83話 濃尾戦線4
「こちらから仕掛けるっ」
何度目か分からない、岐阜城での軍議の席で織田信孝は叫んだ。
「殿……あ、いえ、しかしっ」
この日、苛立ちの頂点に達したらしくいきり立つ信孝に、高山重友らは慌てた。
「それは無謀ではないかと……」
「何を言っておる! もはや、時間の猶予はないのだぞ!」
「ですが、それは何度も議論されたように危険かと……」
筒井順慶が反論するように言った。
だが、信孝はもはや聞く耳を持たないようだ。
「三河の中入り策が失敗して以降、ろくな戦果を出せておれん。お前達は分かっておるのかっ。時は我らの敵ぞ!」
「それは……」
「いつ朝鮮にいる軍勢が、大坂城を後詰してもおかしくないのだぞっ」
実際のところ、この予想は的中していた。
ちょうど、これとほぼ同時期に名護屋城は陥落。
大陸遠征軍を迎え入れる事ができる状態となっていたのである。
もしかしたら、本能的な第六感ともいうべきものが信孝に働いたのかもしれない。
「ですが……」
重友が懐疑的な言葉を口にする。
「成功する見込みはあるのですか? 濃尾で最初に対峙した時の軍議では、人数で勝っても堅い防衛線を張っている徳川軍に勝利するのは難しいとの結論だったではありませんか」
「しかも、我らの軍勢は以前よりも減じておるのですぞ」
順慶も付け加える。
三河中入り、伊勢攻めの失敗により、この時点の信孝の軍勢は4万数千にまで減じていた。
しかも、三河中入り失敗により池田恒興は討ち死にした。
それ以降、積極的な策を出す者はいなくなっていたのだ。
「黙れ!」
が、それらの者達を信孝は一括した。
「どいつもこいつも、臆病風に吹かれたか!」
肘掛を蹴り飛ばし、怒りを露わにする。
「時間は我らの敵なのだぞ! これ以上、時間を稼がれて窮地に陥るのは儂らだ!」
「しかし……」
それでも何かを言おうとする家臣達を怒鳴りつけた。
「反論は許さん! ここで、家康と決着をつける。それに従えんというものはその首を叩き切るっ!」
こうして、安土織田軍は攻勢に出る事にしたのである。
――織田信孝勢、動く。
その急報を、伊賀者は即座に掴んだ。
伊賀者からの報告を受けた家康は即座に、幹部武将達に招集をかけた。
たちまち、小牧山城に近隣の城や砦に入っていた徳川・大坂織田軍の幹部武将が集まってくる。
「信孝が動いた」
この短い一言で、軍議は始まった。
軽く、場がざわめく。
「ほぼ全軍を動かし、岐阜城を発した」
家康の言葉に、最初に反応したのは本多忠勝だった。
「となれば、いよいよですか」
「うむ。先に動いたとあれば、我らの方が優位じゃ」
「腕がなるわい」
「この一戦で、決着をつけてやろうぞ」
忠勝をはじめ、井伊直政、酒井家次、奥平信昌や菅沼定盈といった徳川軍の名将・猛将達が口々に言う。
「信包殿、織田家の軍勢の方はどうなっていますかな?」
「いつでも、出撃できる体勢になっております」
「さすがですな」
そう言って、家康は朗らかに笑った。
信包や織田家の幹部武将達の顔には、徳川軍の幹部武将達ほどの余裕の色はない。不安の色が浮かんでいるようだった。
「しかし、大丈夫なのですかな。敵勢は我らよりも多い」
「何、心配はいりませんぞ」
家康は、そんな彼らを安心させるように言った。
「敵は、我らと直接戦っては不利だと考え、岐阜城や犬山城に閉じこもっておりました。今回の出撃など、追い詰められてのやぶれかぶれでござるよ」
「それはそうかもしれませんが……」
信包の顔には、まだ不安の色がある。
「人数では敵勢の方が……」
「信包殿、人数では戦は決まりませぬ。桶狭間合戦の折には、人数で勝る今川の大軍を見事に撃破したではありませぬか」
「……」
「それに、三河での戦いでも人数の勝る安土方の軍勢を撃破し、池田恒興を討ち取っているのでござるぞ」
「それは、そうですが……」
信包の顔の不安の色は、わずかではあるが薄くなっている。
「さ、何も心配はいりません。信包殿も安心してくだされ」
こうして、軍議は締めくくられた。
幹部武将達は即座に配置につき、戦が始まろうとしている。
安土織田の大軍が、岐阜城を出立する。
犬山城の軍勢も、いつでも出撃できる態勢のようだ。
それらの光景を、家康は小牧山城で見ていた。
「御屋形様」
傍らの正純が話しかける。
「うむ。敵も来たようだの」
家康の視界にも、信孝の軍勢が入った。
「よし……」
家康は、強く決意するようにぱん、と両の手を叩いた。
「この戦いは、大きな意味を持つ。一挙に信孝の首を取るつもりで戦え!」
家康の強い言葉に、徳川・大坂織田軍も動きだしたのである。
安土織田軍が、木曽川を渡り始める。
それと同時に、安土織田軍が尾張北部に築いた塁や砦へと徳川・大坂織田軍は攻撃を仕掛け始める。
「いけ、いけーっ!」
徳川軍の侍武将の声が戦場に轟く。
その勢いは凄まじい。即座にも、塁を破壊しかねない勢いの攻撃だ。
「もうすぐ、岐阜から援軍が来る。踏ん張れ、踏ん張れ―っ」
塁を守る安土織田軍の将兵達も、決死の声をあげる。
両軍の衝突が始まる。
そんな中、安土方の河尻秀長の部隊が、大坂方の井伊直政の部隊とぶつかる。
武田の旧臣を中心とした、井伊の赤備えである。
赤に統一されたその部隊を見て、秀長は憤った。
「おのれ、井伊直政っ!」
彼が憤ったのには、理由がある。
彼の父は、武田征伐後の甲斐一国を信長から与えられた河尻秀隆。
その秀隆は、本能寺の変の後に甲斐の情勢が不安定になった後、武田の旧臣である三井弥一郎――余談ながら、この三井弥一郎は中入り策を行った池田恒興の部隊との戦闘で討ち死にしている――によって討ち取られていた。
その武田の旧臣達をまとめあげ、甲斐を併呑したのだ他でもない徳川家康であり、その旧臣を預けられたのが井伊直政なのだ。
しかも、森長可らの信濃と違い、甲斐はそのまま家康が治め続けていたのだ。
……この戦いに勝ち、恩賞として甲斐を取り戻してくれる。
秀長はそう強く決意していたのだ。
「本来ならば、我が父の者であるはずであった、甲斐を掠め取った不届きものめがっ!」
秀長の声が、戦場に響く。
徳川の将からも反論が来る。
「何をほざくか秀長っ! そもそも甲斐を失ったのは貴様の父が不甲斐なかったからであろうがっ! それを我らに責任を押し付けるとは片腹痛いわっ!」
「黙れっ! 徳川の不届きもの連中も、甲斐の山猿共もまとめて儂が成敗してくれるわっ!」
そんな言葉の応酬をしながらも、戦闘は続行される。
だが、さすがに井伊の赤備えは精強だった。
兵の数では、ほぼ同数ではあったが直政の兵はさすがに鍛えられている。少しずつ、秀長の部隊は後退を迫られる。
倒れるのは、ほとんどが織田側の指物であり、赤に染まった井伊の指物はほとんど倒れない。
「何をしておるっ。死ぬ気でやらぬかっ!」
秀長の言葉も空しく、川尻隊の数は一人、また一人と減っていく。
だが、そんな状況であっても秀長は大声を張り上げ、馬腹を蹴った。
「儂に続けいっ!」
将自らの突撃に奮い立った川尻隊が盛り返しを見せる。
遅れを取るものかと、川尻隊に勢いがつく。さしもの井伊隊も、これにいくらか勢いを止められた。
だが、そこは井伊の赤備え。
すぐに巻き返しに図る。
「怯むなっ!」
秀長の強い叱声に、川尻隊も勢いがつく。
「うおーっ!」
が、そんな中、勢いよく突っ込んだ井伊隊の武者がいた。
突出していた秀長に、ぐさり、と勢いをつけた槍が突き刺さる。
「な……に……」
ほとんど言葉を吐き出す事もできぬまま、秀長の体がどさり、と馬上から落ちる。
「川尻秀長、討ち取ったりっ!」
井伊隊の武者の言葉が戦場に響き渡る。
秀長の討ち死ににより、川尻隊の勢いは再び失われる。
「よし、後は崩すのみだ。やれ、やれーっ!」
井伊隊の苛烈な攻撃の前に、川尻隊は一挙に後退を迫られた
「やはり、戦の風は良いわい」
愛用の武具である、蜻蛉切を愛しげに見つめながら戦場を駆ける男がいた。
徳川軍の将・本多忠勝である。
長久手での、中入り部隊を撃退したりはしたものの、長らく小競り合い程度しか起こらず、硬直状態になっていた中、ようやく起きた大激突である。
忠勝が興奮するのも無理はない。
……戦自体、久しいからのう。
何せ、徳川軍は九州征伐以降、ほとんど戦らしい戦を行っていない。
朝鮮遠征でも、徳川軍は名護屋城にこそいたが渡海はしていないのだ。
その分、この日の本を二分する合戦まで有力な将と兵を温存するというメリットはあったもののやはり根っからの武人である者たちには不満だった。
徳川軍の、将兵達の砂埃が凄まじい。
辺り一面の視界を塞ぎ、安土織田軍へと突撃をかける。
対峙しているのは、毛利秀頼だ。
秀頼も、桶狭間の戦いなどで武功を上げ続けた信長時代から使える歴戦の将。
忠勝の猛攻を防ぐ。
「相手が、本多忠勝であろうと恐れるなっ! 味方は敵勢よりも多いっ!」
毛利隊の隊長格の男の言葉が聞こえる。それに忠勝がにやり、と口角を釣り上げる。
「おおっ。言ってくれるの。確かに、人数では我が方が劣っておる。だが、人数で劣っていても兵の質は段違いぞ」
「そうよっ。我らは三河武士。織田の弱兵共とは違うっ」
「主に似て愚かな者ばかりよなっ」
「そうよっ。これまで、数で勝りながらも岐阜城や犬山城に臆病な亀のように閉じこ
もっておったくせにっ」
忠勝の言葉に、本多隊の面々が応える。
織田の弱兵、という言葉は曲がりなりにも共闘する織田信雄の配下達に無礼といえる言葉ではあったが、ここが戦場だという事もありそんなことに頓着するものは皆無といってよかった。
「おのれっ。言わせておけばっ!」
毛利隊がこちらに迫る。
「おおっ、織田の弱兵共も槍を向ける気概だけはあると見えるっ」
本多隊が応戦する。
本多隊と、毛利隊が激突した。
両軍が、兵を叱咤する声が戦場に響く。
が、それでもやはり忠勝は天下に名を轟かす名将。
かつて、三方ヶ原の戦いの際、「家康に過ぎたる者」と言わしめた男だ。
少しずつ、だが確実に毛利隊を押していった。
酒井家次は、小川祐忠の部隊と激突していた。
だが、人数ではほぼ同数でありながら劣勢となっていた。
「何故だっ! 何故押し切れんっ!」
家次の悲鳴に近い声が戦場に響く。
徳川家の重鎮・酒井忠次の跡を継いだ彼だが、今なお際立った功績を見せたわけではない。
家中での扱いも、「酒井忠次の息子」以上でもなければ以下でもなかった。
かつて、徳川軍の最高幹部達4人を示す「徳川四天王」という呼び方は消え失せ、今では酒井を除いた本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら3人の「徳川三傑」の呼び方の方が一般化しつつある。
康政は今、信州上田城にいるが、忠勝と直政はこの戦場で華々しい活躍をしているだけに、家次の劣等感はより強いものになる。
……儂は、酒井の跡継ぎだぞ。何故、認めようとしないっ。
そんな思いを募らせ続け、ようやく来た機会。
天下分け目となるであろう、この大戦での戦い。
……ここで、優れたところを見せつければ儂の力を皆が認めるっ。
そんな思いがこもっていたが、現実は厳しかった。
(やはり儂では駄目だというのか……)
それを自覚せざるをえなかった。
今この戦場で、酒井勢が劣勢にある。
その事が分かるぐらいの力量は家次にはあった。
そして、それを認める事ができなければ、凡将どころか愚将だとも。
「……」
しばしの沈黙の後、使い番に指示を出した。
「御屋形様のところにいって、援軍を要請してこい」
はっ、と使い番は頷き家康の本陣へと向かった。
やがて、徳川本隊から2000ほどの軍勢が応援に回されそれでようやく持ち直したのである。
家次の苦戦もあったが、全体的に見れば徳川軍の活躍により戦場は大坂方の軍勢優位に進んでいた。
「徳川にばかりいい思いをさせるなっ! 我らも加勢するぞっ!」
一方の、織田軍も意地を見せる。
そもそも、この戦いを主導するのは織田家のはずだ。
朝廷をだまし込み、「日の本への不義」などという大義を詐称し、織田家当主・信忠を謀殺し、当主の座を奪わんとする逆賊・織田信孝とその与党を織田秀信の命令の元、討滅する。
少なくとも、大義名分はそうなっている。
主力となるのは、織田秀信の後見役である織田信雄のはずだ。
織田信雄自身は大坂城にいるとはいえ、代理としてこの地で信雄軍団の指揮をとる信包らがこの戦場では主役のはずなのだ、本来ならば。
(ふん、徳川殿の助勢には感謝するし、そうでもしなければまともな勝負にもならなかったのは分かっておるが、必要以上に功績をあげられるのはおもしろくない)
信包はそんな不満が内心にあった。
仮に大坂方が勝利を治めたとしても織田秀信には、とても天下を束ねるような器量はない。
下手をすれば、織田と徳川の立場が逆転しかねない。
秀信の名目上の後継人には信雄はあっても、実質的な織田の支配者は家康ということになってしまう。
(そうはさせないためにも、織田軍団の強さを今一度見せつける必要がある。徳川殿にも、羽柴殿にもだっ!)
そんな信包の気迫は家臣にも伝播する。
「行け、行けーっ!」
「押せ、押せ! 敵勢を敗れ!」
大坂織田軍の勢いは強い。
安土織田軍は、次第に押されていく。
戦場は、大坂織田軍優位に進んでいった。




