80話 名護屋城5
「明智光秀め、手こずらせおる」
名護屋城攻めを行う、大坂織田軍の本陣。
その本陣で、羽柴秀次が言った。
秀次以外には田中吉政、石田三成、大谷吉継、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏らといった羽柴軍の武将達の姿がそこにある。
秀吉と共に、大坂へと向かった黒田孝高や福島正則らの姿もそこにはない。
朝鮮にいる加藤清正や小西行長らも同様だ。
「全く、後詰の見込みなどまったくないというのに……」
吉政もそう言って嘆息する。
「嘆くばかりでも仕方がないでしょう。何か、策を考えねば」
三成である。
「こうやって、この城を囲んで既に一か月。まるで戦果はあがっておらん」
吉晴である。
「何度か攻撃も試しみましたが、ほとんど失敗に終わっておりますし……」
強引に行われた、名護屋城攻めはどれも失敗に終わっており無駄に犠牲者を出しただけだった。
「結局のところ、このまま囲み続けるしかないというのか」
苦々しげに、一豊が言う。
「しかし、このまま囲み続けるのは問題がありますぞ」
宮部継潤が言った。
彼は、浅井家の旧臣。主家滅亡後、秀吉に仕えた。
この場の総大将である羽柴秀次を養子にしていた時期もある。それが、今ではその秀次の指揮下で戦う事になっており、その胸中は複雑だろう。
「宮部殿、問題とは?」
吉継が問うた。
「兵糧です」
大坂方と安土方に分裂している現状、本州から十分な兵糧は提供されていない。どこもそんな余裕などないのだ。
そのため、名護屋城攻めを行う包囲軍の兵糧の負担は、九州に所領を持つ大坂方の大名達の負担となっていた。
しかも、九州でも筑後の佐々成政や、豊後の大友吉統らも安土方として挙兵しているため十分な兵糧を彼らも補充できずにいた。
そんな中、3万もの大軍を養う兵糧を用意するのは大変な負担だった。
一刻も早くも名護屋城を落としたいという思いが、攻め手にはある。
「はっきり言って、何か月も囲み続ける兵糧はありませぬ」
継潤の宣言といってもいい言葉に、武将達は皆一様に苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。
継潤は、さらに続ける。
「一方の相手は、名護屋城に大量に備蓄してあった豊富な兵糧があります。しかも、兵の数もせいぜいが数千である以上、我が軍よりも消耗は少ない」
「このまま包囲を続けるのは得策ではないというのか」
秀次が言う。
「かといって、力攻めも難しいぞ」
吉継が言う。
これまで、城攻めを何度も試みている。
だが、少ない兵をうまくやりくりする光秀の巧みな采配を前に、包囲軍は無駄に兵と時間を浪費するだけで終わっていた。
「では、他にどうするというのだっ!」
苛立ったように、一氏が言う。
だが、その言葉に応えられるものはおらず、暗鬱な空気に場が支配される。
だが、意外な人物が沈黙を破った。
「ふん、どいつもこいつも情けない者ばかりですな」
金剛秀国である。
秀吉子飼が中心のこの場では数少ない、信忠軍団の一員である。
「ほう、それでは金剛殿には何やら策があるというのですか」
皮肉っぽい口調で三成が訊ねる。
「ある」
「何?」
まさか即答されるとは思っていなかったのか、三成は目を剥く。
「金剛殿、どういう事でござろう」
秀次が訊ねた。
秀国は、3万石ほどの小大名に過ぎないのに対し、秀次は西国の要・羽柴秀吉の養子だ。
格は秀次の方が遥かに上だが、秀国の直属の上司というわけではない。
その為、他の秀吉の子飼武将達と違って秀次の口調も他人行儀だった。
「羽柴殿や石田殿も知っての通り、某は光秀の元家臣。そして、名護屋城に籠るのはその明智の残党達が中心。某の顔見知りも多少はおります」
「うむ……」
秀次は頷く。
「その連中に、我が方に味方するように密かに声をかけておりました」
「何?」
ここ数十日、城内にかつての同僚がいる事を知った秀国は密かに繋ぎをとっていた。結果、当初は光秀の言葉に乗って名護屋城乗っ取りに参加したものの、今になってそれを後悔し出したものが少なからずいる事を知っていたのだ。
「決死の覚悟で籠ったとはいえ、50日も孤立無援の戦いを強いられてしまえば不安もでましょう。そんな連中に助命を条件に、内応の約束を取り付けました」
「しかし、義父上は、この名護屋に籠った者共を……」
撫で斬りにせよ、と命じていた。
「殲滅せよ、というのですか?」
秀国が言った。
「そうだ。義父上はそう命令しておったではないか」
「心得違いをしてはこまりますな。羽柴殿。我らの主君は、あくまで織田の当主。信忠様亡き今は秀信様のはず。断じて羽柴秀吉殿ではありませぬぞ」
「……」
じっ、と秀国の視線が秀次を射抜く。
「それは、そうだが」
秀次は言葉を引っ込める。
秀吉が信忠亡き後の、事実上のトップだとしてもあくまでも名目上のトップは大坂城にいる織田秀信なのだ。
秀吉が殲滅を指示したとしても、秀信がそれを取り消せば命令は無意味になるのだ。
「それで、具体的にどうするというのだ?」
一豊が訊ねた。
「内応を取り付けた連中に、午の刻(午後0時)に弾正丸と東出丸で騒ぎを起こさせます。その気に乗じて、一気に攻め寄せるべきかと」
「弾正丸と東出丸か……」
この二点を奪えば、三の丸は落ちたも同然となる。
「三の丸を奪った後は、二の丸に。結束を欠けば明智の残党など簡単に屠る事ができます」
「うーむ」
秀国の言葉に、秀次は揺れているらしい。
「分かった。その策でいくとしよう」
数分ほどの躊躇の後、秀次は決断を下した。
作戦が実行に移されたのは、次の日の昼間だった。
「殿、大変です!」
「なんだ、騒々しい」
本丸にて、見回りを行っている最中に明智光秀はその報告を受けた。
「寝返りです!」
報告をしたのは、光秀の旧臣の一人だ。
彼もまた、あの戦いを逃げ延びた一人であり今もなお光秀に仕えていたのだ。
「寝返りだと?」
光秀の目が大きく見開かれる。
「はい。弾正丸の守備についていた者たちが、どうも敵に内応したらしく。搦手口から敵が侵入しております」
「何という事だ……」
驚く光秀に、さらなる報告が入る。
「搦手口から侵入した敵、そのまま弾正丸へと突入しました!」
「弾正丸に入った敵、二の丸に突入! 防ぎきれませんっ!」
「東出丸の守備兵達も内応! 大手門を突破されましたっ!」
相次ぐ、凶報である。
「……」
黙り込む光秀の隣から、報告をしたのとは別の明智旧臣が怒鳴る。
「誰だっ! 誰が裏切りおった!」
「そ、それが……」
光秀の旧臣は、言いずらそうに告げる。
「ふん。なるほど、な」
だがどこか納得した様子の光秀の顔がそこにあった。
「おそらくはあの男よ、またもや儂に煮え湯を飲ませる気でおるらしい」
「は?」
「秀国よ、秀国」
「あ……」
その言葉に明智旧臣は驚いたような、ぽかんとした表情を浮かべ、次に強い怒りの色を見せた。
「またあの男ですか……」
「そうよ。羽柴秀次も、その与力の武将連中も我が軍との接点はほとんどあるまい。
だが、元儂の家臣であるあの男であれば話は別よ」
「弾正丸を守っていた兵共は、あの男に誑かされたと……」
「そうであろうな」
「おのれ……っ!」
彼も当然ながら、妙覚寺での秀国の裏切りを知っており、秀国に対して強い不快感を持っていた。
明智旧臣達は、憎悪の籠った表情を浮かべる。
だが、それに対して光秀の顔に憤りは見られない。
どこか、穏やかな表情を浮かべていた。
「ふん。それでも、50日もの時が稼げたのだ。安土にいる御仁にも、それなりの助けになったであろうよ」
その落城を覚悟したかのような台詞に、旧臣は慌てた。
「ま、まだ名護屋城は落ちたわけではありません! 二の丸に兵を集めて防げば……」
だが、そういう旧臣の言葉にも力はなかった。
こうなってしまった以上、明智軍の勢いは完全に失われ、戦場の流れは攻め手側へと傾いてしまったのだ。
「二の丸に突入した敵も直にこの本丸にまで、押し寄せよう」
どさり、と光秀は腰を下ろす。
「ここで儂は、腹を切る」
「と、殿。諦めるのは早うございます。何とか脱出し、安土方の者共と合流を果たせば……」
「無駄よ、無駄。名護屋城を脱出する前に、まず間違いなく捕えられるわい」
それに、と光秀は続ける。
「殺されるのであればまだいい。だがもし、生きたまま儂が捕縛されたらどうするというのだ。儂は、二度も織田の棟梁に背いた大逆人なのだぞ。そんな男が生け捕りにされでもしたら、どんな扱いを受けるか想像するだけでも恐ろしいわ」
そう言って光秀はははっ、と笑う。
まもなく落城する城の長だというのに、悲壮感はまるでない。
「ま、玉砕覚悟でこの城に籠った時から覚悟はできておったわ」
「……」
旧臣は涙を堪えるように、目頭を押さえる。
「ここで、お別れだな」
「……はい」
旧臣も納得したように頷く。
「腹を切る用意を」
やがて、短刀が用意され、白布が床に敷かれた。
「では、これで」
「お別れだな」
光秀の言葉に、旧臣も頷く。
光秀は、帯を緩めて腹部をさらけ出す。
「では、逝くとしよう」
光秀の短刀が、深々と腹部に突き刺さる。
「む、むぅ……」
腹部から、夥しい領の血が流れる。
「御免!」
刀を上段に構えた旧臣は、それを振り下ろした。
光秀の首が、胴体から離れ落ちた。
「殿の遺体を、織田の者共に晒すわけにはいかんな」
死後まで、その存在を穢されるような事があってはならない。
この場に、旧臣達は火を放つ。やがて、光秀の遺体も燃え始める。
それを見てから、旧臣はその刀で自らの命を絶った。他の旧臣達もそれに続く。
織田家の存亡に関わる変事に、二度も中心人物として関わった男がここで逝った。
享年64歳。
今度こそ、間違いない死だった。




