73話 名護屋城4
その頃、名護屋に残された名護屋城包囲軍はというと、あまりにも広大な名護屋城を見てうんざりとした気分になっていた。
「それにしても大きい、大きいのう」
羽柴秀次が嘆息気味に言った。
「何せ、亡き上様が金に糸目をつけずに朝鮮戦線の最前線として築いた城ですしなあ」
山内一豊もそれに同感するように頷く。
17ヘクタールにも及ぶ、広大な総石垣の城郭である名護屋城は包囲するものの士気を削ぐような広大さだ。
この位置からでもはっきりと見える、巨大な名護屋城の天守も「お前達には無理だ」と見下ろされるような圧迫を攻めて側に与える。
この城に籠るのがわずか数千といえども、とても侮る気にはなれなかった。
ましてや、籠っているのは織田家屈指の戦上手だった光秀なのだ。
人数の上では優位に立っていても、光秀の巧な指揮の前に包囲軍は度重なる攻城戦で敗戦を重ねていた。
「方針を転換するわけにはいかんのですかな?」
中村一氏が言った。
「方針の転換とは?」
石田三成が聞き返す。
「兵糧攻めにするとか……。名護屋城に後詰の見込みはありませんゆえ」
「愚策じゃ」
秀次が吐き捨てるように言った。
「長引いて得をするのは相手の方ぞ。こちらは、一刻も早く名護屋城を奪い返す必要があるのじゃっ」
そうしなければ、大陸遠征軍も帰ってこれないし大坂城の後詰にもいけない。
「それに」
田中吉政が秀次の言葉に付け加えた。
「兵糧という点では、むしろこちらの方が心配ではないかと……」
現在、名護屋城を包囲する秀次軍の兵糧は豊かとは言い難い状況だった。
彼らが食べている米は、九州の小早川隆景や黒田孝高といった大坂方についた大名達によって供給していた。が、元々大陸出兵の為に九州の大名は多くの兵糧の提出を義務付けられており、元々備蓄されている量は少なかった。
しかも、安土方についた佐々成政や大友吉統の手のものと思われる者達によるゲリラ戦法が展開され、兵糧を輸送する荷車を襲う。
これらの妨害により、まともに輸送できない事も多かったのだ。
「やはり、短期で決着をつける必要があるわけか」
うーむ、と一豊が唸る。
沈黙が場を支配する。
雰囲気は良くない。
「先ほどから黙っておるが、貴殿は何か意見はないのか?」
ここで、堀尾吉晴の視線がある武将に向けられる。
包囲する武将達の大半は、秀吉子飼の羽柴軍団ともいうべき者達だったが、一部は違う。
そのうちの一人が、この金剛秀国である。
「そうは言われてものう……」
秀国は、第一次晋州城攻略戦の後、名護屋に戻っていたのだ。
そのまま領国に戻る事なく、この地にとどめ置かれており、梅北討伐では秀吉に随行した。
以後は、大返しを行った秀吉軍には編入されず、この名護屋城包囲軍に残されていた。
「大体の所は、貴殿らで議論してしまったからのう」
実質的には、羽柴軍の幹部達で取り仕切られていたこの軍議で秀国が口を挟む事はほとんどなかった。
「それにしても、さすがは元我が主よのう」
「……そういえば、貴殿は元明智の与力でしたな」
吉政が思い出したように言った。
「よもやとは思うが、敵と通じてはおらぬだろうな」
三成が、疑りぶかそうな様子でその視線を鋭くする。
「まさかまさか。某は、この城に籠る御仁の謀反を上様に密告した男ですぞ。あちらも某など信用してはおりますまい」
ははは、と秀国は笑ってみせた。
「ともかく、じゃ」
秀次が周りを引き締めるように言った。
「相手が誰であれ、この巨城を落さない限り、朝鮮遠征軍が安心して撤退する事はできん。多少の犠牲はやむをえん。何が何でも攻めおとせっ」
秀次の言葉により、軍議は閉められた。
九州でのもう一つの大勢力である、島津家。
こちらはどうしていたかというと。
島津家を束ねる島津龍伯は、1万ほどの軍勢を率いて領国を発った。
目指す先は、安土方として挙兵した島津歳久、そして佐々成政の領土である。
だが、この日、島津軍は行軍を停止していた。
今日だけではない。
これまでに、何度も無意味な行軍停止命令を龍伯は出していたのである。
その龍伯は、宿場としている寺で茶を喫していた。
傍らに控えるのは、弟の島津家久である。
「……」
「……」
不気味なまでの、沈黙が場を支配している。
どちらも、言葉を発そうとしない。
龍伯が、茶を飲む。
そんな龍伯もじっと見つめ、家久も茶を飲む。
そんな事が繰り返され、半刻ほどの時間が流れた。
ここで、ようやく家久が口を開いた。
「……兄者」
ことり、と茶器を置く。
中の茶はまだ半分ほど残っているが、すでにぬるくなっている。
「……何じゃ」
実にゆったりとした仕草で、龍伯が聞き返す。
「このような事を、いつまで続ける気だ?」
「このような事、とは?」
「決まっておろう。長々と出陣を延期し、やっと薩摩を発したと思ったらこののろのろとした行軍。いつまでこんな事を続ける気だ」
「いつまで、と言われてものう」
そう言って、茶をまた口に運ぶ。
このままでは、いつまでも話が進む様子はない。
「兄者は、このまま問題を先送りし続ける気か」
「先送り、か。そうかもしれんの」
ふふ、と小さく龍伯は笑う。
彼の元には、二通の書状が届いていた。
言うまでもなく、安土方からの書状と大坂方からの書状だ。
既に、安土方として挙兵している歳久からの書状もある。
「歳久は、安土方として挙兵した。そして、安土方から誘いの書状が届いている。これは、その歳久や佐々殿を支援する為の軍勢なのか、それとも歳久や佐々殿を成敗する為の軍勢なのか。いつまで、兄者は答えをはぐらかす気だっ」
家久にしては珍しく、言葉に苛立ちが混ざっている。
「儂としては、兄者の命令であればどちらでもいい。安土方としても、大坂方としてでもだっ」
強い視線で、家久は龍伯を見つめる。
だが、龍伯の表情は変わらない。
「今のところ、我が島津家は旗幟を鮮明にしておらん。歳久兄者は既に安土方として挙兵したがの」
「しかし、歳久は儂らに一切の相談なく挙兵した。これは、島津家に対する反逆ではないかのう」
「反逆者であるから島津家とは関係ないというのか」
「そうは言わん」
実に優雅な仕草で、龍伯は言う。
彼は最近、京風の文化に興味を持ち始めているのだ。
「なるほど、確かに歳久は安土方として既に挙兵した。だが、義弘は朝鮮の地にいる。朝鮮の地にいる軍勢は、秀吉と親しい者ばかり。ならば、必然的に義弘は大坂方という事になるのではないか」
「なら、兄者は島津は大坂方として動くべきだというのか?」
「いや、違う」
龍伯は、首を横に振ると姿勢を動かす。
「当分、儂らは中立じゃ。歳久が安土方として働くなら、それは良し。義弘が大坂方として働くならそれも良し、じゃ。しかし島津本家は中立を維持する」
「……そんな事が許されるのか?」
「許される。儂らは島津じゃからな」
「理由になってないではないか」
「なっておる」
龍伯は悠然とした様子だ。
「仮に、この大乱終結後に日和見な態度を許さなかったとして、安土方、大坂方の勝者が儂らの征伐を決断したとして、この九州の最南端まで、兵を進めるのには難しい。儂らが下るというのであれば、それを受け入れよう」
それに、と龍伯は続ける。
「安土方であろうが、大坂方であろうが、島津に新たな価値ができた。何だと思う?」
「新たな価値……?」
家久が、困惑した様子だ。
そんな弟を、兄の龍伯はじっと見つめる。
「……海を隔てた先じゃ」
その言葉で、家久は思い至ったらしい。
「ああ、明の事か」
「それに、朝鮮や琉球じゃ」
ふふ、と龍伯は笑う。
「以前に、信忠は琉球の切り取りを島津に約束した。その言葉通り、琉球を儂が取れば、島津の価値は一気に上がる」
「……確かに」
家久は頷いている。
「明や朝鮮との戦は、泥沼に突入したからな」
「うむ。もはや、講和は容易ではなかろう」
今現在、朝鮮半島に在住していた織田軍は朝鮮からの撤兵作業に追われていた。
しかし、朝鮮全域に散らばっていた将兵達の撤兵は容易ではなく、しかも名護屋城は安土方に奪われたままなのだ。
未だに、朝鮮の地では激しい戦闘が続いている。
「大陸出兵が失敗に終わった以上、明との交渉口が必要になる」
元々、日明貿易が途絶えた事も今回の出兵の原因の一つだった。
が、このような事態になった今、日明貿易の復活も厳しいだろう。そんな中、明との関係で突破口になりえる存在があった。
「それが琉球、というわけか」
「その通りよ」
琉球王国は、この時は明の冊封国。
明とは緩やかな従属関係にあった。
が、九州征伐以降から、島津は琉球に圧力をかけており、大陸出兵の際には兵糧を提出させていた。
このまま事実上の勢力下に置き、明との窓口に使おうと龍伯は考えていたのだ。
「朝鮮との関係を修復するのは、容易ではあるまい。ならば、琉球を通じて明から利益を貪ればいい。そして、島津が琉球の事実上の宗主となれば、我らの存在は揺るぎないものとなろう」
「なるほど……。だから、安土方も大坂方も、島津を取り潰す可能性はないという兄者の読みか?」
「そうじゃ。儂は安土方にもつかんし、大坂方にもつかん――島津は中立の立場を取る。どちらが勝つにせよ、島津を取り潰すはずがない」
龍伯は、自信に溢れた顔のまま言うと、静かに茶を啜った。




