海の砂
放課後の教室は、まだ少しだけ夏の匂いがした。
冷房は切られているのに、窓際のカーテンだけがゆるく揺れていて、机の上には誰かが置き忘れたプリントが一枚、ぺらぺらと音を立てていた。黒板の端には、文化祭準備の予定表と、次の小テストの範囲。どちらも見たくなかった。
私はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
グループトークには、さっきから短いメッセージばかりが並んでいる。
『ごめん、今日ムリになった! 家の用事!』
『私も塾入った、ほんとごめん!』
『お母さんに捕まった、また今度!』
『また絶対行こ!』
絶対行こ、の「絶対」ほど信用できない言葉はない。
今日、放課後に海へ行く約束をしていた。
夏休み前から、ずっと言っていたのだ。期末が終わったら、電車で二駅先の海まで行こう。制服のままでもいいし、寄り道って感じでいいし、夕日だけ見て帰ってもいい。写真を撮って、アイスを食べて、海の家がまだ開いていたら焼きそばも食べよう。
最初に言い出したのは、あいつだった。
それなのに、あいつは昼休みに言った。
「え、今日だっけ?」
信じられない。
私は本気で、持っていた紙パックのいちご牛乳を握り潰しそうになった。
「今日だよ。みんなで海行くって言ったじゃん」
「あー……言った気がする」
「気がするじゃなくて、言った」
「悪い。今日、部活のミーティング入った」
「部活引退したじゃん」
「引退したから、後輩にありがたい話をしろって」
「ありがたくなさそう」
「俺もそう思う」
そう言って、あいつは笑った。
いつもそうだ。
悪びれた顔をしているのに、どこか軽くて、怒る気力を削ってくる。
こっちがどれだけ楽しみにしていたかなんて、たぶん全然わかっていない。
そのくせ別れ際、あいつは私に向かって片手を上げて言った。
「じゃ、なんかおみやげ買ってきて。海の砂とかでいいから」
「海の砂?」
「ほら、ちっちゃい瓶に入ってるやつ」
「星の砂でしょ」
「それそれ」
それそれ、じゃない。
私はそのとき、「絶対買わない」と心に決めた。
なのに。
気づいたら、私は駅前のお土産屋さんで、星の砂の入った小瓶を手に持っていた。
透明なガラスの中に、白っぽい小さな砂粒が詰まっている。星の形に見えるものもあれば、ただの欠片にしか見えないものもある。青い紐がついていて、スマホにつけるには少し子どもっぽい。でも、光に透かすときれいだった。
何やってるんだろう、私。
買わないって決めたのに。
むかつくから買った。
買って、渡して、「はい、海の砂」って言って笑ってやろうと思った。
そう思ったはずなのに、レジでお金を払うとき、なんだか指先が熱くなった。
お土産屋を出ると、ユーコから個別でメッセージが来ていた。
『がんばって!』
それだけ。
私は画面を見て、しばらく固まった。
がんばって、って何を。
もしかして、みんなわざと来なかった?
私とあいつを二人きりにするために?
いやいや、ない。
だって、あいつは来ていない。
私だけが海にいる。
つまり、私は今、友達たちに置いていかれ、あいつには忘れられ、なぜかあいつへのお土産だけを買っている。
最悪だ。
最悪なのに、捨てられない。
小瓶を制服のポケットに入れると、ガラスが太ももに当たって、ひやりとした。
駅から海までは、歩いて十分くらいだった。
海水浴場のほうには、まだ少し人がいた。部活帰りらしい高校生のグループ。犬を連れたおじさん。写真を撮っているカップル。浮き輪を持った小さな子どもが、砂浜を走って母親に怒られている。
私はそこを避けて、少し外れた防波堤のほうへ歩いた。
人が少ない場所まで来ると、急に波の音が大きくなった。
太陽は、海の向こうへ沈みかけている。
空の下のほうがオレンジ色で、その上が薄紫で、さらに上が夜になる前の青だった。波は夕日を細かく砕いて、金色の線みたいに光っていた。
夏なのに、海風は少し冷たい。
私は砂浜に腰を下ろした。
ポケットから小瓶を取り出す。
手のひらに乗せると、思ったより小さい。
これを渡したら、あいつは何て言うだろう。
「ほんとに買ってきたのかよ」って笑うかもしれない。
「海の砂じゃん」ってまた間違えるかもしれない。
そして私は、「星の砂だってば」と言う。
それだけ。
それだけのことなのに、なぜこんなに胸が苦しいんだろう。
私は鞄からノートを取り出した。
授業中に使っている、なんの変哲もない大学ノート。端のほうに、英単語の落書きと、ユーコが描いた変な猫がある。
そのページを一枚、細く破った。
ペンを持つ。
何を書けばいいのか、わからなかった。
好き。
その二文字を書こうとして、手が止まる。
重すぎる。
今の私には、まだ無理だった。
じゃあ、何なら書ける?
私はしばらく考えて、小さく文字を書いた。
『ほんとは、一緒に来たかった』
書いてから、顔が熱くなった。
これでも十分すぎるほど重い。
私は慌てて紙を丸めた。小瓶のコルクを抜き、星の砂の隙間へ、細く折った紙を差し込む。なかなか入らなくて、少し焦った。ようやく押し込んで、コルクを戻す。
これで、ただのお土産ではなくなった。
渡せない。
絶対に渡せない。
私は小瓶をぎゅっと握った。
今なら、まだなかったことにできる。
海に投げてしまえばいい。
星の砂は海から来たのだから、海へ返すだけ。
そう思ったら、少し楽になった。
私は立ち上がった。
波打ち際まで歩く。靴の底が、湿った砂に少し沈んだ。波が寄せてきて、つま先のすぐ手前で白く消える。
小瓶を持った手を振り上げた。
そのときだった。
「おい、なにやってんだよ?」
心臓が、変な音を立てた。
「えっ!?」
振り返った瞬間、指から小瓶がすべった。
小さなガラス瓶は、夕日の光を拾いながら宙を飛び、ぽちゃん、と海に落ちた。
あいつが立っていた。
制服のシャツを少し着崩して、鞄を肩に引っかけて、息を切らしている。
なんで。
どうして。
来ないって言ったじゃん。
「今、何投げた?」
あいつが眉をひそめる。
私は口を開けたまま、何も言えなかった。
「おい」
「……アンタのおみやげ」
「は?」
「だから、おみやげ」
「なんで海に投げんだよ!」
「別にいいでしょ!」
「よくないだろ。俺のだろ」
「アンタが忘れたくせに!」
「忘れてたけど、今来たじゃん」
「だから何!?」
「いや、だから……」
あいつは頭をかいた。
少し気まずそうに。
「ミーティング、早く終わったから」
「……それで?」
「来た」
「なんで」
「なんでって」
あいつは困ったように笑った。
「おまえ、ひとりで行ったって聞いたから」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
やめてほしい。
そういうことを、何でもない顔で言わないでほしい。
私は目を逸らした。
「別に、ひとりでも平気だし」
「平気なやつは、おみやげ海に投げないだろ」
「うるさい」
「どこ落ちた?」
「いいってば」
「よくない。拾う」
「無理だよ!」
「まだ浅いだろ」
あいつは本当に靴のまま海へ入ろうとした。
私は慌てて腕を掴んだ。
「ちょっと、やめて!」
「離せよ」
「いいって言ってるでしょ!」
「俺のおみやげだって言ってんだろ!」
「だから、もういいの!」
「よくない!」
「よくないのはこっちだよ!」
思ったより大きな声が出た。
波の音に混じって、自分の声が少し震えていた。
あいつが動きを止める。
私は彼の腕を掴んだまま、うつむいた。
「今日、楽しみにしてたの」
「……うん」
「みんなで行くって言ってたけど、ほんとは、アンタが来るから楽しみにしてたの」
言った。
言ってしまった。
海風が急に冷たくなる。
あいつは何も言わない。
私はさらに顔を上げられなくなった。
もう最悪だ。
小瓶は海に投げたのに、結局、もっと恥ずかしいことを自分で言っている。
「ごめん」
あいつが言った。
軽くない声だった。
「ほんと、ごめん。忘れてたのは、普通に俺が悪い」
「普通に悪いよ」
「うん」
「かなり悪い」
「うん」
「おみやげ命令したのも悪い」
「それも悪い」
「しかも海の砂って間違えた」
「それは別によくない?」
「よくない。星の砂」
あいつは少し笑った。
私も、つられて笑いそうになった。
でも、まだ笑ってやらない。
そう思っていたのに、あいつが真顔で言った。
「じゃあ、なおさら拾わないと」
「なんでそうなるの!」
「星の砂なんだろ。大事じゃん」
「だから、もういいってば!」
「中に何か入ってた?」
私は固まった。
あいつがこちらを見る。
「今、変な顔した」
「してない」
「した」
「してない」
「中に何入れた?」
「何も」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ拾って確認する」
「だめ!」
私はまた、あいつの腕を強く掴んだ。
波が来た。
二人の靴を、あっさり濡らしていった。
冷たい海水が靴下まで染みて、私は小さく悲鳴を上げた。あいつも「うわ」と情けない声を出した。
しばらく、二人で足元を見た。
黒いローファーが、完全に濡れている。
明日、どうしよう。
あいつがぽつりと言った。
「おまえのせいだぞ」
「なんで私のせいなの」
「おまえが海の砂を海に投げるから」
私は、今度こそ笑ってしまった。
我慢できなかった。
波打ち際で、靴も靴下もびしょびしょで、告白みたいなことを言ってしまって、もう全部めちゃくちゃなのに。
あいつがまた「海の砂」なんて言うから。
笑うしかなかった。
「なに笑ってんだよ」
「別に」
「絶対バカにしてるだろ」
「してない」
「してる顔だ」
「だって、また間違えてるし」
「え?」
「星の砂」
「あー、それ」
「それじゃない」
「星の砂」
あいつは今度はちゃんと言った。
私は少しだけ満足した。
海の向こうで、太陽が沈みきろうとしている。
小瓶はもう見えない。
私の書いた紙も、星の砂の中で濡れてしまったかもしれない。もしかしたら、どこかへ流されて、誰にも読まれないまま沈んでいくのかもしれない。
でも、それでよかった。
たぶん、今はまだ。
あいつが横から聞いてくる。
「で、なんで投げたんだよ」
「ひみつ」
「出た、ひみつ」
「ひみつはひみつ」
「中に何書いた?」
「何も書いてない」
「じゃあなんでそんな顔赤いんだよ」
「夕日のせい」
「便利だな、夕日」
「便利なの」
私は濡れた靴のまま、砂浜を歩き出した。
あいつも隣に並ぶ。
少しだけ距離が近い。
さっきまでより、ほんの少し。
「なあ」
「何」
「また来ようぜ」
私はすぐには返事をしなかった。
波の音を聞きながら、ゆっくり歩く。
「みんなで?」
意地悪で聞いた。
あいつは少し黙ってから、言った。
「二人でもいいけど」
今度は、夕日のせいではごまかせないくらい、顔が熱くなった。
私は前を向いたまま言う。
「考えとく」
「そこは、うんって言うとこじゃない?」
「忘れる人とは約束できません」
「忘れないって」
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ、次はアンタが星の砂買って」
「海の砂じゃなくて?」
「わざとでしょ」
「ちょっとだけ」
私は呆れて、でも笑ってしまった。
波がまた足元まで来る。
濡れた靴は気持ち悪いし、帰ったら親に何か言われるかもしれないし、ユーコには全部見透かしたようなスタンプを送られる気がする。
それでも、胸の奥は軽かった。
小瓶に詰めた私の大きな想いは、海に沈んでしまった。
だけど、全部なくなったわけじゃない。
ほんの少しだけ、言葉になって外へ出た。
ほんの少しだけ、あいつに届いた。
今は、それでいい。
私は砂浜を駆け出した。
「あ、おい、待てよ!」
あいつの声が後ろから追いかけてくる。
振り返ると、夕日の中で、あいつも笑っていた。
私はその顔を見て、また走った。
まだ言えない。
まだ、ちゃんとは渡せない。
でもいつか。
星の砂を、海に投げずに渡せる日が来たら。
そのときは、小瓶の中に紙なんか入れずに、ちゃんと自分の声で言おうと思う。




