85話 信孝敗走
大垣城の一室。
上座で、信孝が不機嫌そうに唸っている。
岡本良勝、中川清秀、斎藤利堯らが悲痛な表情で上座の信孝を見ている。
当然の事ながら寝返った美濃衆らや、既に討ち死にした筒井順慶や河尻秀長の姿はない。
高山重友の姿もない。彼は、小牧での戦いの後、行方不明となっていた。
「……それで」
今現在、生存の確認できる有力武将達の全員が揃ってからも、しばらく唸り続けていたが、ようやく信孝が言葉を発した。
「我が軍の犠牲者はどれほどなどだ」
「離反した美濃衆、討死したもの、戦闘不能なほどの重傷を負ったものらを除くと……」
良勝や言いよどんだ。
「2万弱になるかと……」
「となると、戦闘可能な兵は3万を割るな」
信孝の顔がさらに苦々しいものへと変わる。
「敵勢は、美濃衆らも加わっているのでおよそ4万。それも勝勢に乗じているでしょうし……」
「このまま戦っても、勝ち目はないと申すか」
「そのような事は。しかし、相当に厳しい戦いになるのは必定かと」
「……」
信孝が思わず黙り込む。
「では、いっその事籠城策はどうでしょうか」
誰かが提案した。
しかし、美濃の出身であり、美濃の城に詳しい斎藤利堯がその意見に反論する。
「この大垣城は、大軍の籠城が可能な城ではありません。それに、あくまで緊急措置としてこの城に入っただけですので2万を超える兵が長い間籠る事は不可能です」
すると、他の武将達も次々と意見を出し始める。
「やはり、迎撃するべきでは?」
「人数で勝っていた小牧の戦いでも、敗れたのにか?」
「勝負は時の運でござる。信長公とて、浅井や本願寺に何度も煮え湯を飲ませられながらも最終的には勝利をつかんではありませぬか」
「いや、だが勢いは完全に敵勢にある。それに、精強な三河武士が相手だ」
「やはり、籠城策をとるべきだ。時間をかければ、事態は好転するやもしれん」
「なんだそれは。そんな希望的観測に命運をかけるというのか」
「しかし、下手に時間を浪費すれば信濃に出っ張っている秀康の別働隊が戻ってくるかもしれないではないですか」
様々な意見が飛び交うが、有力そうな意見はない。
「……北陸勢を呼び戻すほかあるまい」
そんな中、ぽつりと信孝が言った。
「前田殿や、金森殿を、ですか?」
上杉景勝と対峙している前田利家や、金森長近、それに越中に残った柴田勢が2万5000。それに北庄城にいる柴田勝政も2000ほどの兵を動かせる。若狭の丹羽長重は大坂方であるゆえに、その警戒の為に勝政は北庄城に残すとしても、2万5000ほどの兵がいる。
今の信孝に取って、喉から手が出るほど欲しい数字だ。
この軍勢があれば、信孝軍団はおよそ5万以上に増幅する。
そうなれば、反撃も十分に可能なのである。
「ですが、上杉と対峙しているはずですが……」
「和議を結ばせる」
信孝は言った。
「越中一国を上杉にはくれてやる。いや、場合によっては能登と加賀をくれてやってもいい。これだけの条件であれば、上杉も頷くであろう」
「……」
一同は黙り込む。
確かに、好条件だ。
ただし、安土方と大坂方の情勢が拮抗している状態であれば、の話だ。
今、情勢は完全に大坂方に傾いている。
現状で、大坂方から安土方へと鞍替えするのはあまりにも危険が大きすぎる。上杉がここでそのような賭けに乗るとは到底思えない。
「何だ、お前達。その顔は」
信孝も、一同の視線を察したらしい。
不快そうな顔を浮かべる。
「この条件で上杉は頷かんというのかっ!」
「…………」
一同の回答はない。
そして、それが回答だった。
「もし、上杉が頷かんというのであれば最低限の留守兵のみを残して撤退させれば良い。今は緊急事態なのだぞっ!」
信孝が怒鳴り散らした。
しばらくは、はあはあと息を荒くしていたが、やがて怒鳴りつかれたのかどっかりと腰を下ろした。
「もうよい。儂の策でいくぞ。よいな」
一同も、頷くほかない。
他に有力な手がないのも事実なのだ。
「儂自らは、安土城に入る。安土城で籠城し、北陸勢の後詰を待つ」
「しかし、敵勢とてすぐにでも近江に攻め入りましょう」
清秀の言葉だ。
「うむ。間違いあるまい」
「敵勢の総勢は4万以上なのだ。安土城は、今は亡き上様が心血を注いで築いたと巨城とはいえ、はたして守り切れるのか?」
「……」
否定的な意見が飛び交う。
そして、再び暗鬱な沈黙が場を支配する。
「であれば、ある程度時間を稼ぐ必要がございましょう」
利堯がず、と前に出た。
「某が、この大垣城に籠りできる限り敵を食い止めましょう」
「お主が、か」
信孝がかすかに驚く。
「はい」
「十中八九、いやまず間違いなく死ぬ事になるぞ」
「構いませぬ」
利堯の瞳には、強い決意の色がある。
彼は、本能寺の変の際に中立を宣言しながらも岐阜城を乗っ取っていた。
明智光秀が山崎で敗れた後に城を明け渡しはしたが、その行動に光秀との関与を疑われ続けていた。
だが、それを不問にして信孝は利堯を重宝した。
彼は、かつての美濃国主である道三の子であり、義龍の弟でもある。その彼を用いるのは美濃を統治する事になった都合上、何かと優位に働くという思惑もあったのだが、それでも利堯にとっては重恩に違いなかった。
「与えられる軍勢は少ないぞ。1000から2000といったところだ」
「それだけいれば十分です」
こうなってしまっては、利堯の思いを尊重するほかない。
信孝は黙って頷いた。
他の武将も、悲痛な表情を浮かべる。
「では、某も斎藤殿に倣って佐和山城に入る事にして、最後の奉公をするとしますかな」
今度は、岡本良勝が言った。
彼は、幼少期は信孝に仕え続けてきた老臣だ。
信孝の出生の地も彼の屋敷でもあった。
まさに、股肱の臣といってもいい。
「お主もか……」
驚いたかのように、信孝は口を開ける。
「しかし、お主は……」
「近江への入り口である、佐和山の地を守るのは並のものでは務まりませぬ。どうぞ、某に」
「……」
信孝が答えるのにしばし時間があった。
「お主に与える事にできる兵も少ないぞ」
「構いませぬ。一刻でも長く、大坂方から時間を稼いでみせます」
「……うむ」
一瞬だけ躊躇するような情を浮かべるが、信孝は頷いた。
これで、基本的な方針は決まり軍議は閉められた。
2000弱の軍勢が、大垣・佐和山両城に籠り、信孝本隊は安土城に籠る事になる。
翌日、2万をわずかに上回る軍勢が安土城へと向かい、利堯と良勝とはそれを見送った。




