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乖離戦国伝  作者: 藍上男
第3部 天下の分裂
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84話 濃尾戦線5

 徳川家康と織田信包率いる徳川・大坂織田軍対織田信孝率いる安土織田軍の戦いが始まり、およそ一刻半。

 戦いは、まだ続いていた。


「……」


 本陣にて、家康は悠然と腕を組んで床几に腰を下ろしていた。

 瞑想するように、目は閉ざされている。


 戦場の空気など聞こえないと言わんばかりに静かなままだ。

 そんな中。



「――正純」


 家康が短く言った。


「あ奴らとの話はついておるのだな」


「は」


 正純が頷く。


「美濃衆の多くが、この戦いの推移次第で御屋形様にお力添えをする手筈になっております」


「この戦いの推移次第、か」


 家康は短く言う。


 濃尾戦線が硬直状態に陥ってから、家康もただ小牧山城で何もする事なく安穏と過ごしていたわけではない。

 凄まじい数の書状を、信孝に組する美濃衆に送り付けていたのだ。


 彼らもの中には、なし崩しに安土方に組み込まれたものも多数おり、信孝の命令に従う事を嫌がる者も多数いた。

 そんな彼らに家康は調略を仕掛けていたのだ。


 その中には、かつての美濃三人衆の一人、稲葉一鉄こと稲葉良通。同じく美濃三人衆の一人、氏家卜全こと氏家直元の子である氏家行広。織田信長の姪を母とする苗木城城主の、遠山友政などといった大物も含まれていた。


「あ奴らが信孝を見限れば、戦局は一気に傾く」


「ですが、未だに迷っている様子です」


「信孝への義理立てというわけではあるまい」


「はい。問題は、信孝がこのまま美濃を維持する器量があるか否か、です」


「ないと分かれば、儂らに着くか」


 戦場を家康は眺める。

 ここからでも、名乗りを上げる声や罵り合う声、激しくぶつかり合う音。

 そういった戦場の音が聞こえてくる。


「なら、すぐに答えは出そうだの」


 家康は短く言った。






 合戦は、完全に織田・徳川連合軍優位に進んでいる。

 信孝とて、長年戦場に身を置いた男だ。当然のことながらそれは分かる。


 だが、これは天下をかけた戦い。

 そう簡単には引くわけにはいかない、という思いがある。


 ……くそっ! ここで敗れてたまるか。天下を取るのはこのわしだ!


 そう思いつつも、戦況はさらに安土織田軍不利に進む。

 さらに、安土織田軍に悲報がとびこんだ。


「河尻秀長殿、討ち死に!」


「何じゃと!?」


 その報告に、思わず信孝は聞き返した。

 だが、さらに報告が飛び込んでくる。


「中川清秀殿の部隊が壊滅しました!」


「竹中重門殿の部隊もです!」


 相次ぐ悲報だ。


「殿……」


 傍にいた岡本良勝が遠慮がちに声をかける。


「……なんじゃ?」


「ここは引くべきでは」


「……」


 良勝に言われるまでもなく、信孝は頭の中で撤退すべきだと考えていた。

 だが、信孝はこの戦いに勝てば天下人になれるという強い思いで挑んでいた。それだけに、なかなか撤退を決断できない。

 わずかでも勝てる可能性がある以上、この場に留まりたいという思いがあった。


 本陣に集まる家臣達も、なかなか口を開けない。

 沈黙が続く。


「殿っ!」


 そんな重苦しい空気の中、本陣に高山重友が駆け込んできた。


「重友か、何事じゃ」


「何事も何もないでしょうっ! この状況が読めないというのですか!」


 信孝に詰め寄るように、言う。

 緊急時である為か、彼もまた焦っているようだ。

 だが、信孝もそれを咎めようとはしなかった。


「……儂の負けだというのか」


「言うまでもありますまいっ!」


 重友が怒鳴りつけるような口調で言う。

 彼の言葉に遠慮はなかった。それほどの、非常時だと彼らも分かっているのだ。


「後一歩で、儂の天下がこの掌におさまろうとしておるのだぞ? にもかかわらず儂に引けと?」


「ここで負けては、元も子もなくなります」


「まだ負けだと決まったわけではない」


「いえ、この流れは完全に負け戦です。信孝様も、それは分かっているのではありませんか?」


「……」


 重友に言われるまでもなく、信孝も分かっていた。

 この戦いは負けだ。


「その通りです。殿」


 岡本良勝も傍らから、言った。


「亡き上様が、なぜ天下に手をかけられるまでいったか殿ならばよく御存じのはず。それは、上様が不敗の名将だったからではない。他の追随を許さぬほどの逃げ上手だったからです」


 金ヶ崎の撤退戦や、幾度にも渡った伊勢攻めに代表されるように故・織田信長の負け戦は意外と多い。


「……むむ」


 何か反論しようとして、それを言いよどむ信孝にさらに良勝は怒鳴りつける。


「ここで御討ち死にする気ですか! ここは一時の屈辱に耐え、再挙を図るべきでありましょう!」


「……そうかも、しれんな」


 ここでやっと信孝は観念したように項垂れた。


「分かった。この戦は儂の負けだ。撤退する。むろん、被害は最小限に抑えてじゃ」


「なら、某が殿をつとめます。殿は岐阜城にお戻りください」


「何?」


 重友の言葉に、かすかに信孝の眉が驚きによってはねる。

 一瞬でその言葉の意味を悟ったのだ。


「お主……」


 死ぬ気か、という言葉を信孝は口に出さずに飲み込んだ。

 殿は、敵の追撃を集中的に受ける極めて危険な役割であり討ち死にする可能性が高いのだ。


「某のことなら気にされるな」


「むぅ……」


 信孝も黙り込む。

 重友が冗談なのではなく、本気で言っている事を悟ったらしい。


「だが、預けてやれる兵は少ないぞ」


「承知しております」


「う、うむ……」


 信孝はなおも決断しかねている様子だ。


「ならば、某も高山殿を支援しますかな」


 声をあげたのは、可児吉長だ。

 後世、可児才蔵の名で知られる人物であり、この時点では信孝に仕えていた。


「お主もか……」


「おお、貴殿が加わってくれるのならば心強い」


 重友も朗らかに笑った。


「それに、某もそうやすやすと討たれはしません。生きて岐阜に帰る可能性を捨てたわけでもありませんぞ」


 そう言って吉長は笑う。


「もしかしたら、某が家康か信包の首を持って岐阜に凱旋する事になるかもしれませんぞ」


「……分かった」


 ようやく信孝も決断した。


「撤退するぞ」


 これにより、安土織田軍が撤退をはじめていくことになる。




 安土織田軍が合戦上から立ち去っていく。

 だが、戦略的な撤退ではない。ただの敗走だ。


 まとまっていくことはできない。

 陣形は大きく乱れている。武器を投げ捨てて逃げ出す者すらいる。


「信孝の首をとれ!」


 大坂織田軍の侍大将の声が戦場に響く。

 大坂織田軍の兵士達が、手柄を求めて撤退する信孝の元へと殺到していく。

 何せ、信孝の首を取れば出世は思いのままという思いがある。


 だが、それに立ちふさがるように筒井順慶隊が立ちふさがった。

 彼らもまた、戦場に踏みとどまっていたのだ。


「貴様らごとき下郎に殿の首をやれるかっ!」


 たちまち、大坂織田軍の将兵が殺到した。

 安土織田軍の大半は撤退を始めており、筒井順慶を守る兵はおよそ数百ほどに過ぎない。それを包み込むように大坂織田軍の大軍が押し寄せる。


「敵は小勢じゃっ。恐れるな!」


 大坂織田軍の武将達は叱咤するが、順慶の部隊はとにかく粘り強い。

 しかも、死を覚悟しており抵抗もまた凄まじかった。


 一方の大坂織田軍は、ほぼ勝ち戦が決まったこの戦い。できる限り犠牲を少なくしたいという思いがある。


 そんな思いの差から、数倍の織田軍が羽柴軍を飲み込むのに時間がしばしかかる事になった。


 だが、それでも多勢に無勢。

 順慶の部隊は数を減らていった。


 一人、また一人と羽柴勢の数が減っていく。

 逆に、徳川勢は筒井勢を包み込むように囲んでおり、もはや脱出は不可能といってよかった。


 ……ここまでか。


 気が付けば、順慶の周りから見知った顔が周りから見えなくなっていた。

 順慶も、これまでの戦闘で全身に手傷を負っている。

 だが、それを気にする余裕はなかった。


 大坂織田軍の兵が、こちらに近づいてくる。むろん、順慶にとどめをさすためだ。


 ……なかなか楽しい、人生だった。


 次の瞬間、織田兵の槍が順慶を貫いた。

 大和で、松永久秀と交戦を続け、織田軍団の一員としても、各地の戦場で戦い続けた筒井順慶がここで命を散らしたのだ。




 筒井順慶隊を壊滅させ、順慶を討ち取った大坂織田軍の兵はさらに勢いによせ、撤退を始める信孝本隊へと迫った。

 だが、そこで高山重友率いる殿の部隊が決死の粘りを見せた。


 可児吉長も奮戦した。

 吉長は個人としての武勇に優れても、指揮能力がさして高い武将ではない。

 しかし、その吉長に感染したかのように殿軍の兵達は勇んで戦った。


 結果として、追撃した大坂織田軍に大きな犠牲を与えて信孝の追跡を遅らせる事に成功したのである。

 なお、重友は討ち取られたという報告こそなかったものの信孝の所に戻る事もなかった。

 生死不明となり、行方不明となったのである。

 ちなみに、可児吉長はその武勇を惜しんだ本多忠勝によって生け捕られていた。




 一方、戦場を離れた信孝はというと、そのまま岐阜城に帰れたかというとそうはならなかったのだ。


 馬上の信孝は無言だ。

 内心では、凄まじい屈辱感と敗北感によって支配されている。


 ……完全に負け戦じゃ。


 周りを走る、信孝の馬廻り衆も無言だ。

 暗鬱な空気のまま、信孝一行は岐阜城へと向かっていく。


 今のところ、追撃する徳川軍や大坂織田軍の姿はない。

 だが、とてもそれを喜べるような空気ではない。


 ……これから、どうするべきなのか。


 とりあえずは、岐阜城に籠城するべきか。

 岐阜城は、堅城だ。いかに徳川軍であってもそう簡単には落ちない。

 だが、その先はどうする?


 展望はまるで開けないのだ。


「……」


「……」


「……」


 信孝の馬廻衆も無言だ。

 下手の事を言って主の怒りを買うのを恐れているのだ。


 そんな時である。


「大変だっ! 岐阜城が、岐阜城が……」


 先頭を走っていた、足軽の一人が声をあげる。


「岐阜城から火の手があがっておるぞっ」


 その言葉に、安土織田軍の足軽達がざわめく。


「なんじゃと!?」


「本当じゃ! 岐阜城が燃えておるっ」


「ま、まさか。大坂方に乗っ取られたのか?」


 驚愕や恐怖といった感情が、安土織田軍の足軽達の心を支配する。

 たちまちのうちに、恐慌状態に陥った。


「落ち着けっ。落ち着けーっ!」


 安土織田軍の侍大将が、必死に混乱をおさめようとするが収容がつかない。まさに、安土織田軍の兵士達は混乱していた。


 家康からの誘いに対して、返事を先延ばしにした美濃衆だが、この敗戦を見て完全に信孝を見限ったのだ。

 そして、今、美濃衆らは城内の安土方の将達を討ち取り、岐阜城をのっとったのだ。


「なんということじゃ……」


 信孝の頭が蒼白になる。

 だが、このままではまずいと即座に思い直す。


「岐阜城は無理じゃ! 大垣城だ。大垣城まで下がるぞっ!」


 大垣城まで下がれば、美濃の大半を失うことになる。

 だが、それでも構わなかった。


(近江との国境に近い大垣城ならば近江や北陸からの連携もたやすい)


 もはや、美濃を失ってでもこの崩れた戦線を立て直す事に専念する気でいた。


 そのような思いから大垣城までの撤退を決断したのだ。

 だが、あまりに急な事態であり指揮系統も混乱していた。


「大垣城だっ! 大垣城に逃げろ!」


「何を言う、岐阜城だ。岐阜城に決まっておろうがっ!」


「既に信孝様は討ち取られたぞ! いち早く降伏するしかない!」


 岐阜城陥落を知らないもの、すでに知っているもの、さらには安土織田軍や徳川軍の流言、といったものが入り混じり混乱状態に陥っている。

 正確な情報を把握していたものは、ほとんどいない。


 信孝自身、直属の馬廻衆と共に命がけの撤退戦を続けている最中なのだ。

 とても全軍をまとめている余裕などない。


 ようやくの思いで信孝が長良川を超えた頃には、既に多大な犠牲が出ていた。


 走る。

 走る。

 走る。


 脱落者が出ても、気にせずにただひたすらに大垣城を目指した。

 たまに辺りを見渡すと、護衛する馬廻衆の数が減っている。


 討ち取られたのか、それとも信孝を見限って逃げ出したのか。

 わからない。


 いずれにせよ、信孝の周りを走る馬廻衆の数は大きく減じている。

 隊列も無茶苦茶だ。

 だが、決死の思いで走り続けた。


 とにかく、大垣城への撤退。

 全てはそこからだ。


「揖斐川だ! 揖斐川が見えたぞ!」


 馬廻衆の誰かが叫んだ。


「おお、ようやくか」


 信孝の顔にも歓喜の色が浮かぶ。


 揖斐川を超えると大垣城はすぐそこなのだ。

 信孝や馬廻衆はようやく安堵する。


 多くの犠牲者を出したものの、やっと安全地帯にたどり着いたのだ。

 ほどなくして大垣城に入城した。


 だが、この時点で既に安土織田軍は大きく数を減らしていた。

 数千の戦死者に加え、重傷者はその数倍。

 さらに、逃亡兵や連合軍に投降する者も相次いだ。この中には、離反した美濃衆らも含まれている。

 結果として、安土織田軍は出陣当初の半数ほどに過ぎない2万数千にまで減じたのである。

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