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海の砂

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/02/06

 放課後の教室は、まだ少しだけ夏の匂いがした。


 冷房は切られているのに、窓際のカーテンだけがゆるく揺れていて、机の上には誰かが置き忘れたプリントが一枚、ぺらぺらと音を立てていた。黒板の端には、文化祭準備の予定表と、次の小テストの範囲。どちらも見たくなかった。


 私はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。


 グループトークには、さっきから短いメッセージばかりが並んでいる。


『ごめん、今日ムリになった! 家の用事!』

『私も塾入った、ほんとごめん!』

『お母さんに捕まった、また今度!』

『また絶対行こ!』


 絶対行こ、の「絶対」ほど信用できない言葉はない。


 今日、放課後に海へ行く約束をしていた。


 夏休み前から、ずっと言っていたのだ。期末が終わったら、電車で二駅先の海まで行こう。制服のままでもいいし、寄り道って感じでいいし、夕日だけ見て帰ってもいい。写真を撮って、アイスを食べて、海の家がまだ開いていたら焼きそばも食べよう。


 最初に言い出したのは、あいつだった。


 それなのに、あいつは昼休みに言った。


「え、今日だっけ?」


 信じられない。


 私は本気で、持っていた紙パックのいちご牛乳を握り潰しそうになった。


「今日だよ。みんなで海行くって言ったじゃん」


「あー……言った気がする」


「気がするじゃなくて、言った」


「悪い。今日、部活のミーティング入った」


「部活引退したじゃん」


「引退したから、後輩にありがたい話をしろって」


「ありがたくなさそう」


「俺もそう思う」


 そう言って、あいつは笑った。


 いつもそうだ。


 悪びれた顔をしているのに、どこか軽くて、怒る気力を削ってくる。


 こっちがどれだけ楽しみにしていたかなんて、たぶん全然わかっていない。


 そのくせ別れ際、あいつは私に向かって片手を上げて言った。


「じゃ、なんかおみやげ買ってきて。海の砂とかでいいから」


「海の砂?」


「ほら、ちっちゃい瓶に入ってるやつ」


「星の砂でしょ」


「それそれ」


 それそれ、じゃない。


 私はそのとき、「絶対買わない」と心に決めた。


 なのに。


 気づいたら、私は駅前のお土産屋さんで、星の砂の入った小瓶を手に持っていた。


 透明なガラスの中に、白っぽい小さな砂粒が詰まっている。星の形に見えるものもあれば、ただの欠片にしか見えないものもある。青い紐がついていて、スマホにつけるには少し子どもっぽい。でも、光に透かすときれいだった。


 何やってるんだろう、私。


 買わないって決めたのに。


 むかつくから買った。


 買って、渡して、「はい、海の砂」って言って笑ってやろうと思った。


 そう思ったはずなのに、レジでお金を払うとき、なんだか指先が熱くなった。


 お土産屋を出ると、ユーコから個別でメッセージが来ていた。


『がんばって!』


 それだけ。


 私は画面を見て、しばらく固まった。


 がんばって、って何を。


 もしかして、みんなわざと来なかった?


 私とあいつを二人きりにするために?


 いやいや、ない。


 だって、あいつは来ていない。


 私だけが海にいる。


 つまり、私は今、友達たちに置いていかれ、あいつには忘れられ、なぜかあいつへのお土産だけを買っている。


 最悪だ。


 最悪なのに、捨てられない。


 小瓶を制服のポケットに入れると、ガラスが太ももに当たって、ひやりとした。


 駅から海までは、歩いて十分くらいだった。


 海水浴場のほうには、まだ少し人がいた。部活帰りらしい高校生のグループ。犬を連れたおじさん。写真を撮っているカップル。浮き輪を持った小さな子どもが、砂浜を走って母親に怒られている。


 私はそこを避けて、少し外れた防波堤のほうへ歩いた。


 人が少ない場所まで来ると、急に波の音が大きくなった。


 太陽は、海の向こうへ沈みかけている。


 空の下のほうがオレンジ色で、その上が薄紫で、さらに上が夜になる前の青だった。波は夕日を細かく砕いて、金色の線みたいに光っていた。


 夏なのに、海風は少し冷たい。


 私は砂浜に腰を下ろした。


 ポケットから小瓶を取り出す。


 手のひらに乗せると、思ったより小さい。


 これを渡したら、あいつは何て言うだろう。


「ほんとに買ってきたのかよ」って笑うかもしれない。


「海の砂じゃん」ってまた間違えるかもしれない。


 そして私は、「星の砂だってば」と言う。


 それだけ。


 それだけのことなのに、なぜこんなに胸が苦しいんだろう。


 私は鞄からノートを取り出した。


 授業中に使っている、なんの変哲もない大学ノート。端のほうに、英単語の落書きと、ユーコが描いた変な猫がある。


 そのページを一枚、細く破った。


 ペンを持つ。


 何を書けばいいのか、わからなかった。


 好き。


 その二文字を書こうとして、手が止まる。


 重すぎる。


 今の私には、まだ無理だった。


 じゃあ、何なら書ける?


 私はしばらく考えて、小さく文字を書いた。


『ほんとは、一緒に来たかった』


 書いてから、顔が熱くなった。


 これでも十分すぎるほど重い。


 私は慌てて紙を丸めた。小瓶のコルクを抜き、星の砂の隙間へ、細く折った紙を差し込む。なかなか入らなくて、少し焦った。ようやく押し込んで、コルクを戻す。


 これで、ただのお土産ではなくなった。


 渡せない。


 絶対に渡せない。


 私は小瓶をぎゅっと握った。


 今なら、まだなかったことにできる。


 海に投げてしまえばいい。


 星の砂は海から来たのだから、海へ返すだけ。


 そう思ったら、少し楽になった。


 私は立ち上がった。


 波打ち際まで歩く。靴の底が、湿った砂に少し沈んだ。波が寄せてきて、つま先のすぐ手前で白く消える。


 小瓶を持った手を振り上げた。


 そのときだった。


「おい、なにやってんだよ?」


 心臓が、変な音を立てた。


「えっ!?」


 振り返った瞬間、指から小瓶がすべった。


 小さなガラス瓶は、夕日の光を拾いながら宙を飛び、ぽちゃん、と海に落ちた。


 あいつが立っていた。


 制服のシャツを少し着崩して、鞄を肩に引っかけて、息を切らしている。


 なんで。


 どうして。


 来ないって言ったじゃん。


「今、何投げた?」


 あいつが眉をひそめる。


 私は口を開けたまま、何も言えなかった。


「おい」


「……アンタのおみやげ」


「は?」


「だから、おみやげ」


「なんで海に投げんだよ!」


「別にいいでしょ!」


「よくないだろ。俺のだろ」


「アンタが忘れたくせに!」


「忘れてたけど、今来たじゃん」


「だから何!?」


「いや、だから……」


 あいつは頭をかいた。


 少し気まずそうに。


「ミーティング、早く終わったから」


「……それで?」


「来た」


「なんで」


「なんでって」


 あいつは困ったように笑った。


「おまえ、ひとりで行ったって聞いたから」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 やめてほしい。


 そういうことを、何でもない顔で言わないでほしい。


 私は目を逸らした。


「別に、ひとりでも平気だし」


「平気なやつは、おみやげ海に投げないだろ」


「うるさい」


「どこ落ちた?」


「いいってば」


「よくない。拾う」


「無理だよ!」


「まだ浅いだろ」


 あいつは本当に靴のまま海へ入ろうとした。


 私は慌てて腕を掴んだ。


「ちょっと、やめて!」


「離せよ」


「いいって言ってるでしょ!」


「俺のおみやげだって言ってんだろ!」


「だから、もういいの!」


「よくない!」


「よくないのはこっちだよ!」


 思ったより大きな声が出た。


 波の音に混じって、自分の声が少し震えていた。


 あいつが動きを止める。


 私は彼の腕を掴んだまま、うつむいた。


「今日、楽しみにしてたの」


「……うん」


「みんなで行くって言ってたけど、ほんとは、アンタが来るから楽しみにしてたの」


 言った。


 言ってしまった。


 海風が急に冷たくなる。


 あいつは何も言わない。


 私はさらに顔を上げられなくなった。


 もう最悪だ。


 小瓶は海に投げたのに、結局、もっと恥ずかしいことを自分で言っている。


「ごめん」


 あいつが言った。


 軽くない声だった。


「ほんと、ごめん。忘れてたのは、普通に俺が悪い」


「普通に悪いよ」


「うん」


「かなり悪い」


「うん」


「おみやげ命令したのも悪い」


「それも悪い」


「しかも海の砂って間違えた」


「それは別によくない?」


「よくない。星の砂」


 あいつは少し笑った。


 私も、つられて笑いそうになった。


 でも、まだ笑ってやらない。


 そう思っていたのに、あいつが真顔で言った。


「じゃあ、なおさら拾わないと」


「なんでそうなるの!」


「星の砂なんだろ。大事じゃん」


「だから、もういいってば!」


「中に何か入ってた?」


 私は固まった。


 あいつがこちらを見る。


「今、変な顔した」


「してない」


「した」


「してない」


「中に何入れた?」


「何も」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「じゃあ拾って確認する」


「だめ!」


 私はまた、あいつの腕を強く掴んだ。


 波が来た。


 二人の靴を、あっさり濡らしていった。


 冷たい海水が靴下まで染みて、私は小さく悲鳴を上げた。あいつも「うわ」と情けない声を出した。


 しばらく、二人で足元を見た。


 黒いローファーが、完全に濡れている。


 明日、どうしよう。


 あいつがぽつりと言った。


「おまえのせいだぞ」


「なんで私のせいなの」


「おまえが海の砂を海に投げるから」


 私は、今度こそ笑ってしまった。


 我慢できなかった。


 波打ち際で、靴も靴下もびしょびしょで、告白みたいなことを言ってしまって、もう全部めちゃくちゃなのに。


 あいつがまた「海の砂」なんて言うから。


 笑うしかなかった。


「なに笑ってんだよ」


「別に」


「絶対バカにしてるだろ」


「してない」


「してる顔だ」


「だって、また間違えてるし」


「え?」


「星の砂」


「あー、それ」


「それじゃない」


「星の砂」


 あいつは今度はちゃんと言った。


 私は少しだけ満足した。


 海の向こうで、太陽が沈みきろうとしている。


 小瓶はもう見えない。


 私の書いた紙も、星の砂の中で濡れてしまったかもしれない。もしかしたら、どこかへ流されて、誰にも読まれないまま沈んでいくのかもしれない。


 でも、それでよかった。


 たぶん、今はまだ。


 あいつが横から聞いてくる。


「で、なんで投げたんだよ」


「ひみつ」


「出た、ひみつ」


「ひみつはひみつ」


「中に何書いた?」


「何も書いてない」


「じゃあなんでそんな顔赤いんだよ」


「夕日のせい」


「便利だな、夕日」


「便利なの」


 私は濡れた靴のまま、砂浜を歩き出した。


 あいつも隣に並ぶ。


 少しだけ距離が近い。


 さっきまでより、ほんの少し。


「なあ」


「何」


「また来ようぜ」


 私はすぐには返事をしなかった。


 波の音を聞きながら、ゆっくり歩く。


「みんなで?」


 意地悪で聞いた。


 あいつは少し黙ってから、言った。


「二人でもいいけど」


 今度は、夕日のせいではごまかせないくらい、顔が熱くなった。


 私は前を向いたまま言う。


「考えとく」


「そこは、うんって言うとこじゃない?」


「忘れる人とは約束できません」


「忘れないって」


「ほんとに?」


「ほんと」


「じゃあ、次はアンタが星の砂買って」


「海の砂じゃなくて?」


「わざとでしょ」


「ちょっとだけ」


 私は呆れて、でも笑ってしまった。


 波がまた足元まで来る。


 濡れた靴は気持ち悪いし、帰ったら親に何か言われるかもしれないし、ユーコには全部見透かしたようなスタンプを送られる気がする。


 それでも、胸の奥は軽かった。


 小瓶に詰めた私の大きな想いは、海に沈んでしまった。


 だけど、全部なくなったわけじゃない。


 ほんの少しだけ、言葉になって外へ出た。


 ほんの少しだけ、あいつに届いた。


 今は、それでいい。


 私は砂浜を駆け出した。


「あ、おい、待てよ!」


 あいつの声が後ろから追いかけてくる。


 振り返ると、夕日の中で、あいつも笑っていた。


 私はその顔を見て、また走った。


 まだ言えない。


 まだ、ちゃんとは渡せない。


 でもいつか。


 星の砂を、海に投げずに渡せる日が来たら。


 そのときは、小瓶の中に紙なんか入れずに、ちゃんと自分の声で言おうと思う。

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