬉しげな声があがったかと思うと、その人物達の足音は次第に遠く薄れていった。
「……ランクエクストラ?」
まさか、と麗菜が息を呑む。恐らくそのまさかだろう。ランクエクストラの単語を聞いて俺も確信した。
「もうわかったろ?」
「ぼ、僕なんとなく、わ、わかっちゃいました」
「そう……じゃぁ彼の情報は完全に嘘ってわけでもないの……か」
こくり、とパ二クらずに頷く二人に感謝する。ここでまた騒がれても面倒だし。
「そ、それより……」
麗菜が痛ましい視線で俺の額を見てくる。む、と額に手をやると、汗にしてはやけにぬめりとする液体に触れた。そのまま目元に持ってくると手についていたのは血だった。量からすれば重症ではなかろうが、どうも落ちる時に額上部の髪の生え際あたりを切ってしまったらしい。
「あー……やっちまったな。ティッシュあるか?」
「ありますあります!」
すかさず栗原がポケットティッシュを取出し俺に渡してくれた。
「さんきゅ。…………あぁくそ、なかなか止まらねぇな」
新しいティッシュをあてがってもすぐに滲んできてしまう。――と、余分な血液が抜けたことによって脳みその回転が飛行機のプロペラ程度に速くなったのか、俺はすぐさまこのあとに起こりうるであろう状況をいくつか想定し、同時にこの傷の応用を思いついてしまった。ぴきーん、ってやつ。
あぁそうさもしかしたらこの傷はきっと使える。"やられたら二割り増し程度の仕返しをするのが俺の信条であり真骨頂"だ。
「ときに栗原、そのカバンに筆箱とか入ってるか?」
突拍子な俺の質問に首をかしげつつも栗原は一応、と言ってカバンから筆箱を取り出してくれた。
「そんでその中に"セロハンテープ"とか入ってねぇか?」
「セ、セロハンテープですかぁ? いちおーありますけど……」
「へ? ギャグ漫画じゃないのよ!? 近くのコンビニで絆創膏でも――」
言いかけて気付いた麗菜は周辺を見渡して口をつぐんだ。コンビニはおろか、民家すらない。
「いいんだよ、ちょっと額だけに頭のいい作戦だ。よーし栗原、そいつをばっちり決めてくれねぇか」
俺は栗原に額を突出し、一瞬だけ血が止まった隙に、傷口にテープをぺったんことやってもらった。"仮止血"完了。
「よし、さんきゅ」
髪の毛を軽く下ろせば透明なテープは見えまい。
『…………』
「なんだよ、笑ってる場合だぞ。これ」
じーっと見てくる二人に笑いかけたが、残念ながら笑ったのは俺だけ。でもそれは今後の作戦を知る者にしかわかるまいからしょうがない。
「まぁいいや、ちょっと実際に様子を見てくる。窓の外からじゃミラワーでなにをやってるのかがよく見えなかった。どっちかといえば怪しい方面だと思うけどな」
ここまで来たんだ、挨拶のひとつもしないと失礼だ。
「なに言ってるの!? 一人じゃ危ないに決まってるでしょ? 私も行くわ」
ずい、と麗菜に下から睨まれる。眉毛の角度がいつにもまして危機感をあらわにしていて、許さないといった矢じりのように鋭い瞳が俺の眼球を射抜く。
「二人、三人なら安全ってか? そりゃねぇだろ。べつにとっつかまって殺されるわけじゃないんだ。ヤクザのお兄さんがいるわけでもないだろうし、ただのゲーマーの可能性があるだろ。なら体力差は言うまでもない」
麗菜の威圧に負けじと上からフタをするような視線を向ける。
正直、危険な香りは漂っている。だけどそこにこの二人を連れて行くのは俺としては許せない。少しでも危険の可能性があるなら、女子供を連れて行くわけにゃぁいかねぇ、ってやつだ。いやほんと。
「それは……まぁ。でもアンタの運動不足も深刻よ? ミラワーが体動かさないゲームだったらとっくに"良い体型"になってたはず」
「そりゃお互い様――ぃってぇ!」
怪我人の人権は拳によって砕かれた。はい、見事なスタイルですよ麗菜お嬢様は。一点を除けば。
……まぁ、正直相手が陸上競技の選手並じゃなければ逃げられるだろう。覗き見て帰ってくるって手もあるし。
「でもそうだな、念のためだ。もしなんかヤバそうだったら麗菜の携帯に合図を送る。そしたら警察でもヒーローでも呼んでくれればいい。もし先に電話してまったくのお門違いだったら、怒られるのは俺達バカ御一行様だけだからな」
言い切って俺は頑として耳を塞ぐ。
「…………わかったわ。でも危なくなる前に連絡してよね。時間稼ぎできるならいいけど」
「気をつけてくださいよ、シンさん。危なかったら僕も突撃しますから!」
多分余計状況はひどくなるであろうが、あえてそれは言わないでおく。
「ああ、期待してるぜマロンジャー。装備を整えておけよ」
栗原の肩を二度叩いてから、俺は二人と別れて例の雑居ビルの中へと足を進めた。
こつり、こつり、と風の音に混じって不気味な自分の足音が耳につく。止まっていたエレベーターは乗れるわけがないので階段を使って三階まで向かう。
人の気がまったくないというか、なんかビル全体が重苦しい雰囲気をかもし出していて、それも階を上がるに連れてその重みは増していく。まるで廃墟だ。
「……三〇二は――こっちか」
階段の両サイドに一部屋ずつあり、例の三〇二号室の扉の前に立つ。控えめな感じで扉には『インド式整体』の表記。誰も体を調整しにこないだろうに、こんなとこ。
ドアノブをそっと握り、ひねる。するとかちゃり、となんの造作もなく扉は開いた。いや開いちゃった。さっき降りてきた奴らは鍵を閉め忘れたか。あるいは典型的な罠ってか?
「考えすぎか」
呟いて扉に感謝しつつ中を覗いて誰もいないことを確認してそろりと入る。
「……あれ?」
中はわりとしっかりとした受付だった。小さな部屋で扉のすぐ向かいにはちょっと長い木製のテーブル。その上にはボールペンやら記入用紙やら受付セット一式が置いてある。きれーなおねーさんが座っていれば完璧だったがその姿はない。
机の上の白いプラ版には『御用のある方はベルを鳴らしてください』、なんて書いてあって、その横にはこじんまりとした金色のベルがあった。思わず笑みがこぼれるほどのフェイク。押したら爆発こそはしないがそれ相応の洗礼がやってくるだろう。
ベルは無視して部屋内を模索すると、受付テーブルの後ろ、壁にぴったりと背をつけて置いてある社長が座るようなゴツイ椅子がやたらと目についた。そして極力足音を出さないように走り寄ってその椅子を動かしてみる。
「――ビンゴ」
案外緩かった。椅子をずらすと、なんとそこにはもうひとつの小さな扉があった。周囲の壁の色と同じく麦色に塗られていて一見わかりにくいが、縦線が一本入っているのが確認できる。まさか先月に麗菜と見に行ったスパイ映画の通りにいくとは。……いやまぁ映画の場合だと隠し扉の向こうに戦車の大砲が構えていたのだが。
身を屈めてほんの少し扉を押してみる、が、光が入ってくるようなことはなかった。どうやら先もフェイクらしい。
そっと中に入ると、次の部屋は資料室のようだった。人間一人が通れるような狭さで、両脇には金属製の棚が並び、カラフルなファイルが無数に並んでいる。その中身を示すためだろうか、棚にはなにか名前の書かれたラベルが貼ってあった。
なんの資料だろうか、と俺は手近にあったファイルを勝手に手に取って興味本位からぱらりとめくってみた。
「――――!?」
思わず力み、ファイルが歪む。一旦ファイルを閉じ、その表紙を確認する。
――――『シャドウ・シャドウ・シャドウ』。
俺も知っているとあるファンタジー系のオンラインゲームの名前、通称『SSS』。なにをしてもバッドエンドになるっていう真正ドM向けのコアなゲームだ。しかしなぜオンラインゲームの名前が……。
もう一度ファイルを開く。すると目に入ってきたのは一人の"キャラクター情報"であった。このゲームでプレイしているキャラクターの情報だろう。
名前、レベル、だいたいの所持金、主な所持アイテム、ログイン時間等々……。明記された日付時点での情報が赤裸々に記録されていた。そう、まるで履歴書。それも一人ではなく、何十、何百と――。ファイルいっぱいに記録されている。
ファイルの中身を知った途端、俺はぞくりと液体窒素を飲んだかのようなひどい寒気を覚えた。まさか…………な。
急いで他のファイルも確認していく。――いずれの中身もファンタジー、シューティング、ボードゲーム等々のオンラインゲームについてと、そのプレイヤー達の情報についてだった。
しばらく調べているうちにファイルをつかむ手に力が入らなくなってきて、するりと落としそうになってしまった。ひとつの確信と、いずれ目にするだろう光景が俺をそうさせたのだ。
努めて、冷静にファイルを元の位置に確実に戻す。それから最後に見るべきだろう、と両脇の棚に貼ってあるラベル達を確認していく。
ない……ない……ない。次の列。
ない……ない……ない。次の段。
ない……ない…………次――
「――…………!」
ちくしょう、あった。――――『ミラーワールド』。
あぁ、とてもよく知ってるゲームの名前だ。
怒りか、恐れか。小刻みに震える手で黒色のファイルを手に取り、開く。誰もいないというのに周囲への警戒。大人向けの"禁書"を初めて手にしたあの時の感覚が嫌な方向となって蘇る。
開いたその中には目立つオレンジ色の付箋が施されているページがいくつかあった。思わず反射的にその付箋の貼ってある一番最初の場所を開く。それが付箋の仕事だ。
「な……んだ、こ…………れ――――おい……」
開かなければよかったと、今になって後悔した。
「これは……俺の情報…………!」
途端、完全に膝の力が抜けた。ぐらりと体が傾き、ファイルを閉じようにも、両手は石造のように固まって動こうとしない。そしてなにより視線が離せない。
キャラクター名『シン』。
名前の欄にはそう記入されていた。その下には俺の"持っていた"アイテムやゴールドの情報。だいたい合っている主なログイン時間。行動、言動、キャラクターの容姿の写真。
――だが、そんなのはどうでもよかった。それよりももっと、遥かに強力に俺の目を惹く現状が描かれていたのだ。
そう、その情報の書かれたプリント用紙の下方に、目立つ赤色のペンで斜めに、もう用済みだとばかりに大きく雑な字でこう書かれていたのだ。
『回収済み』。




