96話 秀吉入京
第二次山崎の戦いで、安土方の軍勢を二度も撃退した羽柴秀吉軍は遂に京の都を奪還していた。
入洛した秀吉は、仙石秀久と黒田孝高に一軍を与え、逃げ去った安土方の残党を追撃させ、自身は朝廷の重鎮達への工作を進めた。
本格的に天下取りに野心を持ち始めた秀吉にとって、朝廷との関係を持つのは必須の事だ。
朝廷としても、織田信長・信忠親子よりも――利用しようという思惑があっての事であっても――友好的に接する秀吉の方が組しやすいと考えたのだろう、好意的な対応をした。
そこで、秀吉は安土方を賊軍とするように頼み込んだ。
が、これは断られた。
現状、京の都を奪還して9割方大坂方の優位となったとはいえ、まだ盟主の織田信孝は健在で隣国にいる。
逆襲に転じるような事もありえなくはないのだ。
そうなれば、安土方を賊軍とした朝廷にどのような報復をされるか分かったものではない。
だが、秀吉はそれを失望したりはしなかった。
とりあえず、今はこれでいい。
そう考え、混乱した京の整備や焼け落ちた家屋の修繕工事などを始めた。
自身は、伏見にある館に入った。
この館は、本能寺や妙覚寺といったこれまで宿場としていた寺が本能寺の変により焼失した後、信忠が京在留時の宿場として築いた館だった。
簡易な作りではあるが、堀や塀もしっかりとしており、暫くの居住地としては十分な場所だ。
その伏見館で秀吉は、各地からの報告を受け取っていた。
「そうか。安土方は瀬田の大橋を焼け落としたか……」
近江入りしていた、仙石秀久と黒田孝高からの報告である。
近江へと逃げ込んだ安土方は安土城へと続く、瀬田の大橋を落して大坂方の進軍速度を落とさせた。
現状、秀久と孝高は瀬田橋の修理を急がしていた。
「何、所詮は時間稼ぎ。大した問題ではない」
が、秀吉は余裕である。
ただの悪あがき。
遠くない未来に安土方は壊滅すると考えていたのだ。
だが、その余裕が吹き飛ぶ急報が飛び込んだ。
――徳川・大坂織田軍、安土織田軍を撃破。大垣城包囲。
――大垣城落城。佐和山城包囲。
――長浜城、柴田勝豊降伏。
――佐和山城陥落。安土城包囲される。
美濃で安土織田軍と対峙していた、徳川家康らの動きである。
……思ったよりも早い。
秀吉に、わずかではあるが苛立ちが混じる。
……くそっ。家康に先を越される。
……まずい、まずいぞこれは。
安土城攻めという、とどめの一撃まで家康に奪われるのはまずい。
今後、織田家を牛耳るには一番美味しい役割を家康に奪われるわけにはいかない。
もはや、秀吉にとっての敵は信孝などではなく家康になっていた。
だが、悪い事ばかりではない。
これまで勝家配下として大坂方と戦ってきた不破直光と徳永寿昌が、大坂方への降伏を申し入れてきたのだ。
秀吉は寛大に出迎え、旗下に加えたのである。
敵勢は減り、逆に味方は増えた。
「前田玄以を呼べ」
反撃への準備が整った事を確信した秀吉は、京都所司代の前田玄以を呼ぶように指示した。
ほどなくして、玄以が駆けつけてくる。
「どうかされましたか……?」
彼も、暇ではない。
京の都を奪還すると同時に、朝廷との折衝を任されていた。
その労働量は尋常ではないのだ。
にも関わらず、急な呼び出しを受けわずかではあるが不満そうな色がその瞳にはある。
「朝廷のお方はどうなっておる」
「は。これまで通りです」
「これまで通り、か」
ふん、と不快そうな顔を秀吉はする。
「つまり、安土方を朝敵にする気もなければ、儂らを官軍にする気もないという事か」
「……」
現状、朝廷の態度は慎重だった。
安土城に安土方を追いやったとはいえ、まだ大坂方の勝利が確定したわけではない。迂闊な行動で、足を引っ張られる羽目にならないように自重していたのだ。
「何とかならんのか」
「手を尽くしておりますが……」
玄以の歯切れは悪い。
「前田殿、貴殿の危機察知能力には目を見張るものがある」
唐突に秀吉が言った。
「はあ……」
「本能寺の変の際には、咄嗟の機転で秀信公を救出したし、此度の大乱でも安土方の来襲を前にただちに大坂城に退いてみせた」
「それが、何か」
「だが、のう。世の中はそれを良からぬ風に解釈する輩もおる」
「っ……」
秀吉の言わんとする事を薄々、察する。
「臆病風に吹かれて逃げただけなどと、言われもない中傷をする輩がおる事をご存じか?」
「……確かに、そう取られても仕方がない事かと。弁明は致しませぬ。失態は、働きで返すつもりです」
「そうですな。それでは、期待しておりますぞ」
凄みのある笑みを浮かべると、玄以を下がらせた。
「……脅しですか。人が悪いですな、殿は」
傍らで待機していた、浅野長政が言った。
「人聞きの悪い事を。儂はただ、事実を伝えたまでよ」
ふふ、と秀吉は小さく笑う。
「玄以にはもっと働いて貰う必要があるゆえな」
それよりも、と秀吉は話題を転じる。
「秀長達は今どうしておる?」
「大坂城にはまだ着いておりません。到着には今しばらく時間がかかるかと」
加藤清正や蜂須賀家政らを除く、弟の秀長が率いる大陸遠征軍の残り部隊は未だ大坂には辿り着いていないのだ。
「おそらく、あ奴らがいなくても大丈夫だとは思うが……」
「ところで、殿」
「? 何じゃ?」
「明や朝鮮に関してはどうなさるおつもりで……?」
「そうよな」
秀吉も、真剣そうなものへと表情を変える。
「対馬の宗殿に暫くは任せる。当面の間は停戦ができれば良い」
「宗殿ですか……」
「それに、行長も残っておるというではないか。問題はあるまい」
「確かに小西殿も。しかし……」
長政の顔に、かすかに不安そうな表情が滲み出る。
「どうした?」
「い、いえ。ですが……」
「不安があるなら言ってみろ」
「……それでは」
と長政が口を動かす。
「宗殿も、小西殿も以前に明や朝鮮との交渉で下手をうっております。任せても大丈夫なのでしょうか……?」
何度か、彼ら中心に明や朝鮮と停戦交渉を進めていた事がある。
が、その交渉には失敗し、停戦条約は破られた。その結果、平壌を失陥して戦線を南に下げる一因にもなった。
「他に任せられるものがいるのか?」
「……」
そう言われると、長政としても返す言葉がない。
朝鮮との間で、独自の交渉ルートを持つ宗氏の存在は貴重だ。
織田家が真っ二つに割れ、朝鮮との停戦が必須となった今では猶更の事だ。
「まあ、今は大陸の先の事よりも安土城に籠った信孝を討滅する事を考えるぞ。お主も出陣の準備をしておけ」
話はこれまで、と言わんばかりに秀吉は切り上げた。
かくして、安土城に向けて羽柴秀吉――名目上の総大将は織田信雄――率いる軍勢が京を発した。
これにより、この大乱も最終局面へと入ろうとしていた。




