95話 柴田勝家2
「滝川益重殿、討ち死に!」
「佐久間安政殿、討ち死に!」
柴田勝家の本陣。
これまで、勝家を支えた佐久間安武と滝川益重の討ち死にの報告が届く。
兵のみならず、将達の動揺も大きい。
既に、戦局は大坂方へと大きく傾いていた。
最後の戦いと考えて挑んだが、完全に凶と出た。
……負け戦じゃな、これは。
大坂方が、戦場を完全に支配している。
当初は、むしろ大坂方の悲鳴の方が多かったぐらいだが、今は安土方の兵の悲鳴の方が多い。
……かつてこの地で敗れた明智も、このような心境だったのかもしれんな。
勝家の本陣へと、敵が迫る。
……撤退、か。
ふっ、と勝家は失笑する。
一体どこへ、撤退するというのか。
既に、近江へと敵は乱入している。
もはや、逃げ場はない。
それこそ、噂を真実にでもして帝を連れ去りでもしてみるか?
……さすがに、そこまで汚名を被る気にはなれんな。
苦笑する。
もはや、進退窮まった。
かつて、勝家も一度死を決意した事は何度もある。
そのうちの一度は、まだ信長が尾張すら統一していなかった時期だ。
その時、信長の弟である信行を擁立して、謀反を起こした。
だが、結果は失敗。
信行は信長によって謀殺された。
敗者に着く事になってしまった勝家も、一度は死を覚悟した。
しかし、信長は勝家に死を与えなかった。
――これからは、信行ではなく儂に尽くせ。
それだけを言い、信長は勝家を再び臣下に加えた。
どのような思惑があったのか、本当に勝家を許したのか――最も、勝家同様にこの時背いた林秀貞を後年になって処断しているが――それは分からない。
すぐに、重臣の列に加われたわけではない。
桶狭間合戦や、美濃攻めにおいてもそこまで重要な役を任されていない。だが、それでも必死の思いで働いた。
命を賭け、戦い続けた。
信長の信頼を取り戻せたと確信できたのは――少なくとも勝家がそう思う事ができたのは――長光寺城の戦いである。
当時、信長は越前の朝倉攻めを企てたものの義弟・浅井長政の離反により失敗。
それに呼応するように、かつて南近江を治めていた六角家も勝家の守る長光寺城へと攻め寄せてきた。
その時、水の手を断たれて厳しい戦いを強いられた。
ここで勝家は、水がない事を味方に知らしめ、その上で戦って勝つ事しか他に道がない事を示すべく水の入れた瓶を割った。
「瓶割り柴田」の異名の原点である。
こうして信頼を勝ち取った勝家だが、以後も越前の一向一揆や、上杉軍との戦いの数々で何度も命賭けの戦いを強いられてきた。
そんな勝家だが、今回こそは死を逃れる事はできないと確信していた。
自分の人生が、走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
「柴田殿っ!」
そんな中、本陣に駆け込んできた者がいた。
佐久間盛政である。
額からは、血が流れておりそれはまだ真新しいし甲冑はあちこちが泥や血で汚れている。
「どうしたというのだ」
「どうした、ではありませぬっ。この戦はもはや負け戦でござるぞ」
「強気のお主から、そのような発言が出るとはの」
勝家が、かすかに苦笑する。
「笑っている場合ではありますまい、負け戦となれば総大将の柴田殿はいち早く逃れるべき。なのに、何を悠然と本陣で突っ立っておられるのかっ」
「……」
盛政は、勝家がこの戦場を墓場にしようとしている事に気づいたらしい。
……勘の良い男よ。
その予想は事実だ。
勝家に、この場所を死地に選ばせた理由は他にもある。
北庄城――陥落。
この報告が、勝家の元に届いたからだ。
さらには、お市の方や養子の柴田勝政の自害の報告もだ。
同じく養子である長浜城の柴田勝豊の、降伏もある意味勝家にとって衝撃を与えていた。
後妻であろうと、妻は妻。養子であろうと子は子だ。
のみならず、戦略上の重要拠点だった北庄城や長浜城の失陥は大きい。前田利家や金森長近の離反も痛い。
もはや、反撃は不可能だという諦めもあった。
利家と長近を恨む気はない。
……この状況では、利家も長近もいつまでも安土方に義理立てする気はなかろう。
ならば、この因縁の地で。
秀吉と、自身との差を決定的にしてしまったこの山崎の戦場で死にたいと考えていた。
ちなみに、北庄城の陥落や前田・金森らの離反に関しては一部の幹部にしか知らされていなかった。いつまでも隠し通せる事ではないが、せめてこの戦いの間だけでも隠しきらなければ、さらに離反者が出る事は必定なのだ。
「柴田殿っ」
盛政が叫ぶ。
「我らは、安土方の神輿として信孝様を担いだ! その信孝様はまだ戦っておられるっ。なのに、儂らだけ勝手に逃げ出すというのかっ」
「……む」
勝家が思わず黙り込む。
「そうか。まだ信孝様がいたな」
失念していた、と言わんばかりに苦笑する。
「分かった。その通りだ。最後の奉公の場は、どうやらここではないようだな」
「柴田殿、某ができる限り時間を稼ぐ。柴田殿は、一人でも多くの兵を安土城に」
「分かった」
勝家は頷き、わずかな護衛と共に本陣から撤退を始めた。
だが、逃亡劇は長く続かなかった。
やがて、勝家を護衛する兵は減り、逆に迫る敵勢が増えた。
討ち取られた者もいるが、勝家を見捨てて逃げ出す者も多かったのだ。
敵が、迫る。
味方が逃げる。
勝家も馬腹を蹴るが、もう限界だと言わんばかりに勝家の馬の速度は落ちていく。乗り換えようにもそんな余裕はない。
……ここまで、か。
勝家がそう思ったのとほぼ同時に一気に馬の動きが鈍った。
「勝家がそこにいるぞっ」
敵の足軽大将の歓喜するような声が聞こえる。
わあっ、と群がるように勝家の周りを取り囲む。
「殿を御守りしろっ」
「殿を討たせるなっ」
「くそっ、討たせるな、守れーっ!」
わずかに残った護衛が、声を張り上げるようにして怒鳴るが手柄首を求める敵の歓声にも近い声によって打ち消された。
「やれ、やれーっ!」
「勝家の首を取るぞ!」
「馬鹿者がっ、お前如きの端武者に討たせるかっ」
凄まじい声と共に、槍や刀が交わされる音が聞こえてくる。
勝家自身も槍を振るって戦った。
既に老人の領域とはいえ、かつて戦場を駆けた武者に恥じない見事な戦いぶりだった。
「たわけっ、今時の若い者はその程度かっ」
3人目になる相手が倒れた事を確認し、素早く槍を戻す。
いつ襲われてもいいように辺りを警戒する。既に、視界に入る護衛の数は両手で数えれるほどにまで減ってしまった。
敵勢に完全に囲まれている。
だが、勝家の凄まじい気迫を見た為か、なかなか仕掛けてこない。
「ふん、臆病者共が」
はっ、と吐き捨てるように勝家は言った。
その挑発に乗ったのか、羽柴勢が再び勝家へと迫る。
「そうこなくてはなっ」
勝家は、突撃を駆けてくる兵士達に応戦する。
そんな中、一際見事な甲冑を纏った武将が現れた。
「少しはましなものが来たようじゃの。名を何という」
「某は糟屋武則だ」
糟屋武則は、秀吉が中国方面軍の総司令に任された時の配下。
一時、播磨一円の武将が秀吉、そして背後に控える信長に反旗を翻した際に一早く秀吉に味方して秀吉の信頼を得た。
三木城の戦いを始めとする、播磨の再平定戦に従軍して武功をあげた。
第一次――この戦いと区分する為に以後はこう呼ばれる――山崎の合戦や、朝鮮での戦いでも武功を重ねた。
「柴田勝家殿とお見受けする」
「いかにも」
今更、隠す気はない。
勝家は正直に告げる。
最も、相手もそれは分かっているだろう。これはただの確認だ。
「それなりに名のある武将らしい。端武者如きにくれるより、貴殿のような武士ならば儂の首を取るに相応しかろう」
だが、と勝家は続ける。
「老いたといえども、この鬼柴田。ただでくれてやるわけにもいかんの」
「無論。抵抗する気のない老将の首など、某もいりませぬ」
「言いおるわ」
勝家も、槍を構える。
「覚悟っ」
二人の槍が交差する。
「はあっ!」
掛け声と共に、武則の槍が勝家に迫る。
「ふんっ」
既に、勝家は60を超える。
人生50年と言われ、平均寿命の短いこの時代では既に老人だ。
それでも、老人とは思えないほどの力で勝家は槍を振るった。
「やりますなっ」
武則も、それに返す。
「貴殿もなっ」
勝家もそう返すと、槍を返す。
激しい応酬が続く。
「はああぁっ!」
「せいっ!」
だが、それは長く続かなかった。
さすがに年齢の為か、しばらく経つと勝家の動きが鈍ってきた。それに対し、武則はまだ30にすら達しておらず、若かった。
その武則の槍が、勝家の首元へと突き刺さった。
「がっ……」
勝家の首元から、大量の血がほとばしる。
「ぐ……」
それでも、最後の力を振り絞るかのように、槍を握る手を動かそうとする。
だが、武則にとどめをさされる方が先だった。
「……っ」
もはや、何かを言い残す気力もないらしかった。
だが、それでも目はカッと見開かれ、目の前の武則を見据えている。
どさり、とそのまま勝家の身体は倒れた。
「柴田勝家、討ち取ったりっ!」
武則の、宣言するかのような声が戦場に響いた。
その後、盛政が決死の奮戦を見せ、大坂方の猛攻を凌いだ。
しかし、その盛政は討ち死に。
この戦い、安土方の死者は3000を超えた。
だが、大坂方もその半数以上である2000近くが討ち取られた。
その中には、神子田正治、尾藤知宣などといった古参の将も含まれていた。
犠牲は決して小さくなかったのである。
が、逃亡兵の数は比べ物にならない。
完全に安土方に勝機なしと考えた安土織田軍の雑兵たちは、相次いで逃げ出した。中には、大坂方に下る者も出た。
残された武将達の大将格である滝川一益も、必死に軍勢をまとめるが近江の地まで撤退した時に残された兵はわずか1万5000ほどに過ぎなかったのである。
その勢いのまま、大坂織田軍は京へと攻め入った。
もはや、京を守護する余力はない。
安土方は、京の都も放棄する羽目に陥った。
そして、いよいよこの大乱の最終決戦の舞台――近江安土城へと秀吉も移る事になる。




